第23話
賢三が本牧に来たのは、そう前のことではないのに、なぜか懐かしく感じた。 この独特な異国情緒が、戦後の横須賀、本牧の街の色を鮮やかにして、そこかしこから聞こえる英語の会話が、おしゃれな雰囲気を醸し出しているようだった。東京の繁華街の洗練された雰囲気とは別物。ただし、田舎者が憧れを持って出てくるような東京の繁華街とは違って、訳アリでも、何か、そっとしておいてあげたくなるような大人の空気が漂っている。 そんな中にあるカウンティング・スターは、おしゃれな店で、雑誌に載るほど人気もある。夜にはお酒も出せるので、向かい側のジャズバー、ストンプからの流れのお客さんにも利用される。どちらかと言うと、ライブの前に利用する人が多い。 ギグのほとんどが日付が変わってから終わることが多いからだ。 美津子と陽介の夫婦でもり立てているこのカフェバーは、どちらかと言うと女性客が多い。賢三が店にいる時は、若い女の子が通ってくれる。以前、賢三と翔平が窓際テーブルで曲決めのために話している時は、道すがら、振り返る人がたくさんいたのは話題になった。 美津子と陽介には子供がいない。欲しいと思ったから努力しなかったわけではない。いつの頃からか、無理に作ろうとしなくなった。だから、杏子が妊娠したことを自分たちの孫でもできるような喜びを感じたのだった。彼らにとっては、賢三と翔平が子どものように思えるジャズメンだ。特に翔平は、自虐的になったりする寂しい人間なので、それを親代わりのように接して、杏子と一緒に、彼が落ちかけた奈落の底から引き上げている。翔平は杏子に恋してしまった。まさに叶わぬ恋なのだが、美津子は上手に翔平の気持ちを壊さないようにしながら遠ざけ、天才トランペッターのくせに、甘ったれな小僧の強い母となってくれた。陽介も容認している。不思議な縁だが、美津子も陽介も、自分たちの弟と呼ぶにも若すぎる程の年齢の男を、まるで息子のように扱うことが苦じゃなかった。
とにかく頼れる、人の良い、面倒見の良い夫婦だ。
「マスター、お邪魔します。」
「よぉ! みっちゃんすぐ来るからね。 どう?サックスの方は? 大学の連中も、そろそろ進路決まってそうだし、ストンプのマスターもトレイターズ入れておきたそうだったよ。翔平もどうにか大学院の方に進めるみたいだしね。どれだけ無茶苦茶なやつでも、流石芸大は天才を見逃さないよね。あいつに足りないのは学問での音楽じゃなくて、普通に人間性を学べる文化人類学とかのほうじゃないかと思うけどね。。。(爆笑) あ、みっちゃん来たよ。」
「賢三! よく来てくれたね。なにか飲む? 食事は??」
「あ、美津子さん、大丈夫です。ペリエでもいただいていいですか?」
「スパークリング、かしこまりました。 陽介、お願いします。 で、遠回しにしてると時間だけが過ぎるしね。。。どうなの杏子ちゃんは。」
「流産の方は、もうすっかり良さそうですが、自分の病気を調べまくってました。英語の文献。。。自分で婦人科の先生のところに行って、避妊ピルの開始と、その他にIUDっていうやつ? リングとも言うと言ってたかな、それを装着してもらいに行ってました。以前から基礎体温っていうのは測ってるからそれも続けるらしくて、三重の避妊だとか言って、、、俺は何もするなっていうんですよ。。。俺としては凄く複雑な気分なんですよね。。。ただ、杏子は俺に落ち込んでいるところを見せたくないみたい。。。だから俺も努力はしてるけど、まだ、覚悟も何もできてなくて、杏子の顔見るだけで。。。なんか、彼女を連れて何処かに逃げれば、彼女は助かる??とか、そういう事ばかり考えちゃって。。。俺は、、、俺は。。。」
賢三は言葉に詰まってしまった。多分それまで、一切弱音を吐いてなかったのだろう、涙がどんどん溢れていた。
「賢三。。。声を上げて泣きなさい。我慢しちゃダメ。私と陽介の前では我慢なんてしなくていいのよ。」
堰を切ったように賢三は号泣した。美津子は賢三の頭を撫でながら、彼が落ち着くまで、ずっと肩で泣かせてあげた。陽介が目頭を押さえ、初めてもらい泣きをしているのが見えた。美津子は、それにも驚いた。賢三がいかに愛されているか、よく分かる。そして、この子をどうやって慰めたら良いのか?? 何一つ慰めになるものなどないとは分かっているけど、笑うのも嘘だと分かるし、一緒に泣くなんて、今だけで充分。この理想的な若夫婦が、現状を把握しながら楽しく生きることって、できるのだろうか? 杏子は確実に賢三の前でいつが終わりなのかも分からないスローデスを展開していくことになる。子供ができないなんて、自分たちと同じなので、どうにでも受け入れることはできるでも、お互いを失う結末が待つって、どういう人が受け入れられるのだろう? 美津子も陽介も、普通の人々よりも豊富な経験があり、沢山の苦労をしてきている、今後も人生の苦労がないはずはないし、それを受け入れて糧にする気構えもあるし、それができる経験値は高い。その経験を活かして、若者に充分な理解も示せるから、自分たちの子供がいなくても、多くの若者の親のようになってあげられる。でも今、こんなに落ち込んだ子を、自分たちが最も自慢している好青年の賢三を、どうやって元気づけて良いのかが分からない。。。そう、元気づけるには?? と考えてしまう。『慰め』という言葉が当てはまらない。『死』という、『永遠の別れ』に抗えないのは誰もが同じなのだけど、それを今、何でもできているときに覚悟しろというのは、現実的に観られないと同時にあまりにも残酷。杏子と賢三というカップルを、どこまでも支えてあげなくてはいけない。美津子は陽介にも暗黙の了解を得ていた。言葉を交わしたのは二言三言、気がつけば、消沈した後ろ姿の賢三を、夫婦で見つめながら見送っていた。
「陽介・・・グレそうな子供が増えたね。。。支えなくてはいけない。賢三と翔平、私達の子供だと思わないとね。」
「みっちゃん、俺と一緒になって良かった? 俺はみっちゃんと夫婦になれて、幸せだよ。沢山の青春を応援できるって、こういう店だからかな? あ、そうだ、ストンプのオーナーに話してこよう。」
「私は陽介と結婚できて、お店も一緒に営めて、ものすごく幸せ。陽介がいてくれてよかった。愛してるよ! そうね、ストンプには杏子ちゃんとトレイターズの出演が多くなってもらわなくちゃ。 これから忙しくなるね。」
賢三は、本牧ふ頭まで足を伸ばしていた。潮の香りがする。肌にベタベタしてくるわけでもなく、心地よい。河川敷でサックスを吹くことばかりだったが、海を前には吹いてない。埠頭には誰もいなかったから、愛器のセルマーを出すことにした。何を吹こうかな。。。Work Song のソロ部分を吹いてみた。そして、続けて Straight to the Heart 。うん、少し気分が晴れてきた。やっぱりサックスが一番気分を持っていってくれる。すると、何処からともなく、トランペットが合わせてくるように入ってきた。翔平だった。いつの間にか、杏子が翔平とのセッションの曲で一番気に入っているHannibal を一緒に吹き出していた。合わせるなら、翔平が最高だと痛感する。
「みっちゃんのところに行ったらさ、お前が来てたって言うから、こっちの方に向かっている気がしてさ、そしたらサックスが聴こえたんで、音を追ってきてみたよ。いい音出てなかったぞ。 俺が一緒にできるサックスはお前だけなんだからな、俺を引っ張り出すようなサックスにしてくれ。 ところで、杏子ちゃんだけど、お前が要らないというなら俺にくれ。俺はいつでもOKだから。動けなくなっても平気だ。」
「翔平、俺が杏子を手放すわけないだろ。歌えなくなっても、動けなくなっても、俺の傍から離さない。でも、、、彼女から離れていってしまうかもしれない。。。そう思うとさ、居ても立っても居られないんだ。」
「俺はね、杏子ちゃんが大好きだけど、お前の隣りにいる杏子ちゃんが一番好きだと思えたんだ。なんかさ、雰囲気が違うんだよ。凄く美しい。お前、隣りにいるから分からないんだろうな。『灯台下暗し』みたいなものだよな。溶けてしまいそうになるくらい、美しいんだよ。 お前の気持ちをどう理解したらいいか、俺にはわからないけど、ちょっと俺らしくない事言ってもいいか? 俺さ、一人でいることが多いじゃん、昔はよく精神分析学とか文献をよく読んだんだよな。。。俺自身のことが知りたくて。その中でさ、カール・オーガスタス・メニンガーっていう学者が言った言葉にさ、けっこう当たってるかもしれないって思ったことが1つあったんだ。『涙ほど人間的、かつ、普遍的な鎮痛剤はない』 っていうんだ。俺も杏子ちゃんとみっちゃんには、その鎮痛剤をどれだけ施してもらったかしれないよ。鎮痛剤が欲しくてもさ、馬鹿みたいに我慢しちゃうじゃん。俺なんかペット吹いても憂さ晴らしできなかったから薬にも酒にも頼ったんだろうな。。。でも、薬も酒も、翌朝になると自分をどん底に突き落とすんだ。。。その場だけの高揚感だと、女抱いても、なんのためのオーガズムなのかも分からないし、見つめてくるる女の顔はのっぺらぼうで、顔になってないし、ゾンビに体を貪られている感じになる。。。ペット吹いているときが一番気持ちが良かった。後味も違った。俺はみっちゃんじゃないけどさ、俺の前なら泣いてもいいぞ。その涙が杏子ちゃんに関してのだと分かるなら、付き合える。俺だってたまには良い友達になれるってことさ。でも、やっぱり杏子ちゃんのことは好きだからな、あんな女にあったのは初めてだった。。。覚えておけよ。」
「翔平。。。お前、まともな人間の部分、まだ持ってたんだな。まさか、お前から精神分析学の学者の言葉が出てくるとはびっくりだよ。サンキューな、頼らなければいけないときがあるかもしれない。でも、杏子は絶対にやらないぞ。杏子は、俺の『Sun Goddess』なんだよ。」
「あぁ、分かってるよ。。。でもさ、俺が『Irresistible Bliss』吹く時、お前に抱かれているときの杏子ちゃんの姿が目に浮かぶんだよ。そのせいかな、このところ、何処のクラブであの曲吹いても、凄く受けるんだ。自分でも思いっきり心地よくてさ。まさに曲名の通りなんだよ。。。Irresistible Bliss 抑えきれなくなる幸福感と言うか、観てなくても、想像しているだけで最高に気持がいい。。。でも、それは賢三、お前がいなくては見せてもらえないんだ。。。最初は苦しかった。なぜ自分じゃないんだ??って考えたよ。でもさ、見えているだけで、彼女の顔を想像するだけで、持ってかれてしまうんだ。。。だから、これから先、彼女が今と容姿が変わってしまっても、お前は俺のペットのためにも彼女を幸せな状態で保たないといけないんだ。彼女はそこにいてくれたら、それでいいんだ。それにさ、まだ誰も治らないかどうかってわからないじゃん。いろんな薬ができているんだし、お前が悲観的でどうするんだよ。」
「翔平、お前からそんなに希望に満ちた言葉を聞けるとは思わなかったぜ。 お前の言うとおりだ。俺が杏子を支えていかなきゃな。諦めてはいけないんだよな。俺がポジティヴじゃなきゃいけないよな。」
「そうだよ。 でもって、俺に杏子ちゃんをくれる日が来るといいな。。。(笑)」
「お前って、そのことだけは揺るぎない根性持ってそうだな。 悪いが、お前のその夢だけは永遠に叶わないさ! 」
賢三と翔平は無言のまま歩き出し、お互い帰路につくことにした。翔平は大学のそばの自宅ではなく、急遽、逗子の家に帰ることにした。珍しく家政婦の嶋田さんにも連絡を入れておいた。
「賢三、お前も来る? 逗子の家。。。」
「いや、杏子のところに帰るよ。島田さんによろしく言っておいてくれ。また寄らせてもらう。」
賢三が自宅の玄関を開けると、中から楽しそうな笑い声が聞こえた。どうやら馴染みのメンバーが来ているようだった。杏子の祖父母は満面の笑みを浮かべて玄関に出てきた。
「おかえりなさい、賢三さん。皆さん来てますよ。杏子も凄く楽しそうでね。私達も泣いていられません。遅かったけど、どこかに寄ってたの? 美津子さんたちはお元気でしたか?」
「遅くなってすみませんでした。美津子さんも洋介さんも元気でした。 お祖母さんにはまだ紹介してないけど、トランペットの大谷翔平とセッションしてたんですよ。 俺ももう泣きませんから! ご心配なく。 あ、そうだ、卒業後は、ここからも通える高校に就職できそうなんですよ。まだ仮決定らしいですけどね。ちょっとホッとしてます。ちゃんと卒業しなくては!」
「それはよかった! 本決定になったらパーティしましょうね! ささ、みなさんのところへ!!」
賢三はリビングに向かった。すでに音楽室からは出てきてお祖父さんと飲み始めた一ノ瀬は、絵美里ちゃんに介抱されていた。杏子は心底楽しそうだ。
「おかえり賢三! 遅かったじゃない?みっちゃんたち元気だった?」
「ただいま〜〜。 みっちゃんたちは、すこぶる元気でした。偶然に翔平も来たんだよ。数曲セッションしちゃったから遅くなっちゃった。アイツ、いい線いってた。つくずく天才だよ。。。今度また逗子の家に来てってさ。また行こうか?」
「そうだったんだ。あの子はこういう集まりは不向きだしね。。。お酒が飲めなくなるし。。。今度また逗子に行こうね。」
「そう言えばさ、俺、就職先の高校が決まると思う。ここから通えるし、助かる。けっこうの偏差値がある高校だよ。東海高校。これでもう、心配なさそうだから、早めに旅行行こう。 俺さ、最初に北海道行きたくなったんだ。中学の時の音楽の先生に会いに行きたい。あの人にジャズを教えてもらったんだ。内田恵先生。これから校長の大沢さんに連絡して、内田先生の居場所教えてもらう。杏子に会ってほしいし、内田先生にも俺の奥さんだということを確認してもらいたいんだ。」
「そうだね! 行こう! 楽しみだわ、北海道。美味しい海鮮料理も食べられそう!」
「飛行機で行ってから向こうでレンタカーにするよ。コンパートメントの車窓からの景色を楽しむのは、佐世保に行くときが良いでしょ?」
「うん。そうしよう! そうしよう。」
「なんか、良いわね〜二人共! 旅行の相談が終わったら、私に言ってね、バッチリ取ってあげるから。」
「ありがとうね、みどり子。最初は北海道だって。レンタカーの予約もついでにできるよね?」
「任せなさーい!! 佐世保の旅行は時間かけるから無理だけど、私とクリスも北海道奈良いっしょに行っても良い?現地別行動ってことで。。。ダメかしら? ホテルは一緒だけど。。。」
「おぉ!それ良いかも。美味しいもの一緒に食べよう! クリスも好きそうだよ。」
すでに潰れている一ノ瀬もいるので、芸大組は全員泊まっていくことになり、みどり子とクリスは自宅が近いので帰っていった。 賢三はサックスを取り出して、きれいに拭き始めた。潮風に当てたという意識があったからだ。杏子はそれをうっとり眺めていた。バックには低い音でビル・エヴァンスが流れている。
「翔平がさ、何処で演奏するときも『Irresistible Bliss』が凄く受けるらしいよ。曲名の通りの意味を杏子を想いながら吹くんだって。アイツも杏子が大好きだよ。全く隠さないところが頭にくるけどな。。。」
「かわいいよ、翔平は。私が男として賢三しか愛せないこともわかっているのにね。。。薬からはなんとか足を洗えたかな? みっちゃんと陽介さんがいてくれて本当に良かった。 ただ、お酒はあまりにも誘惑が多いからね。。。でも、あの天才にはどうしても這い上がってほしかったから。。。賢三に合わせられるペット奏者は、彼しかいないよね。。。あの子はセンスがいいから、絶対に他の人も合わせてあげられるのに、あの性格。コピーしかやらないわけじゃなくて、自分でも曲作っているけど、彩ちゃんにアレンジさせているみたい。彩ちゃんは才能あるよね。そういうのも翔平はよく分かるんだから、あの性格さえ普通だったら、良いもの作っていけるのにね。。。」
「アイツは杏子が言えば、何でもやると思うよ。まぁ、人妻好きは直らないみたいだけど。。。教育実習のときの女子生徒からのモテようはすごかったのに、ものすごい塩対応でさ、笑っちゃったよ。(笑) ま、中学生たちだし、どれだけマセた女子生徒がいても、アイツだから一番安全だとは思ってたけどね。(爆笑)」
「賢三、こっちに来て。」
「どした杏子? 疲れちゃった?」
賢三はサックスを置いて、杏子の隣に行き、彼女をしっかりと抱きしめた。
「なんかね、、、自分のことなのにまだ納得したくないのね。。。今は、どこかが痛いわけでもないし、苦しいわけでもない。いつどんなときに自分は病気で弱っていってるんだと自覚するのかしら? ちょっと怖いかもしれない。。。」
「何も考えないほうがいいよ。個人差があるんだ。全然普通に暮らしている人もいるらしい。身構える必要なんてないよ。井上先生も言ってたし、上手に付き合えばいいんだよ。祖父ちゃんと祖母ちゃんもこの家にいるし、一人にはならないから。俺は教師になるから、9時ー5時の仕事ではないけど、普通の仕事よりも休みは長いしね。杏子もスタジオの仕事があれば、どんどん行くこと。慣れてるストンプのライブで俺達と少しずつリードを取っていこうよ。」
「うん。。。歌っておかないとね。。。賢三の脇で歌えることが、リードを取れることが夢だもの。」
「できるさ。絶対にできるから。。。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます