白い世界
青樹空良
第1話 森の中の少女
白い世界だった。空気はどこまでも冷たく澄んでいる。空は昨日の吹雪を忘れているかのように薄く青い。
ミハイルは息を吐き出した。白い塊が目の前に現れる。
白い。
白く静かな森の中で、ミハイルは自分だけが汚れたもののように思えた。出る息が白いのは、外気に触れたことで浄化されるからなのだろうかと思う。
どこかから、音が聞こえた。
ミハイルは辺りを見回す。首に巻かれている狐の毛皮が頬に当たる。
木の枝から雪が小さな雪崩のように落ちていた。いつもの光景だ。だが、ミハイルはその木の下にあるものに目を止めた。
すでに雪の中に埋もれかけている、小さなもの。
ゆっくりとミハイルは何かがある木の下へと近付く。用心しながら、雪を踏む。くっくと雪は音を立てる。
目の前に来て、ミハイルは立ち止った。しゃがみ込んで雪を払う。
人間だ。それも年若い少女だ。
大きな荷物を抱えて、少女は眠るように死んでいた。
ミハイルは少女を見つめる。このままにしておくべきか埋めてしまうべきか考えていた。
放置しておけば、森の動物たちの糧となるだろう。食料の少ない季節だ。
それとも、埋めてやるべきなのか。今度ここを歩いた時に、人間の骨が転がっているというのもあまりいい気分ではない。
それならば、すぐに埋めてしまおうとミハイルは手を伸ばした。すると少女がわずかに身じろぎした。見間違いかとミハイルは目をこする。皮で出来た手袋を取って、ミハイルは少女の鼻の下に手を当てた。
かすかだが、少女には息があった。
ミハイルは手を引く。よく見ると少女の胸のあたりが上下しているのがわかった。
死んではいない。
ミハイルは考えた。さっきよりも難しい問題だ。
少女の口の辺りがむずむずと動いた。
しばらく動きを止めてその場に座り込んでいたミハイルは、ようやく立ち上がって少女を担ぎ上げようとした。少女の手は大きな荷物を放さない。
ミハイルは少女の手から荷物を取り上げると、片方の手で少女をもう片方で荷物を持った。
少女が一人で持っているにはあまりにも大きいが、思ったよりも重くはなかった。
「ん」
小さく少女が呻く。
ミハイルはびくりと一度肩を震わせた。
◇ ◇ ◇
乾いた木がはぜる音が時折部屋の中に響く。暖炉では暖かそうな色の炎が燃えている。炎の上には鍋がつり下げられ、スープが煮込まれている。石造りの壁と窓に打ち付けられた雪よけの木で、部屋の中は外気と遮断されていた。
ミハイルはほとんど家具のない部屋の中にある木製の椅子に座って、猟銃の手入れをしていた。
ミハイルの大きなベッドの上にある毛布がこんもりと膨らんでいる。本来の主であるミハイル以外が眠っているなど、これまでに一度も無かった。
小さなくしゃみが部屋の中に響いた。毛布が動く。
ミハイルは立ち上がった。警戒を怠らずにベッドへと近付く。顔が見える範囲で、遠くから少女を眺めた。
少女が目を開ける。何度か瞬いた後、少女はミハイルへと目を向けた。
驚いたように少女が目を見開く。
ミハイルはその場から立ち去りたくなった。やはり、拾ってくるべきではなかったのだと後悔する。
少女はふらふらと立ち上がりミハイルへと向かってきた。
ミハイルは後ずさる。それでも少女はおぼつかない足取りで確実にミハイルに近付いてくる。
また罵られるのだ。そして、逃げ出すに違いない。
背中が壁に当たる。ミハイルに、もう逃げ場はなかった。
少女が目の前に来て立ち止った。少女はあろうことかミハイルの体に縋りついた。
ミハイルは言葉が出なかった。茫然と少女を見つめる。
「な、何を」
ようやく我に返ったミハイルは少女を引き剥がした。人に向って発した久しぶりの言葉だった。
少女が悲しげな瞳でミハイルをみつめる。ミハイルは顔を背けた。
考える。
こんなおかしな少女をミハイルは見たことが無かった。怯えて逃げ出すどころか、縋りついてくるなど正気とは思えない。
ミハイルはもう一度少女を見た。確かめたかったからだ。
もう一度見てもやはり、少女の目には怯えも、憎しみも、恐れも浮かんでいなかった。
火事で焼けただれたミハイルの顔を見ても、少女は澄んだ目でミハイルはみつめていた。不思議そうに首を傾けて、少女は崩れ落ちた。
意識を失ったようだ。無理もない。生きていたのだからそう長いことではないだろうが、雪の中に倒れていたのだ。
ミハイルは息を吐き出す。しゃがみ込んで足元に倒れている少女を見た。一体何を考えているのかミハイルにはわからなかった。
ただ、少女が取った行動の理由を聞いてみたいと思った。
ミハイルは少女を抱きあげるともう一度ベッドへと寝かせた。
◇ ◇ ◇
今度は長い間隔を置かず、少女は目覚めた。
ミハイルの顔を見ても、もう縋りついては来なかった。ミハイルを見て首を傾けて、それからようやく自分の置かれた状況に気付いたらしく周りを見回した。
少女の視線が一点で止まる。少女の持っていたあの荷物だ。飛び起きて荷物へ向かい、中を確かめると、少女はほっと安心したような息をついた。
「何も心配無い」
少女がミハイルの顔を見た。さっき起きた時と違い、やはり少し驚いたような顔をする。これが正常な反応だ。
人違いにしても、ミハイルのような顔をした男はなかなかいるものではない。少女はミハイルに近付いてきて、顔に手を伸ばそうとした。ミハイルはとっさに体を引いて少女を避けた。
少女はその場で立ち止った。悲しげな顔をして頭を下げる。謝っているようだった。
こんな反応をする人間に出会ったのは初めてだった。ミハイルはどう接していいかわからずにいた。
いつもなら顔をしかめられたり、あからさまに恐怖の表情を浮かべられたりするだけだ。好んでミハイルに近付いてくる人間など会ったこともない。
少女が何を考えているのかミハイルには全くわからない。
少女の腹の虫が音を立てた。
「いるか?」
ミハイルは暖炉に掛かっている鍋を示す。少女はぱっと顔を明るくして頷いた。
ミハイルは鍋から器にスープをよそって、テーブルの上に置いた。少女は体に似合わない大きな椅子に、よじ登るようにして腰掛ける。ここにはミハイルしかいない。少女に合ったサイズの家具などあるはずもなかった。大きなミハイルに比べて、少女はとても小さい。
もちろん椅子は一脚しかない。
少女は夢中でスープを食べ始める。ミハイルはベッドに腰掛けることにした。
さっきから少女は一言も話さない。口も開かない。まるで森にいる動物にでも餌付けしているようだ。
ミハイルは一つ深呼吸してから口を開いた。
「どうしてあんなところに倒れていたんだ?」
日常的に人間と話していないせいで言葉が通じていないのかと心配になる。
少女はスープを食べる手を止めてミハイルを見た。しゃべろうとしているように口を動かしているように見えたが、声は出ていなかった。少女が悲しげに眼を伏せて、首を横に振った。
「もしかして、話せないのか?」
ミハイルは目を瞬かせた。焼けただれた皮膚が引き攣る。
こくり、と少女が頷く。自分のカバンから筆記用具を取り出して、紙に何事かを書きつける。短い言葉だった。もしかすると、名前なのかもしれない。だが、ミハイルにはただの線の塊にしか見えない。
「俺は字が読めない」
少女の目が落胆の色に染まる。どうやら言葉を聞き取ることは出来るようだ。
「俺はミハイルだ」
少女がそっと口に端を持ち上げて笑う。名前を教えてもらったのが嬉しいように見えた。
自分の名前を言おうとしているのか、少女も口をもごもごと動かしたがやはり言葉は出なかった。
どうしてあんなところに倒れていたかは、聞き出せそうになかった。だとすれば、もう一つの疑問も聞けるはずもない。
「どうして、俺の顔を見て驚かない」
ミハイルの言葉に、少女は必死で何かを訴えようとした。けれど、声にはならない。どれだけ待っても聞けそうにない。
「もういい。スープが冷める」
少女はまだ何かを言いたそうにしていたが、諦めたようにもう一度スープを口に運びだした。
名前もわからないこの少女は、いつまでここにいるのだろうかとミハイルは思った。スープを食べ終わったら行ってしまうのだろうかと。
ミハイルが人間に興味を持つなど初めてのことかもしれなかった。
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