第24話
函館の空港に降り立った賢三は、ふと考えていた。大学には修学旅行はないんだよな。。。 だから、これは大学の修学旅行も兼ねている感じで面白い。本当は夫婦2人で来るはずだった北海道の函館、われもわれも!と膨れ上がり、総勢8人になった。杏子と賢三、みどり子とクリス、一ノ瀬と絵美里、そして彩子と彼女の妹。賢三はバンドのツアーだと思うことにした。翔平とドラムの鈴木くんがいなくて残念だ。杏子の口癖でもある『いいよ』が招いた結果だ。杏子は、お願いされるとまず断らない。リード・ヴォーカル以外はだけど。。。
「なんかさ、函館って、、、というより、北海道って、空気が違う気がしない? 同じ空港にいても、なんか違うよな。。。杏子はそう思わない?」
「国によって、飛行機で降り立つと違う匂いってあるの。アメリカのニューヨークなんか、降りた途端にドーナッツの匂いがする。とにかくその国の匂いっていうのがあるらしい。ここは日本国内だけど、確かに同じ海に近い空港なのに羽田とは雰囲気も違うけど、やっぱり空気だね」
「ねぇ、知ってた? 函館にも『赤い靴の女の子』の像があるんだよ。横浜オンリーかと思ってた。」
「あ、それはですね、みどり子、横浜のは『赤い靴はいてた女の子像』って言って、函館のは『赤い靴の少女像』っていうんだ。横浜の子は座ってて、函館の子は立っているんだ。ちょっと変えてあるんだよね。港町だから同じような歴史があるんじゃないかな。。。」
「うわぁ~、クリスは日本人よりも詳しいのね! 私全然知らなかった。赤い靴の女の子は横浜だけだと思ってたよ」
「俺も!」
「私、芸大の彫刻科なのに、知りませんでした。。。ちょっと恥ずかしいです。(笑)」
絵美里は顔を赤らめたが、クリスというイギリス人以外、同行の日本人はそのことを知らない人ばかりだった。年下で大学も違う彩子の妹は爆笑した。
8人乗りの大きなクルマをレンタカーで借りることにしたが、決まった場所まで行くと、そこでばらばらになっても良いということにして、電話で連絡し合い、帰りだけは一緒になれるようにした。予定では、賢三の恩師、内田先生に会うのは夫婦2人でと思っていたが、内田先生はできればみんなで会いに来てほしいと言ってきた。賢三は、もしかすると、内田先生のために、なにか演奏できると思った。翔平と鈴木がいないのが残念だけど。。。 それには一ノ瀬も彩子も。何処かで楽器さえ調達できれば是非やりたいと賛同した。早速賢三は内田先生にメールを入れた。『任せて!』という返事が来た。
賢三たちは揃って空港近くの観光スポットを回った。赤レンガ倉庫のあるところに行くと、みんなが同時に横浜を思い出していた。元町も同じ名前で、異国情緒はあるけど、やはり横浜の元町とは違う。
「なんか、似ているけど、全然雰囲気が違うと思わない?」
みどり子は率直な意見をいう。気心がしれた仲で気遣うことはない。やはり、横浜、横須賀が独特な雰囲気なのだと分かった。同じ港町でも、アメリカ軍が駐留していると、かなり変わってくる。沖縄になると、はっきり言ってアメリカにいるようだ。 ここ函館は、なにか温かみを感じる。多分人々が優しいのではないだろうか? 賢三は相変わらず何処に行っても人誑しである。 初日は、そこそこに観光を引き上げ、湯の川温泉の旅館を取ってあったので、しっかりとチェックイン。その後は歩いて海鮮料理の店に食事に行った。ウニが大好きな外人、クリスが大喜びだ。
「明日はさ、昼飯にラーメン食べてその後に内田先生と会うことになった。行きつけのライブハウスに飛び込みで演奏させてくれと頼んでくれたらしい。一ノ瀬、そこにはコンバスがあるってさ。彩子、ピアノはステインウェイだってよ! 俺は内田先生に自慢するために自分のセルマー持ってきてるしな。鈴木がいないからな、、、カルテットにできないから、トリオで行こうぜ!」
「ドラムなしって、きついけど、、、ピアノで補うしかないね。頑張るぞ! 杏子さん、隣りにいるでしょ?」
「そうね、彩子の隣に座るよ。ただ、ちょっとリードも取るつもりなんだ。どうなるかわからないけど。。。賢三の恩師に聴いてほしいから。ニーナ・シモーネの I want a little sugar in my bowl にしようかなって。。。彩子、また弾いてくれる?賢三がサックス入れられるし、一ノ瀬くんもバッチリだと思う。」
「やるよ、やる!! うわぁ~楽しみ!! 止めたいときは遠慮しないでね。ちゃんと後を繋げるから。過呼吸になったら、賢三がそばにいるし、平気だよ。」
まさかの杏子自身から参加を言い出し、みんなが一斉に盛り上がり、賢三は杏子のトラウマが克服されることを祈らずにはいられなかった。 湯の川温泉の旅館は、とても綺麗で、窓から水辺が見られ、みんながリラックスできた。みんなの配慮から、杏子と賢三だけは別室で、あとのみんなは大部屋に寝ることにした。みどり子は、旅館側に一応衝立を用意してもらった。これで彩子の妹も、恥ずかしがらないだろう。どちらにしても大学生の修学旅行のようなものだ。気心の知れた良い仲間は、隠すような話もなく、平気で浴衣に着替えられるのが可笑しかった。
杏子と賢三の部屋は、小洒落た漢字の個室で、やはり水辺が見えてリラックスできる。窓辺に座った2人は、外を見ながら佇んでいた。賢三が杏子を後ろから抱えていた。
「内田先生に会えるの、楽しみ? 賢三にとっての本物の恩師だよね。」
「うん。あの人がいなかったら、あんなに早くジャズに出会えなかったように思う。頭が上がらなかったな。。。」
「そうなんだ。厳しい先生だったらしいけど。。。好きだったの?」
「そうだね。本当に厳しかった。でも、おかげで不良にはならなかったよ。良く担任とかにおふくろが言われてたんだ。。。俺は、タッパもあって芽体が良いから、簡単に不良たちの道に引き込まれやすいだろうから気をつけろって。でも、内田先生は鼻で笑ってた。『お前にはサックスがあるから心配してない』って。当たってたよ。さてと、寝ようか。」
「うん。そうしよう」
二人は久しぶりに畳の上で布団に入ってなることがすごく新鮮に感じた。疲れていたが、心地よく抱き合うことができた。賢三は久しぶりに杏子を抱ける喜びに興奮していた。それでも、優しく、限りなく甘く杏子を確認しながら、彼女の体を堪能した。自分にとって、最高のマッチを持つ伴侶であることが幸せだと思っている。そう、今は、先のことなど考えない。杏子も賢三の優しい触れ方と熱のこもった体、そして、自分の愛する男の匂いに包まれる幸せを噛み締めていた。いつまでも、このままでいたいのに。。。
翌日、8人全員で向かったのは、横浜にも同じ名前の街がある、函館の『元町』。 洋館や教会が建ち並ぶところも、関内の元町と良く似ていた。夜に函館山に行けば、素晴らしい夜景が見られる。なかなか異国情緒のある場所で、クリスは気に入った。そんな街の中にある定食屋の前で、内田先生と待ち合わせた。 美しいとも言える銀髪で、スラリとした女性がこちらを向いて立っている。
「林賢三!」
「はいっ!」
賢三は反射的に大きな声で返事をした。他の7人が思わず驚いて彼を見てしまった。一瞬間を空けてみんなが吹き出した。
「内田先生! お元気そうで何よりです。」
「林賢三も元気そうだな。大人になったね。でも、しっかりと面影があるよ。」
「なんだよ、先生! 先生もほとんど変わりないけど、なに、その銀髪は。。。下手すると『砂かけばばぁ』みたいだぜ!苦労したんだな(笑)」
「こら! 相変わらずの減らず口だ、腕立て50回をこの場で遂行しなさい。』
「ジョークだろ!? やめてくれよ、ここは町中だし。。。」
「ダメだ。すぐやりなさい! 林賢三。」
賢三は渋々だが、内田先生の言う通りに腕立てを始めた。 仲間たちは唖然として見ていた。杏子だけがニヤニヤして、まるで子供に還った賢三を見ていた。
「まぁ、時間もないから20回で許してやろう。 さて、あなたが杏子さんね? 初めまして、内田恵です。林賢三の中学時代の音楽教師です。サックスは私が教えました。続けていてくれたこと、そして、好きになって、それを軸に芸大に入ったこと、とても誇りに思っています。さらに、あなたのような女性とめぐり逢い、結婚までしたなんて、とっても嬉しく思っています。ようこそ、函館に!」
「はじめまして、林賢三の妻、杏子です。お目にかかれて感激しています。」
他の仲間も、一人ひとり、内田先生と握手をして自己紹介をした。そして賢三の腕立てはようやく終わろうとしていた。
「久しぶりに会ったかと思ったら、いきなり腕立てって・・・現役の頃と変わらないな。15歳の秋を思い出すぜ! じゃ、飯奢ってくれるんだよな!先生!」
「現役の頃とは違うよ。自主的にリタイアしたのだ。60近くなればこんなもんだ。それにしても良さそうな友だちができたね。相変わらず、誰にでも愛想が良い割には良い人としか友達にはならないんだな。さらには、理想的な女性と結婚できて、私は鼻が高い。任せて、定食屋で悪いけど、ここのが美味しいのよ。皆さん好きなものを頼んでね。」
みんな、美味しそうな焼き魚定食を魚の種類だけ変えて頼んだ。全員が大満足だった。
「この店の裏手に、ジャズのライブハウスがあるの。私のジャズ仲間が経営してるし、楽器は揃ってる。ドラムの人が足りないって言ってたね。大丈夫よ、マスターの甥っ子さんが来てて、彼はドラマーなの。やってくれるってさ。まだ昼間だけど、そこは昼間は喫茶店なの。お茶を飲みながら演奏のこと、そして、今までのことを話そう。」
大満足な食事の後、ライブハウスに移動した。みどり子とクリス、そして絵美里は内田先生といっしょに客席でコーヒーを飲みながらバンドの準備をしている賢三たちを眺めていることにした。
「内田先生、どうして賢三のことをフルネームで呼ぶのですか?」
クリスは不思議に思ったので直接質問した。
「ははは、おかしいかも知れませんね。もう癖になってしまったものでね、つい彼のことはフルネームで呼んでしまうのですよ。。。あの当時、林君って3人いたんです。親戚でも何でもなかったのですけどね。だから全員林君はフルネームで呼んでいました。でも、林賢三が一番多く名前を口にしただろうと思います。あの子は素直な子でしたし、優秀なサックスプレーヤーになるだろうという自信もあって、つい、声をかけて練習させたかったんです。私は厳しかったんですよ。。。良く着いてきてくれました。自分のセルマーを持って訪ねてくれるなんて、彼には見せたくないけど、涙が出そうなくらい感激しました。そして、まさか芸大に入ったなんてね。。。そして今度は教師になろうとしているって聞いて、実は感無量なんです。」
「そうですよね。私は奥さんの杏子さんとは職場が同じだったことから親友と呼べる友達関係なんですけど、あの夫婦は理想的です。賢三くんのほうが5つも年下なんですけど、理想的なカップルなんです。先生は杏子の病気を御存知ですか?」
「え? 杏子さんはなにか患っていらっしゃるの?」
「あ、すみません。多分賢三くんが後でお話すると思います。私がお話するのは、控えますね。ただ、彼女は2回も流産しています。」
「わかりました。後で林賢三から直接話してくれるのを待ちます。」
バンドの準備は着々と整い、ドラムを請け負ってくれるマスターの甥っ子さんは、抜群のセンスだった。簡単なリハーサルをしたが、内田先生には聞かれないように先生をみどり子が外に連れ出していた。一通り終わって、杏子と賢三が外に出てきて、内田先生とのひとときを設けることになった。
「どうだった、良い演奏ができそう??」
「うん、先生には最高の演奏を聴かせられるぞ。感極まって泣くなよな。」
「こら!私を誰だと思っているんだ、林賢三。。。長く連絡が取れなかったことを後悔してるよ。何度か、ご実家に訪ねようかと考えたこともあったのだけど、私も夫の転勤があまりにも急だったからね。学校の中のことを次の方に引き渡す方に一生懸命になってしまったのよ。篠先生が林賢三はすごい人になって帰って来たようでしたと教えてくださった。過去の林賢三を知らないからね。お嬢様な感じの先生だったでしょ? 個性は大事だから、指導書には厳しい内容は書かなかった。教育実習生から習うことが多かったって言ってたよ。(笑)」
「面白かったよ。でも、俺があの篠先生に言ったのは、内田先生から習ったことだけだった。最初に教えなかった内田先生がいけないんじゃん。生徒がやっと楽器を磨いてから帰るようになったぜ。(爆笑)」
「そうか、優しすぎると基本も忘れてしまうこともあるさ。苦労してたんだろうね。。。 さ、ところで、林賢三と奥様の杏子さんについて私に教えてほしい。キャッチアップさせておくれ。結婚祝い、なにかさせてね。」
「俺はさ、杏子よりも歳が下だから、とにかく他の男に取られる前に結婚してしまいたかったんだ。もうさ、引く手あまたで、いろいろな男が言い寄っているのは知ってたからね。それが伝わってくれて、学生でも結婚してくれることになったときは夢のようだった。」
「そうか、幸運を自分で掴んだんだね!良くやった。でも、林賢三、あんたもかなりモテてたぞ。他校の女子生徒も校門で待ってたよ。私、数回追い返したことあるんだ。」
「げー!ほんとかよ!? 他校の女子生徒にも、嫌なババァだったんだな。(爆笑)」
「まったくね、相変わらずの毒舌だな、林賢三。でも、あんたがどれだけサックスに真剣に取り組み、人のことを良く考えてくれる優しい男子だったこと、忘れられないよ。商店街でも評判の子だったもの。大体ね、芽体が良いと不良になる可能性が高いと言われたからね。あんたは全くそれを感じさせなかった。『No』が言える若者だった。
杏子さんも、十分にわかっていると思う。この子が選んだあなたは、素晴らしい女性だと理解してます。今、幸せですか?」
「はい、内田先生。私は今、最高に幸せだと思っています。今回の旅行で初めてお目にかかるのですが、賢三がどれほど楽しみにしていたか、私ですら計り知れません。喜びばかりのはずなのですが、私達、恩師である内田先生にはお伝えしておこうかと思うことがあります。
実は最近、私には、とんでもない遺伝性の病気があることが判明しました。私達、子供が欲しくて、暫くの間頑張っていたのですけど、その甲斐なくて、2回も流産しました。そのときに担当医が、気になることがあるからと調べてくださった結果、筋ジストロフィーだとわかりました。多分、それが原因で流産していたのです。遺伝性ですから不幸中の幸いと受け取るべきだと自分に言い聞かせています。もう、私だけで止めることができますから。筋ジストロフィーは今のところ治療法がありません。所謂、スローデスというもので、どんどん動けなくなります。林賢三の妻は、いつまで夫に寄り添えるかわかりません。 もう一つ聞いて下さい。私は歌うことが好きです。子供の頃にアメリカで過ごし、ゴスペルを習い、指導を受けました。歌うことが大好きで、上達もしたので、リード・ヴォーカルを取れるまでになっていましたが、子供の頃に負った虐めからの傷害から数ヶ月もの間、意識不明で過ごした期間があり、それが元で、トラウマを持ち、それまでできたことができなくなりました。過呼吸になってしまいます。だから人前で歌えなくなったのです。今は、スタジオ・ミュージシャンとしてスタジオでなら歌えること、人前でも、バンドの後ろの方にいること、または彩子さんの隣でピアノと合わせることなどで歌えるようになりましたが、リードは取れません。一度、賢三の提案で3Dのゴーグルを付けて、好きな場所と賢三が自分を見つめながら演奏している映像を見ながら歌ったことがありました。うまく歌えたのですが、やはり若干の違和感がありました。それでも賢三が私を引っ張ってくれたので、少しずつ昔のようになりつつあります。私の最愛の夫が、ここまで引っ張り上げてくれたのです。自分には限りがあるとわかった今、なんとか、このトラウマだけは完全に克服して、夫のサックスに合わせてリードを取って歌いたいという希望があります。その第一歩として、賢三の恩師である内田先生に、彼にくっついて会いに来ました。賢三に最初に大きなきっかけをくれて、強く導いてくださった貴女の前でリード・ヴォーカルが取りたいのです。どうか、分かってください。」
「杏子さん、話してくださって、ありがとう。心から感動してます。」
内田先生は杏子をしっかりと抱きしめた。杏子は泣いていたが、内田先生の温かい包容で笑顔が浮かべられた。賢三は下を向いたまま涙を流していた。
「私は教師だから、こんなことが言えるわ。聞いてくれる?。 アーネスト・ヘミングウェイの語った言葉がある。『今ないものについて考えるときではない。今あるもので何ができるかを考えるときである。』って。 林賢三と杏子さんは、その時だと思うの。何も躊躇せずにチャレンジしなくてはね。 杏子さん、この林賢三は、貴女を引っ張っていけるはずです。こんなに素敵なカップルだもの。応援するから。 林賢三! 私は貴方を誇りに思っているよ。音楽を通して、こんなに素晴らしい女性と出会えて本物の恋に落ち、愛してくれていること、人間としても素晴らしいじゃないか。」
「先生、俺は感謝してますよ。大学に入ったとき、知らせたかったんだ。。。でも、もう先生はこっちに来てたみたいだった。 あ、そうだ、ライブ見せる前に、俺のバンド、フルメンバーでの演奏のビデオを見たい? 今回一緒につれてこなかったトランペットのすごい奴がいるんだ。そいつとの掛け合いは、マイルスとレーンのようだって言われたことあるんだけど。。。そいつはフージョンがメインだからスタンダートなジャズは滅多に演奏してない。 奴はさ、本物だよ。ただ、ちょっと問題がある男でね。。。ちょっと待って、、、YouTubeに落としてあるから、それを見せるね。良かったら、あとでDVDにしたのを送るよ。今日は演奏できない曲のやつね。 ほら、これ、これ!」
内田先生は、言われるがままに、その映像に見入った。
「ほぉー、本格的なバンドだね。『ハンニバル』か、流石は芸大の生徒たちだわ。確かにこのペット奏者、秀でているかも知れない。林賢三との掛け合いも抜群じゃないか? でも、、、無駄にハンサムな容姿もラッパのそそる音も、なぜか寂しそうだ。。。 私は林賢三のサックスのほうが好きだ。マイルスよりもレーン(コルトレーン)のほうが好きなんだよ、私は。」
「知ってるよ。ま、妖怪の『砂かけ婆ぁ』がファンになったと思っておくさ!」
「こら、林賢三! ちゃんと聞いてたのか?? 注意散漫児めが!」
「お!出た! 先生の叱咤『注意散漫児!』 俺、3年間で何度それ言われたっけな?? (爆笑)」
内田先生は複雑な気分だった。こんなに明るくて、人を暖かくできる若者が、これからスローデスに立ち向かう伴侶に付き添い、真っ暗にならないように明かりを点しているには、相当の覚悟がいるはずで、並大抵の努力ではないはず。音楽が大きな助けになってくれると信じているが、人間には限界もある。自分の教員人生の中で最も印象に残った生徒、最も期待に答えてくれた子が、こんなに苦しい思いをしているのかを知って、杏子の病気を自分が代わってあげたいとさえ思えた。あれほど愛し合っている若い男女が、祈りの成就のない、現状をどれだけ維持できるかを継続的に願いながらの毎日を過ごす。やり甲斐のない、とんでもない試練に立ち向かわなければいけないなんて、天は、あまりにも理不尽だ。
軽い食事とお酒を一緒に提供してくれるライブハウスは、東京のブルーノートと同じ形式。NYやロンドンでもジャズバーの有名処はみんな、こういう形式を取っている。内田先生はみどり子とクリスが同席した。
「内田先生、杏子と賢三くんからお話聞けましたか? 」
「みどり子さんでしたね。はい。杏子さんは順を追ってしっかりと話してくれました。私はこの理想的なカップルの行く末が心配でなりませんが、決して暗く悲しい道にはしないだろうと思っています。何もできないって、歯がゆいでしょ?」
「はい。。。一生付き合いたい夫婦なんです。先程ご覧になっていたビデオのトランペッターも、あの2人に救われた人です。ディーヴァ、、、あ、私達、杏子のことをディーヴァって呼んでいるんです。これから彼女が歌うと思うのですが、内田先生も、きっと、驚きます。今回が、トラウマを克服しようと決めた初めてのステージです。 私達もあの病気について色々と調べています。クリスはイギリスからの情報をもらっているのですけど。。。個人差があるとはいっても、進行状態が、ものすごく気になります。医療先進国の情報は、私達の会社の仕事柄、たくさん入手できるので、探しています。諦めたくないんです。そして、彼らに諦めてほしくない。。。 ディーヴァは、諦めの良すぎるところがあるのです。そして誰にも迷惑をかけたがらないから、話してくれないこともありそうで、私は心配してます。」
「みどり子さん、どうか、私にも今後の彼らの様子を知らせてください。今度、横須賀にいかなくちゃね。フルバンドのとき、必ず。」
程なく賢三のグループの演奏が始まろうとしていた。
「えー、今日は飛び入りの学生バンドなのに、たくさんのお客さんが来てくださったことに感激しています。ランダムではありますが、新し目な曲を選んで行きます。でも、最初は、多分どなたもご存知だと思うので、「Impressions」をやります。楽しんでください!」
内田恵は、ひっくり返ってしまいそうに驚いた。自分の教え子No1とは言え、ここまで実力があったとは思いもしなかった。ビデオでも感激したが、やはり生演奏は違う。彼が尊敬してやまないジョン・コルトレーンを彷彿とさせるように感じた。その後は、「 Song For Bilbao」これはマイケル・ブレッカーが得意としていた。内田恵にとって、賢三はやはり、デヴィッド・サンボーンに重なる。ちょっぴりイタズラっ子のイメージがそうさせるらしい。アメリカの実力派たちばかりだ。
更にはベースの一ノ瀬晶、ピアノの国井彩子、この2人は、最初の2曲で大きなソロを取る。素晴らしかった。更に驚いたのは、にわか出演のマスターの甥っ子のドラムは完璧にバンドの方向性を把握していた。ここにあのトランペッター大谷翔平が入ったら、理想的なクインテットだと想像できる。
そこにようやく、女性ヴォーカルが入ると紹介された。杏子が歌う。 賢三はじっと彼女を優しく見つめていた。みどり子とクリスは、やや心配そうに見ている。彩子の隣りにいる杏子は若干緊張しているようにも見えた。そこは彩子の采配で、会場よりも賢三だけが見えるように座った。 『I want a little sugar in my bowl』は、お洒落なブルースである。会場は湧き上がった。流石にジャズを知った人達が集まる場所なだけあって、このシンガーが如何に実力があるかがわかるようだった。内田先生は、目を見開き唖然としていた。賢三はそれを横目で見落とさなかった。1曲終わると彩子が杏子を抱きしめている。そして賢三は駆け寄った。5分足らずとは言え、土地勘もないライブハウスで1曲歌いきった杏子を強く強く抱きしめていた。杏子は立ち上がり、恥ずかしそうに会釈した。 その後はわざと間髪入れずにドラムを入れて、『Chicago Song』を演奏し始めた。賢三はノリノリだった。杏子もすんなりとスキャットを彩子といっしょにいれる。この曲は一ノ瀬も自分のエレキベースを最大限に出せる曲で嬉しそうだ。 内田先生は感極まるほど喜んだ。自分の好きなジャズマンの曲を一番の弟子が演奏している。教師をやってよかったと思えた。
数曲を披露したあと、賢三はマイクに向かってラストの曲だと告げた。杏子にジョニ・ミッチェルを歌わせると決めていた。上手に彼女をエスコートして、ステージの中央に立たせる。『 The Dry Cleaner from Des Moines』 上手い! そのシンガーは実力以上なのかと思わせるような声質と声量にライブハウスは盛り上がった。全員でステージから挨拶し、その日の演奏を終わりにしたかったが、アンコールを2曲入れた。流石に杏子は彩子の隣りに座ったままとなった。
賢三は駆け寄り、杏子を心底労った。抱きしめながら耳元で優しくつぶやいているのが、客席からも良く分かった。
「みどり子さん、私は林賢三には泣き顔を見せるつもりはなかったんですけど、隠せそうにないです。横須賀に帰ってからも、どうか、あの2人をよろしくお願いしますね。」
「承知しました。メールアドレスを頂きましたから、必ず定期的にご連絡します。賢三くんもするとは思うのですけど、彼はディーヴァに集中していてほしいので、情報が重なったら許してくださいね。」
その後は、内田先生と楽しく飲み、たくさん語り合い、日付を替えてからの帰宿となった。その翌朝、賢三は早起きした。
「杏子、疲れたろ? ゆっくり寝てていいよ。俺は朝市に行く。祖父ちゃん&祖母ちゃんと、みっちゃんにも松前漬けをお土産にするんだ。パック入りじゃなくて、量り売りのやつを買ってくる。」
「私達の分も忘れないでよ! あ、あとゲンさんの分もね!」
「分かった。なんかさ、一ノ瀬も来るっていうから、他にも色々みて買ってくるよ。翔平にはホワイトチョコって決めてんだ。『白い恋人』だぜ! アイツ思いっきり怒りそうだな。(爆笑)」
函館の朝は、すでに肌寒いを通り越していた。夜明けの空は美しく、空気も澄んでいた。陽光が確認できたとき、賢三は思わず太陽に感謝の気持を持ったことに驚いた。キリスト教の信心深い人々が住む街で、もしも本当に神様がいるなら『俺の最愛の人を連れて行かないでくれ。。。』と祈りたかった。
賢三と杏子にとって、最初の大きなチャレンジが無事に終わり、愛の巣に戻る時が来た。何も変わりないように見える杏子の体だが、杏子には緩やかながら確実なひと粒が、自分の人生の砂時計から落ちていることがなんとなく分かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます