第25話


 函館旅行は、思いの外楽しいものとなった。親しい仲間と行けたことも、まるで修学旅行のようで、全員が大いに若返りを喜んだ。杏子はゆっくりと温泉にも浸かり、女子の恋バナを展開してみた。男子は男子で、まるでやんちゃ坊主が3人揃ったようで楽しそうだった。杏子は思った。『別に思い出つくりをしたいわけじゃない。。。』賢三のことをもっと知って、できなかった後悔を残したくない。ずっとそばにいてくれるって言っているのに。。。人はそれを生き急ぎというだろうか?


「松前漬けは、評判良かったね! お祖父ちゃんの喜ぶこと! でも、一袋多かったけど、誰のため?」


「あ、あれな。売ってたオバちゃんが、人へのお土産ばかりで可愛そうにって、俺のためにくれたんだよ。つまり、おまけ!」


「なにそれー その袋が一番大きいじゃん(爆笑) 何処に行っても人誑しね、賢三くん。。。」


「そうかな。。。ま、それも悪いことじゃないし、人を騙しているわけじゃないからさ、お礼を言って、ニッコリと受け取ったよ!(笑)」


 賢三は大学の方でもそろそろ忙しくなってきていた。卒論もほぼ完成していたが、学校に足を運ぶことが多かった。毎日が過ぎていくことが、少し不安はあったが、杏子に劇的な異変があったわけではないので、普通に暮らしていられた。駅から大学に歩く道すがら、目に入るものはこの時期の独特な風景だった。各美術館や博物館は、いろいろな芸術団体の賞が決まり、展覧会と同時に、受賞者が称えられる毎日のようだった。今日は書道の有名な賞が、現役の高校生に与えられたということで、報道陣も多く、混み合っている東京都美術館だった。前を通ってみると、その大賞を取ったという高校生が報道陣に囲まれてインタビューを受けていた。遠目に見ていると、ひょろっとした背の高い高校生が、なんとも堂々としているところが見えた。すると、その高校生は空を仰ぎ『いい加減に帰りたい』とでも言いたげな表情をしているのが分かった。その様子を見ていると、向こうが気づいたせいか、賢三と目があった。『助けてくれ!』と言われているような気がした。とんでもなく高校生離れした風格を持つ男子だった。 まぁ、他人事で、関係ないので『頑張れ少年!』と頭の中でつぶやき、早足にして大学に急いだ。これが後に同じ職場で再会し、なぜか気の合う同僚高校教師になる西田由紀夫ということは知る由もない。


 ドタバタと忙しい毎日を送っていると、あっという間に大学の卒業の日となった。賢三と一ノ瀬は、高校教諭として採用が決まっている。他のバンドメンバーと美術科の絵美里は、大学院へと進学が決まっているので、気分的に余裕があった。卒業式にはこないだろうと思われてた翔平が来ていた。翔平は親には来てほしくないが、自宅の管理を任せている嶋田さん夫妻には来てほしいと伝えたようで、嶋田さん夫妻は、感無量で目を赤くしていた。翔平の目的は杏子に会えるだろうと踏んだからだった。 杏子は、スタジオミュージシャンとしての仕事が立て込んでいて、忙しい毎日だった。外側からは、何ら変化ないように見えたが、少し痩せて見えた。賢三がいろいろな人達と挨拶をしている間に、翔平は目ざとく杏子を見つけ、駆け寄っていた。


「卒業祝いだから、杏子ちゃんからハグしておくれ! 俺からだと賢三に怒られるし。。。」


そう言って、両手を広げて杏子のハグを待っていた。杏子も躊躇なくしっかりと抱きしめてあげた。


「あぁ、幸せ、俺。・・・杏子ちゃん、少し痩せた。。。でも、相変わらず綺麗だし、良い匂い。」


「翔平は、いい子にしてたの? 嶋田さんご夫妻に迷惑かけてない? 美津子さんと陽介さんのところには行ってるの?」


「嶋田さんたちは、今日来てるよ。親には来なくていいって言ったけど、嶋田さんたちには来てほしかったから。今日は逗子に帰る。どっちにしても、大学院に進むだけだし、俺の生活は変わらないよ。ただ、賢三と一ノ瀬がいないのは痛い。賢三がいると曲が作れるし、やる気が起きる。今度また、逗子の家に来ない? 賢三も一緒でいいから。。。」


「あの家は素敵よね。うん、また行こうかな。いつ歩けなくなるかわからないし。。。あの家の周りを歩いて、家の裏庭から海が見たい。」


「今日来てもいいよ。」


「ははは、今日はだめだよ。賢三だって、泥酔しそうだし。。。」


「アイツは付き合いが良いからね。。。あのさ、杏子ちゃんが歩けなくなっても俺が抱っこして連れていけるよ。賢三だけじゃないから。『Irresistible Bliss』 を吹いてあげる。あの曲は杏子ちゃんのことを考えながら吹くとさ、クラブではすごく受けるんだよ。だから君だけに吹いてあげる。」


「うん。ありがとう。翔平の『Irresistible Bliss』は、最高よね。でも、私は大丈夫よ。賢三がなんとかしてくれる。翔平にできることは、ずーっといい子でいてくれること。。。それが私を一番嬉くさせてくれるよ。」


 翔平の腕に力が入った。このままだと怒り狂った賢三が突進してきそうだ。杏子は若干身を構えていた。翔平の腕は少し緩んだが杏子を放そうとしなかった。振りほどいてしまうと翔平には逆効果で悪い結果も考えられるし、それよりも、以前よりも確実に力が入らない。いつの間にこんなに力が入らなくなったのか?? 杏子は悲しかった。少し離れたところにいた彩子がそれに気づいて駆け寄ってきた。賢三に観られたらマズイと思ったようだ。杏子は彩子の気遣いに感謝した。


「はい、はい、翔平くん。杏子さんが痛いってさ。駄目じゃん。私で我慢しなさい!」


そう言って、2人の間に割り込んだ。


「彩子も良いんだけどさ『Irresistible Bliss』 は、杏子ちゃんだけなんだよ。。。ごめんな。でも、彩子も好きだよ。今度セックスしようぜ。」


「おい。。。翔平と、もう2ー3年いっしょに、この大学にいると思うと不安だわ。。。グーパンチしたらペット吹けないからな。。。股間を蹴りあげてやるから覚悟しといてな、天才。どっちにしても美津子さんに言いつけてやるからな。」


 翔平はニコニコしていた。彩子は大学内での美津子さんの役割を担っているようだ。杏子はホッとした。自分がいついなくなるかわからないとなると、美津子さんだけでは限界がある。でも、彩子にも彼女の生活と青春があるから、注意を翔平だけに向けるわけには行かない。彩子に好きな人ができたら、翔平に構ってはいられなくなる。ただ、杏子はなんとなく彩子が翔平のことを特別視していることが分かっていた。ネジの外れた男だが、女なら誰もがそそられる外見をしているだけじゃなく、そのトランペットはセクシーだからだ。彩子のピアノとの連携は素晴らしいものがある。翔平も少なからず彩子にだけは、自分のトランペットを合わせてもらえると思っているし、曲のアレンジは彩子だけに頼んでいるようだった。音楽に関しては信頼しあい、暗黙のうちに惹かれ合っているのかも知れない。もしもそうなら、杏子は安堵できる気がしている。ただ、彩子はとことん翔平に振り回されることを覚悟しなければいけないが、盲目的な愛情にならなければ、彩子の身を滅ぼすことはない。そういうところは翔平は変にわきまえている。美津子さんがいてくれることが救いだ。

 

 自分の時間がどれくらいあるのかが分からない杏子は、自分がいなくなった後も賢三と仲間が幸せになってほしいと願っている。賢三が大学を卒業し、新たな世界が待っている。たくさん良い出会いがあってほしい。自分とどれくらい一緒にいられるのか。。。思い残すこととか後悔はしたくないものだ。体は動かなくなっても脳は大丈夫だという。。。それって、生き地獄だ。できれば何もわからなくなってしまいたいと願うだろう。精神科の予約も必要かもしれない。

 今日この定期検診は、何ら変化がない限りは2ヶ月に一度だった。神経内科だが、産婦人科の井上先生にも報告のために連絡している。賢三は定期的に井上先生とメールのやりとりをしているようだった。


「早苗さん、林さんのご主人の賢三くんが、私達をライブに招いてくださったよ。子どもたちを誰かに任せて観に行ってみない? 杏子さんも歌うって言ってくれているようなんだけど。本牧にあるライブハウスらしい。」


「そうですか。杏子さんも出演なさるなら行きましょう! ところで、彼女の病気、進行具合はいかがですか?貴方の担当ではないけど、かなり調べてもらってますよね?なんとか、救えないものでしょうかね。。。」


「うん。。。今の科学力では無理みたいだね。。。それでなくても女性が遺伝するのは比較的に稀だし、どう進行を遅らせるかに集中してもらっているんだ。例え新薬ができたとしても、彼女で治験はしたくないしね。。。でも、彼女ならやってほしいと言いそうだな。。。」


「そうね。。。昔の私ならやってほしいと言えたけど、今は嫌だ。 確実に寿命が伸びるとわかるもの以外はもう嫌。子どもたちがいるから、できるだけ長く一緒にいたいから、リスクを犯したくなくなってしまった。上手に付き合えることを、多分杏子さんも望んでいるのではないかしら? 上手に付き合って、現在のままでいられないの?」


「現状維持をどこまでできるかは、謎のままだね。。。進行の状態によっては、彼女が精神的にどう耐えてくれるかにもかかってくる。歌えなくなること、最愛の夫の顔が見えなくなること、何をするにも介助が必要になるし。。。それを最愛の人にやらせることを彼女が望まないとすれば、早く旅立ちたいと思うかも知れない。生き地獄だよね。。。」


「あぁ、なんとかしてあげたい。。。私は自分へのリスクで子供を諦めたけど、彼女は、子供への遺伝を防ぐために、あれだけ欲しかった子供を諦めなければいけなかった。私達のように養子を迎えることもできない。精神力のある女性だからこそ、観ていて辛いだろうと思うの。旦那さんの精神的なサポートも、考えてあげてね。」


「うん、分かってる。彼はね、とっても興味深い人なんだ。杏子さんに言わせると『人誑し』なんだそうだ。(笑)面白い言い方でしょ? でもね、彼とほんの少し話すだけで、引き込まれてしまうような魅力があるんだよね。早苗も、すぐに分かると思うよ。まぁ、見た目は、ちょっと悪そうなイカした、でも、元気いっぱいのジャズマンだけどね。楽しみにしててね。」


 卒業の直後で、みんな浮足立っている感じのライブは、多分、社会人になる2人の重要なメンバー、林賢三と一ノ瀬晶が、気軽に参加できる最後のライブではないかと思われた。杏子が歌ってくれるというだけで翔平も機嫌が良くて、トランペットの調整に余念がない。美津子さんも静視している。 井上先生と奥さんの早苗さんは、こういう雰囲気のジャズクラブに来るのは初めての様子で、少し緊張している。それを察して、一ノ瀬の彼女、絵美里がエスコートに走った。


「はじめまして、私は上条絵美里といいまして、林夫妻の友人です。今日は、お忙しい中、トレイターズのライブにお越し下さり、ありがとうございます。井上様ご夫妻のことは伺っていて、ご案内するように賜ってていますので、わかりにくいことがありましたら、どうぞ遠慮なく私に申し付けてください。さ、どうぞこちらに。暗いですよね。。。でも、大変に良くできたライブハウスですし、ここからが一番良さそうだと林賢三に座席を促されています。お席を立ちたいときも、ここなら目立ちませんし、賢三くんと、特に杏子さんの表情がよく見えるはずです。私はお隣に座らせていただきますので、よろしくお願いいたします。」


 絵美里はバンドに関係がないので、普段は一ノ瀬の後ろにいることが多いが、今日はなにかの役に立てることが嬉しかった。一ノ瀬くんも絵美里が席案内しているところを遠目に見ながら満足そうだ。


 選曲は、まずは翔平を乗せるためのトップに選んだのが『Joshua』 更には、『Blues On Sunday』で賢三を前に出すことにしていた。井上先生と早苗さんは、圧倒された。早苗が大学の音楽部に所属していた頃は、ジャズを演奏した友人もいたが、自分には全く縁がなかった。ジャズクラブの独特の雰囲気が、少し怖かったが、入ってみると、礼儀正しいウェイターさんたちと楽しそうに小声で話す常連客風の壮年の紳士。場所柄からなのか、外国人も多い。女性たちは若くても品を感じさせる。ジャズとはとても寛容なのだと思わせられた。熱気あふれるロックコンサートとは違うが、陶酔できる雰囲気がある。ときには自分勝手な酔い方もあるのだろう。。。それがお酒からとは限らない。それも十分に踏まえている出演者たちとお店側の配慮。同じ音楽を愛する者として、早苗は心地よさを覚えた。井上先生は、その表情が観られたことが嬉しかった。

 そして、杏子の登場となった。緊張しているのが見て取れるが、賢三と翔平が左右で囲うようにに彼女を支えているのが分かった。ピアノの彩子は泣きそうな顔をしている。 小さいながら、ステージの最前列でスタンドマイクを使って歌うのは、いつ以来だろう。。。ゴーグルもなし。でも、オーナーがわざと客席の照明をギリギリまで落とし、彼女の傍らに最愛の夫は優しくサポートしてくれている。彼女は最初に『Nights in Tunisia 』を選んだ。 上手い! 比較的小柄な体からは想像できない迫力ある声量だ。賢三と翔平の絡み方が彼女のヴォーカルを最大限に引っ張り上げているのが良く分かった。その後に3曲、杏子にとってはそれまでなかった長丁場となった。上手く歌えている。杏子自身も満足している感じがよくわかり、賢三は泣きそうだった。杏子は、何度かマイクスタンドに手をかけた。昔からの曲があるのを止められなかったようだ。ちょっとした、その仕草が、賢三にとってはものすごくセクシーに見える。それは翔平も同様に感じるものだった。数回のそういった仕草の中、井上先生だけは、違うものを観ていたようだ。微妙な手の筋肉の痙攣だった。多分杏子自身ですら気づいていないだろう。それでも今日のライブ演奏は、トレイターズの演奏の中で最も素晴らしい出来だった。ストンプのオーナーは、しっかりと録音した。ライブアルバムを作ろうと持ちかけるつもりらしい。誰も反対する人はいない。誰一人として、このライブを批判できないと確信があった。


 井上和也医師は、悩んだ。。。まずは夫である賢三に話しておくべきだろう。進行していると。。。定期検診前だが、分かっている方が良いはずだ。すべてのプログラムは終わり、アンコールは3曲もやった。杏子の歌うナンバーも1つだけ入れた。それが一番受けていた。


「井上先生と早苗さん、今日は来てくださって、ありがとうございました。早苗さん、これが杏子です。歌、上手かったでしょ?」


「はじめまして、杏子さん、井上の家内です。素晴らしい歌唱力で、感激しました。そして、林さんのバンドは、すごいですね。私が大学の頃は、ここまでプロに徹したジャズバンドをやっている人たちは少なかったと思います。こんな体験、初めてです。これからも主人とコンサートに行くことにします。」


「杏子さん、体調はいかがですか?」


「はい、おかげさまで気になることもあるのですが、生活に支障がないせいか、やり過ごしています。ただ、ちょっと疲れやすくなりました。。。」


「無理は禁物です。休み、休み、上手に付き合ってください。賢三くん、今日はこの上条さんに色々とやっていただきました。助かりましたよ。ベース奏者の方の彼女さんだそうですね。お礼を言ってこようかな。。。賢三くん、紹介してくださいよ。」


「はい、じゃ、ちょっと先生を一ノ瀬のところに連れて行くね。杏子は早苗さんと話ししててね。翔平なら彩子とみっちゃんが抑えてるから大丈夫だよ」


 賢三が一ノ瀬のところに井上先生を連れて行く間に、井上先生は杏子の状態は進行していると耳打ちした。賢三の体は一瞬、凍ったようになった。


「先生、それって。。。」


「今すぐ、どうこうじゃないと思う。ただ、良いと思ってやらせすぎることはやめたほうが良い。彼女のショックも大きいからね。」


 一ノ瀬のところまで行くと、3人でにこやかに談笑できていたが、実は杏子の病状のことだと分かっていた。一ノ瀬にも聞いてもらい、和んでいるように見せて、実は賢三は、動揺し、焦っていた。一ノ瀬は、自分を入れてもらえたことが偶然とは言え、知れてよかったと思ったが、あまりにも残酷な内容で、自分の大切な友達の顔を見ているのが辛かった。


「先生、ありがとうございます。4月から、俺が忙しくなってしまうのですが、できるだけ誰かと一緒にいてもらうようにするべきですね。。。」


「いや、多分今のままの生活を続けるべきです。彼女も自分で気づくようになりますよ。そのときに隠さないでほしいことを賢三くんが十分に伝えておくべきでしょう。彼女は辛くても辛いと言わないのではないですか? わがままを言われるよりも辛いですよね。隠すことは慰めにもならないと言うほうが彼女には伝わりやすいかも知れません。」


「なるほど。。。辛さや不自由さを隠すのは、俺を困らせるだけだと言えば、分かってくれるかも知れません。」


「多分、早苗、あ、僕の奥さんね。彼女が何らかのヒントを上げるのではないかと思います。僕が散々苦労していますからね。」


 和気あいあいとした時が流れる中で、賢三の頭の中は複雑に入り組んでいた。進行を遅らせたい。すべての医学的最新情報が欲しい。籠の鳥にはしたくない。。。心のなかで『神様、杏子を連れて行かないでくれ!』何度も何度も叫んでいた。

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