第22話


 杏子と賢三は、井上先生の部屋に呼ばれた。杏子には覚悟ができていたが、賢三はまだ諦めることができないせいか、間違えであったという話が出るのではないか?と、淡い期待もあった。杏子のほうは、なんとなくだが、余命が告げられるのだろうと思った。若いからしばらくは大丈夫なのか? 若いからこそ、進展が早いかもしれない。しばらくは好きなことができるのだろうか? この病気とどれくらい付き合えるのか?? 賢三と比べると現実的な考え方と言える。


「井上先生。失礼します、林です。」


「はい、お入りください。林さんご夫妻には、お時間を取らせてしまい、申し訳ないです。少し調べ物が続きましてね。流石に専門外のことなので、時間がかかってしまって。。。でも、頑張りましたし、今後も続けます。さ、どうぞお掛けください。お飲み物、なにかご用意しますね。といっても、自販機の飲み物なのですけど。。。」


「こちらこそ、お忙しい中、沢山の情報を調べていただいたようで恐縮です。飲み物は水だけで大丈夫です。」


井上先生は、自ら冷蔵庫の中に入れてあるミネラルウォーターのボトルを2つ出して、紙コップを添えて杏子と賢三に差し出した。 杏子は落ち着いてそのボトルを開けて、コップに水を注ぎ、一口飲んだ。賢三は、ボトルを手に取ったが、なにもしなかった。緊張しているのが分かる。


「杏子さんは、多分ご主人から少し話を聞いていらっしゃるのではないかと思うのですが、いかがですか?」


「はい。私は筋ジストロフィーで、それがもたらす弊害で、子供が産めないということですね。それが確定だとしたら、私も子供を生むつもりはありません。私を最後に、山本家の遺伝性疾患を終わらせたいと思います。気になるのは妹ですが、突発的に同じ様になる可能性はないのですか?」


 賢三は、杏子があまりにも冷静で、病気を受け入れているような発言に驚いた。妹のことまで心配している。


「最近の研究発表で分かっていることは、DNAでの完全に同一な遺伝部分がない場合は、発症しないということです。妹さんには、そのDNA部分がありません。お母様側のご祖父様から杏子さんへの隔世遺伝のようです。不思議なことです。。。 杏子さん、大変に残念なのですが、今のところ、最新の医科学を持ってしても、筋ジストロフィーの治療方法が見つかっていません。ただ、上手に付き合っている方々はたくさんいます。どうしても筋力が落ちていくので、それに対する心の準備は必要です。杏子さんの場合は、強健なアスリートと同じというわけではありませんが、肺活量を必要とする声楽をお仕事にも持っているくらい楽しまれているので、非常に残念なのですが。。。そのお仕事をこなすのが少しずつ弱くなると思います。その時期や強弱については、個人差もありますので、一概に確定事項として言えるわけではありません。ただ、毎日を楽しまれて生活している方々が多くいらっしゃいます。」


「子供が持てない上に、大好きな歌まで手放さなければいけない。。。その覚悟をしなくてはいけないということですね。」


・・・・数秒だが沈黙が流れた。


「杏子、俺は隣りにいるから、どんなに卑劣な病魔が杏子の体を蝕んでいこうとしても、そういうのと堂々と上手に付き合っていこうよ。杏子、得意じゃん。嫌な奴と上手に付き合うの。」


「そうね。。。賢三が傍にいてくれるものね。きっと大丈夫だと思う。貴方がいればポジティヴに生きていけると信じてるよ。」


「私は医者ですが、音楽が好きでしてね。私の奥さんは弦楽器を得意としているので、よく聴かせてもらってます。自分では聴くこと以外何もできないんですよ。だから、あなた達のような御夫婦には憧れます。私の奥さんも、子供は産めません。心臓疾患がありましてね。爆弾を背負って生活しているんですが、上手に付き合ってます。先日、賢三さんには私の個人の電話番号と連絡先をお教えしましたが、よろしかったら、杏子さんも知っていてください。時間がある時、私の奥さんにもあってください。音楽が共通しているので、話が合いそうだと思ってます。」


「喜んで! ぜひお目にかかりたいです。 奥様の心臓疾患の治療法はないのですか?」


「もう6回も手術しました。私と結婚してからは3回。毎回手術室に向かう彼女を見送る時、これが生きている彼女を観るのが最後かもしれないという気分になるものでした。出てくるとホッとするのですけど、また治ってないとわかると、本人は、もう嫌だと言ってます。子供は産めませんが養女が2人いるので、手がかかってまして、もう治るかどうかわからないものを期待する時間がもったいないから、好きなことをして楽しく過ごしたいということです。」


「奥様のお気持ち、少し理解できるような気がしています。私はまだ自分の将来が見えていないので、もう少し時間をかけて賢三といっしょに、少しずつ現実を把握しようかなと。。。もしも躓いてしまった時、井上先生と奥様にご相談するかと思います。 私にトラウマがあることもご存知ですよね? 賢三は少しずつですが引き上げてくれました。それをまず克服できる状態に進めたいです。できれば、私の声がまだしっかりと出る間に、賢三といっしょにギグができるなら、奥様とライブを見に来ていただけるよう努力します。」


「杏子。。。 リードが取れるようになろうな。」


「うん。ゴーグル無しでできるようになりたい。」


井上先生の部屋から出てきた杏子と賢三は、まだ呆然としていた。何も言葉に出てこなかったが、杏子はしっかりと賢三の腰に手を回し、賢三は杏子の肩を抱き寄せていた。


「杏子、俺はお前を離さないから。。。」


「うん。。。」


翌日に杏子は退院した。久しぶりに両親と祖父母、そして賢三と数日過ごした。近所に越してくることになった、みどり子とクリスも家にやってきた。週末には完全に引っ越してくることになったと言う。賢三は手伝いを買って出た。自分の周りが賑やかだと確かに落ち込んでいる暇がない。 杏子は、仕事を辞職すると決めた。『一身上の都合』ということにした。事実を知っているのは、みどり子とクリスだけだ。 病気であることを知らせて、そのまま働くと、人事課でとどまっていてくれるとは限らず、ミスも多くなるだろうし、そのたびにみどり子がそばにいてくれるとは限らない。他人から奇異な目で見られるのが嫌だったこともある。。。まだまだ普通に暮らせるという自信もあるのだが、仕事でミスを犯すことを病気のせいにしたくない。そう、憐れんでほしくないのが本音だった。 荷物を取りに会社に行かなくてはいけない。。。賢三に同行してもらうことにした。大した荷物があるわけではないが、部署の同僚にだけは『さようなら』を言っておきたかった。みどり子は、先手を打って、部署のみんなに、理由を聞くな!と釘を差しておいてくれた。何度も同じ説明をしなくて済むし、一身上の都合と書いたのだから、察してください・・・という感じの悪い対応をしなくて済む。ありがたいことだ。ただ、納得行くことを言わなければ、変な噂にもなる。だから一言だけ加えることにした。賢三も一緒だから、勘ぐられることはなさそうだ。 


「大変お世話になりました。 いきなりの辞職で、驚かせてしまって、すみません。実は私、この前、流産しましてね、実はこれで、2回目なんです。だから、少し心身ともに休んで、のんびりと音楽聞いて過ごそうと思います。原田さん・・・おっと違った、今はジョーンズさんに、私のやりかけた仕事はすべて任せましたので、どうか、ご心配なく。では皆さん、お元気で。また、どこかでお目にかかれますように。」


「林さん、どうかお元気で。いつかまた貴方の歌が聴けると信じてますから、どこかでライブする時は教えて下さい。あと、いきなりだったので、プレゼントを用意できてないのですが、別送させてもらいます。取り急ぎアレンジで作ってきた花束だけが、間に合せのようで恐縮ですが受け取ってください。」


 杏子は嬉しそうに大きな花束を受け取った。みんな、それぞれに握手してくれたり、元気で!と声をかけてくれた。段ボール箱1つ、賢三が持ってくれて、エレベーターに乗ろうとしたら、ドタバタと走り寄ってくる人がいた。中原京介だった。


「ディーヴァ! いきなり辞めるって聞いて、驚いて来ちゃったんだけど、本当だったんだね。。。 あ、ご主人、こんにちは。呼び止めてすみません」


「京介、色々とお世話になりました。大手との契約は、もう手伝えないけど、貴方の昇進は確実だから、頑張ってね。」


「杏子がお世話になりました。あのカラオケライブ、今でも印象に残ってるでしょ?楽しんでもらえてよかった。杏子はまたリード取れるようになったら、見に来てください。」


「もちろん行きます。貴方の演奏も聴きたいので、また連絡させていただきますね。」


「どうも、ありがとうございます。俺は教師になることが決まりました。サックスは続けますがミュージシャンよりもやりたい仕事だったもので。だから今後のギグは少ないですが、必ずご連絡します。じゃ、これで。」


 杏子と賢三は、京介から名残惜しそうに見送られた。でも、杏子はハツラツとしていた。


「杏子、教員採用試験も、どうにか受かったし、卒業も問題なしなんだけど、少し旅行行かない? 九州あたり。長崎の佐世保とか、ジョン・コルトレーンの演奏した場所や長崎の原爆記念碑のある公園とか回りたいんだ。どう?」


「そうね、私、九州って行ったことないし、コルトレーンの訪ねた場所なら、賢三の聖地巡礼かもね? 行こう!!」


「新婚旅行みたいなものだよね! コルトレーンと奥さんのアリスも佐世保や博多に行ったんだよ。 ホームや電車の中でフルート吹いたんだ。」


「そういう写真が残ってるよね。 でも、もうやらせてくれないと思うけど。。。賢三ならやっちゃう?(笑)彼は反戦家だったし、私も原爆記念碑の前に行きたい。とんこつラーメンも食べたい! 夜行列車で行こうよ!」 


 今まで、杏子からどこかに『行こう』と言われたことはなかった。もしかすると少し焦っているのではないか?と賢三は懸念した。自分の命が決して長くないこと、そして、それ以前に、今は普通にできる行動が、多分、そう遠くなく制限されてしまうことなど。。。持ち前のポジティヴ志向から、それを見せないようにしているが、賢三といっしょに歩ける間に、並んで歩きたいというのは、痛いほどよく分かった。ポジティヴ志向とはいっても、近しい人々に心配させたくないという理由があるからだが、トラウマを抱えて生きている繊細な人が、怖わがらないほうがおかしい。それをなんとかして最小限に保たせてあげること。。。それしかやってあげられない。こんなに医学が進歩しているのに、まだ治せない病気があるというのは歯がゆい。 大学の方では一ノ瀬に連絡して、事情を話した。一ノ瀬と絵美里、そして杏子と意気投合していた綾子は、泣き出したようだ。彼らに一任して、賢三の大学に関してのことは上手くいくように立ち回ってくれることになった。翔平は真面目に大学に来ていて、どうやら大学院に進むことができるらしいので、余裕を持っていて、横須賀に行くことが多くなっていると聞いた。 トレイターズは実質休業ということになっている。 バンド仲間たちは、全員で応援してくれる。 いっときも無駄にならないように、思いついたときが、やり時ということだと一の瀬に念を押された。 今、杏子はみどり子とビデオ電話で話している。仕事柄やり慣れているみどり子は、旅行プランを立ててくれることになった。


「二人が相談してくれて、すっごく嬉しいよ。夜行列車で九州か。。。あった! サンライズ出雲でコンパートメントが取れるわ! もう、最高に絵になる。あのシャネルNo5のCMみたいなの、どう?? いい!凄く良い!! 賢三くん、ビデオ回しなさいよ。 往復にする? それとも帰りだけ新幹線で帰って来る?」


「往復夜行もいいかも。そう言えば、素敵なシャネルのCMがあったわね、ビリー・ホリデイの曲で。。。あれはオリエントエクスプレスだったような。。。(笑) 私と賢三でも絵になるかな?? 私、No5は好みの香りじゃないしな。。。それに、私はビリー・ホリデイの声質は作れないんだ。。。」


「杏子は杏子のオリジナルで、あの曲を歌ってよ。 I'm a fool to want you  名曲だよね! 今から練習しておいて。杏子がビリー・ホリデイって思うだけで鳥肌立っちゃうわ! ね! クリス。そっちの賢三くんも聞こえてるんでしょ?」


「はい!聞こえてますよー! 杏子がビリー・ホリデイと思うと、なんか、感激して泣きそう、俺。。。」


「何言ってんの! 私の声質はあそこまでハスキーじゃないから無理。。。でも、私なりにアレンジして練習するかな。。。」


 杏子の周りの人々はみんな、なんとか彼女を落ち込ませないように、そして、どうにか現状を長く維持できるように願い、多方面から支えていこうと決意していた。 賢三の友人たちは彼に関しても心配でならなかった。あの国宝級の誑し男が、そうでなくなってしまうのではないかという不安が、全員にあった。


カウンティングスターのマスターから電話が入る。


「あ、賢三くん? 陽介です。忙しいところ電話して、ごめんね。 美津子が賢三くんに来てほしいっていうんだけど、時間取れないかな? できれば1人で。。。美津子が言うには、杏子ちゃんにも一人の時間が欲しいかもしれないからって言うんだ。。。どうかな? もちろん賢三は24時間一緒にいたいだろうけど、どう?」


「陽介さんも美津子さんも、色々と考えてくださって、ありがとうございます。 そうですね。。。たまには数時間一人にさせても良いかもしれない。好きなソウルの曲でも爆音で聴いていてくれたら良いし。じいちゃん&ばあちゃんも、そばにいるし。 伺います。今日??」


「うちはいつでも良いんだけど、今日なら美津子が喜ぶと思う。」


「じゃ、後で伺います。」


 杏子は快く行っておいでと言った。自宅の音楽室にいることが、どれだけ不安を取り除いてくれるか、自分はよく知っている。ビリー・ホリデイの練習しておくよ! と賢三に言った。賢三は苦笑いした。。。あの曲にはサックスもフルートも入ってないから。。。ソロになっちゃう。賢三がいなくてもあの音楽室なら大丈夫。。。大丈夫。。。杏子は自分にそう言い聞かせた。吹けば一気に崩れてしまいそうな精神状態の今、賢三のいない時間は不安でしかない。でも、それを克服しなければいけないから『大丈夫』と呪文を唱えるように何度も心のなかでつぶやき続けた。『行かないで!』と言ってしまいたい。でも、それを言ったら、賢三は自分自身をなげうっても私と一緒にいようとして、彼をなくしてしまうから。。。賢三が賢三でいてくれないと、杏子は心の支えもなくすことになる。賢三は傍にいてくれるだけじゃなくて、彼の積極的な行動力とチャレンジ精神がどれほど杏子を感動させて、引っ張ってくれたか。賢三の持つ独特のポジティヴ志向こそ、なくしたくないし、ずっと観ていたいもの。。。  

 杏子はふと考えた。。。リードを取ることを目標にするのも良いかもしれない。トラウマを克服。。。歌えなくなる前に。


「あ、彩子さん、杏子です。お元気ですか?」


「え? 杏子さん? お体の方、もう大丈夫ですか? すっごく心配してました。 私も大学院に行くと決めたので、そろそろトレイターズの練習もしたいのですけど、今度、お宅にお邪魔していいですか?」


「どうぞ! いつでも気軽に来てください。実は私もピアノのことで少し相談があって。。。 彩子さんにブルースの伴奏お願いできるかな?って。。。曲にはサックスも入るのですけど、私、彩子さんの隣に座らせてもらえればリード取れるかもしれないと。。。ニーナ・シモーネ できます?」


「うわぁ~〜それ、大歓迎ですよ! はい!ニーナ・シモーネはレコード持ってますよ。 やりましょう!ご一緒に!」


「ありがとう。私、トラウマが克服できるまで、彩子さんに付き合ってもらえると嬉しいのだけど。。。ニーナの曲なら私もピアノ弾けるのですけど。。。指が動かないことがあって。。。」


「それは光栄のほかにありませんよ! 杏子さんはリード・ヴォーカルに専念してください。 私なら、賢三くんもヤキモチ焼かないでしょ?(笑) 翔平だと、もう、目が血走っちゃいますからね! (爆笑)」


「よかった。。。私、会社辞めたので、いつでもここにいますから、時間がある時、ぜひ来てください。」


「了解でーす! 今日、伺いましょうか?? この後、何も予定ないんです。 実は今、一ノ瀬くんもそばにいるのですけど、連れてっていいですか?」


「ほんと? 来てくれますか? じゃ、二人で、あ、もちろん一ノ瀬くんの彼女の絵美里さんも、是非一緒に来てほしいと伝えてください。待ってますね!」

 

必要以上に元気な口調だったように思う。不自然に聞こえたかもしれないけど、優しい仲間たちに気を使わせるよりも気分的に良い。自分も考えすぎて奈落の底に落ちていくのを感じる暇がないほうが、好都合だ。少しずつ、これに慣れて行けば、賢三を不安にさせることは少し軽減されて良いはず。 杏子はあのトラウマになる事件を経験したときから、自分に対して憐れんでくる人を嫌った。自分は可哀想な人間ではないと常に思うようにしている。確かにトラウマになるほどのダメージは不運だった、でも、自分は人の上でも下でもない。誰かに跪いて、ひれ伏して、またはそれから逃げて生きるなんてまっぴらだ。ただし、共感を持てる人が苦しそうなら必ず救いたい。賢三は嫌がるかもしれないけど、翔平に冷たくしないのは、そこが大きいかもしれない。こんな病魔に取り憑かれるとは思わなかった、でも、賢三という自分にとっては世界一の男と巡り会えたこと、愛し合えていること、最高の幸運と思える。あぁ、なんてラッキーなのかしら。。。

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