第4話 イヴァンの絵

 再びイヴァンがやってきた。近いうちにという言葉に違わず、まだ前に来てから三日しか経っていなかった。

 まだ昼にもなっていなかった。ミハイルは森へ出掛けていた。ミハイルが出掛ける時、少女はいつものように白い森を描いていた。前よりもペースが速いのは、もうすぐ新しいスケッチブックが届くと知っているからだろう。

 昼ごろになって家に帰って来た時に、ミハイルは家の前にイヴァンの犬ぞりがとまっているのを見つけた。ミハイルは歩みを速めた。

 少女がイヴァンに連れ去られてしまうかもしれないと不安になった。そりに乗せられては、ミハイルには追いかけていくことが出来ない。

 少女を呼ぼうにも、ミハイルはその名を知らない。

 だが、家に辿り着いたミハイルは心配が杞憂だったと知った。少女はいつもと変わらず森を見て筆を滑らせていて、イヴァンはその後ろから少女の手付きを眺めていた。


「イヴァン!」


 ミハイルは叫んだ。

 びっくりしたのは少女の方だ。余程集中していたに違いない。後ろを振り向いた少女はイヴァンがそこにいることに、まず驚いていた。

 少女はミハイルに一度目を向けてから、イヴァンを見て軽く頭を下げた。


「驚かせてすまないね」


 イヴァンは笑った。だが、その顔は多少引き攣っていた。ようやくミハイルは気付く。イヴァンと顔を合わせるのにフードを被るのを失念していた。ミハイルは慌てて首に巻いていた風よけの布で顔を覆う。

 それでも、まだイヴァンの顔は固まっていた。だが、ミハイルは謝らなかった。幼い頃に火事に遭って焼けてしまったこの顔を見せるのに最近は慣れてしまっていた。少女は何も言わない。

 そりに繋がれた犬たちの息の上がり具合から、まだイヴァンは来て間もないのだとわかった。


「約束のものを持って来たんだ」


 イヴァンは無理やり笑って犬ぞりへ向かうと、荷台に置かれた荷物を解き始めた。少女がイヴァンに駆け寄った。正確には荷台から出てきた物に、だ。

 少女は目を輝かせてイヴァンが取りだすものを見ていた。

 スケッチブックに絵の具、それから、キャンバス。

 本当にそろそろ少女の持っていた分が尽き掛けていた。少女が持てる量にはあれくらいが限界だったに違いない。それでも少女が持つにはぎりぎりの量の荷物を持っていたのだ。あれでは雪山でなくても、どこかで行き倒れていたかもしれない。


「少しお邪魔してもいいだろうか」


 イヴァンがミハイルの住んでいる小屋を見る。


「ああ」


 本当ならあまり通したくなかったのだが、他でもないイヴァンの頼みなら断る訳にはいかなかった。イヴァンがここに生活物資を運んで来てくれなくなると、ミハイル自ら町まで買い出しに行かなければならなくなる。それは出来る限り避けたい事態だった。

 少女がミハイルに視線を送ってくる。まだ描きかけらしい。


「そのまま描いているといい」


 少女がほっとした顔になった。

 だが、そろそろ少女が腹を空かせる時間だ。

 イヴァンは荷台から少しの荷物を下ろして持ってくる。全てが絵に係わるもののようだった。今回は食料などを持ってきていないようだ。なにしろ三日前に来たばかりだ。あまり大きくない小屋なので、不必要なものを持ってこられても置く場所も無い。


「中に運べばいいよな?」


 イヴァンが荷物を指したので、ミハイルは頷いた。

 少女は再び絵を描くことに熱中している。


「食べていくのか?」


 もうすぐ昼だ。どういうつもりなのだろうと、ミハイルは聞いた。


「ミハイルさえよければ」

「構わない」


 イヴァンがそんなことを言うのは初めてだったのでミハイルは驚いたが、断らなかった。人数分の椅子も無いが、食器は形の違うものでもよければなんとかなるだろう。


「少し彼女を見ていてもいいだろうか」


 イヴァンは荷物を適当なところに置いてから、窓の外にいる少女を見た。


「驚かさないように頼む」


 あまり拒否するのもおかしいとミハイルは思った。考えてみれば、ミハイルは少女の保護者でも、ましてや恋人でもない。だとしたらなんだというのか、ミハイルにはわからなかった。

 イヴァンはミハイルをじっと見た。


「なんだ」

「いや、言葉が前より滑らかになっている気がしてな。口数も多くなった」

「ああ」


 確かに、少女が来てからミハイルは言葉を口に出すことが多くなった。滑らかに出るようになっていたとしても不思議ではない。


「言葉の話せない人間と暮らしているのに、不思議だと思ったんだが」


 ミハイルはむっとした。まるで疑われているように感じたからだ。


「片方が話さなくても、言葉は使うものだ」

「口が聞けないのを疑っている訳ではないよ。何か事情でも無ければ、こんなところにはいないような娘だろうからな」


 言ってしまってから、何かに気付いたようにイヴァンは口をつぐんだ。今の言葉が失礼だとわかったらしい。

 ミハイルが自分で思っている分には何も問題は無いのだが、他人から言われるのは、やはりいい気分ではなかった。

 そそくさとイヴァンが出ていく。きっと少女の絵を見に行ったのだろう。

 ミハイルも少女の絵は好きだ。だが、イヴァンが執着するのはまた別の理由な気がした。商売にでも結びつけるつもりでは無いかとミハイルは思っていた。

 そうだとしたら止めるべきなのだろか、とミハイルは思う。ミハイルの勝手な考えかもしれないが、少女はそんなことを何も考えずに、ただ森を描いていた方が幸せだと思えるのだ。

 いや、とミハイルは思い直す。本当にずっとここにいることが少女の幸せだろうか。言葉が話せなくとも少女のような才能があれば十分に町でも暮らしていけるのではないだろうか。

 ミハイルはまとまらない思考のまま食事の支度に取り掛かることにした。

 ミハイルが二人を呼ぼうと外に出た時、少女の前にはイヴァンが立っていた。

 最初は何をしているのかわからなかった。だが、すぐにミハイルには理解出来た。

 少女はあいかわらず筆を走らせている。目の前にあるのは森ではない。

 ミハイルは少女の後ろへそっと回った。絵を描いている時の少女は余程のことが無い限り、周りの動きにさえ気付かない。案の定、ミハイルは気付かれずに少女の背後に回ることが出来た。

 イヴァンはミハイルに気付いたようで、視線だけを動かしていた。

 少女の手から生み出されているのは森では無かった。スケッチブックの上には確かにイヴァンが描かれていっている。簡単なものだが、確かにそれはイヴァンの顔だった。

 キャンバスに描かれている絵を除いて、白い森以外の少女の絵を見るのは初めてだった。

 ちょうど描き終えたようで少女は顔を上げてイヴァンへと近付いていった。

 どうぞ、と声が聞こえてきそうな様子で少女がスケッチブックのページを破ってイヴァンに渡す。


「ありがとう」


 イヴァンが破顔した。

 むっとしながらミハイルは二人に近付いた。何故白い森以外描かなかった少女が初めて描いたものがイヴァンの顔なのだろう。ミハイルには理解できなかった。


「見てくれ」


 イヴァンはミハイルの気も知らないで嬉しそうに絵を見せてくる。少女も何ら気にしていない様子で、ミハイルが近付いて行くのを見ていた。


「どうしたんだ?」

「森の絵を持って行かれるのが嫌ならば、私を描いてくれないかと言ってみたんだ。そうしたらな」

「そうなのか?」


 少女は頷く。

 簡単な理由だった。けれど、納得できた訳ではなかった。

 ミハイルの機嫌が悪いのは顔がはっきり見えずとも伝わったらしい。


「帰ることにするよ」


 理由がわからなくても退散する方がいいと悟ったらしい。


「本当にありがとう。大切にするよ」


 イヴァンは少女に礼を言うとそそくさと去っていった。去り際にまた近いうちに来るから、と言うのも忘れていかなかった。

 見る間に犬ぞりが遠ざかっていく。ミハイルは少女と二人でイヴァンを見送った。

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