第21話
「ごめん! 井上先生と話し込んじゃって。。。ねぇ、知ってた? 井上先生の奥さんって芸大でチェロやってたんだって!大学としては先輩だったんだよ。だから色々と話しちゃったんだ。。。遅くなってごめんね。少し疲れは取れた?」
「まだボケっとしてるけどね、ずいぶん楽になったよ。へぇ~! 井上先生の奥さんがチェロ弾くんだ! もっと早く教えてくれたら良かったのに。。。 で、それだけでは呼ばれないでしょ? 何を話したの?」
「うん・・・もう少し杏子の体力が回復したら、一緒に詳しい話を聞くことにしたんだけどね。。。俺から先に言っておく。 どうやら、俺達に子供は作れないらしいんだ。」
杏子は一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻った。
「杏子の卵子と俺の精子には問題ないらしいけど、受精卵が子宮に上手に着床しても、どうしても剥がれてしまうらしい。だからこれ以上は杏子の体を傷つけるだけになってしまう。 杏子に遺伝性の病気が見つかったんだ。だから子供ができたとしても遺伝させてしまう。どちらにしても杏子の子宮が受精卵を保つことができない。。。俺もまだ納得したわけではないんだ。。。でも、もうこれ以上杏子の体に負担はかけられない。心配しなくていいぞ、子供を作れないだけで、普通の夫婦生活は大丈夫なんだって。ただ、、、」
「ただ、、、なに?? 子供が作れないっていうだけじゃないのね?」
「筋ジストロフィーっていう病気らしい。アメリカの家族は今回の杏子の事態を知らされて、全員検査したんだ。杏子のお父さん側のお祖父さんは、事故で亡くなっているけど、急性心不全はジストロフィーからの可能性が大きいらしい。お父さんはキャリアだったみたいだけど、発症していない。奎子ちゃんにはそのDNAが受け継がれなかった。杏子だけだった。表情が顕著なのは隔世遺伝だと言ってた。お父さんは落ち込んでるみたいだ。」
「それって、治療法があるのかしら?? 昔だけど、ジェームス・マカヴォイが出てた『Inside I'm Dancing』っていう映画を見たことがあるの。その主人公が確かその病気だったと思う。。。その映画では治療法はないって言ってたわ。。。」
「わからない。。。でも、現代医学は大きな進歩を達成しているし、上手に付き合うことは可能かもしれない。子供は作れないけど、俺と一緒に楽しく暮らしていこうよ。」
「賢三。。。賢三。。。私、どうしたらいいの。。。」
賢三は思わず杏子を抱きしめた。杏子の体が震え始めている。。。
「泣いてしまえ。これから大変なんだから、今、弱音を吐いてしまえ。俺がしっかり受け止めるから。」
「ごめんね、賢三。。。ごめんね。。。」
杏子は声こそ出さなかったが、溢れる涙を止めることはできなかった。賢三は杏子を更に抱き寄せた。
「何言っているんだよ、なんで謝るの?? 杏子のせいじゃない。これは運命だからちゃんと受け止めよう。。。俺は杏子と一緒なら、どんな形でも生きていけるよ。仲間が減るわけでもないし、楽しくやっていけるさ。井上先生が色々と調べてくれているよ。俺達にあったスタイルで、楽しく生きていこうよ。」
一緒に泣くにはまだ早い。まだ実感が伴わない。これからとんでもない現実にぶつかっていくことになる。。。子供ができないだけではなく、杏子を失う覚悟もするべきなのだろう。今はあまりにも動揺が激しく、何をどう考えて良いのかもわからない。杏子の不安をどう対処してあげたら良いのか。。。とにかく前を向くようにお互いの意識を集中させなければ。。。そんなこと、俺にできる?? 杏子は俺の手の届かないところに少しずつ、彼女の意思に関係なく進み出している。。。 嫌だ。。。杏子を失うなんて、考えられない。行くな!行かないでくれ!! そう頭の中で連呼していた。言葉少なめに一晩一緒に過ごした翌朝、杏子の両親と妹が病院に来ていた。 杏子は、あまり表情を変えなかった。
「みんな元気そうで良かった。そんなわけだから、私はもう赤ちゃんが産めない。子供を欲しがってた賢三には悪いけどね。。。マムには、何も遺伝してなかったのかしら? 気がつくはずないよね。。。」
「杏子・・・私には、杏子が貰い受けたDNAがないの。。。調べたら奎子にもなかった。私のお父さん・・・つまり、杏子の私側のお祖父さんからの遺伝らしい。。。隔世遺伝。彼は、交通事故で若くして亡くなったので、ジストロフィーに関しての記録がなかった。彼が白血病患者への治療に役立ててほしいと残した骨髄液が冷凍されていて、それでわかったの。誰にも使われてないのは不幸中の幸いだった。今、その骨髄液は、ジストロフィー研究所に移して研究に使われている。 杏子、研究はどんどん進んでいるの。だから、少しでも希望を持って上手に付き合いながら生きていこう。私はもうアメリカに帰ることはない。ダディは仕事を片付けるまで研究所にいてもらうから。奎子は向こうの学校を終了させるつもり。貴方と一緒にいると言っているけど、彼女がいればダディも一人ぼっちじゃないから、どうかなと思って。頻繁にこっちに来てくれるみたい。」
「そうなんだ。私には賢三がいてくれるし、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんもいるから大丈夫よ。長めの休みの時は顔を出してくれたら、それで十分。今まで、まともにホリディを取ったこともないじゃない? 私は賢三といることが心地良いのよ。」
「そう。。。たしかに私じゃ役不足かもしれないけど、杏子と一緒にいたいのよ。。。ダメかしら?」
「ダメじゃないけどね。。。私を哀れに思ってほしくない。トラウマを生んだあの時、マムは私を憐れんだでしょ? あの時思ったの、あぁ、私は可愛そうな子になってしまったんだって。。。でも、だからこそ、自立心も旺盛で強くなれたと思うの。ありがとうマム。私にも素敵な人を愛することができたし、幸せになれたから。大丈夫。病気とは上手に付き合っていくから。。。 そうだ、賢三、今晩は好きなところに行ってきて。マムもダディも、そして奎子も、私の前で泣きたいのだと思う。賢三も少し息抜きが必要なんだしね。でも、眠れないようなら戻ってきてもいいよ・・・私も賢三が必要と感じたら、すぐに電話するから。。。少しの時間、彼らにあげて欲しい。」
「わかった。俺、美津子さんのところに行く約束したんだ。だから会ってくるよ。」
「よろしく言って。私は大丈夫だからって。」
「うん。。。 じゃ、お義父さんとお義母さん、そして、奎子ちゃん、杏子を数時間よろしくね。また、あとで。。。」
親子の時間も必要だろうと思った。甘えることを忘れたまま大人になった杏子。数時間でも子供に戻って、泣きじゃくっても良いはず。俺にもそれをしてくれるから、ご両親にはおすそ分けだな。。。 さて、みっちゃんには何から話そう。。。
カウンティング・スターは、今日の営業を終えて片付けかけていた。美津子さんとマスターは、待ちかねたという優しそうな顔を向けてくれた。美津子さんは自分たちに子供がいない分、賢三と杏子の子供に期待していた。まるで自分たちの子供か孫でもできるようにワクワクしていたのだった。杏子も賢三も、彼らにはゴッド・ペアレンツになってもらうと決めていた。
「賢三くん。。。今回は残念だったわ。。。気を落とさないで欲しい。杏子ちゃんの具合はどう? ショックが大きいのではないかと気になっているの。2回目って、きついよ。。。面会時間がお店の方と噛み合わないから、私だけ行こうとしてたんだけど。。。自宅に帰ってからお見舞いに行こうかな?」
「ご心配いただいて、すみません。 杏子は、その、、、流産に関しては処置が早かったので、順調に治っているのですがショックが大きくて、、、あと、この際、色々と気になるところを検査しようと数日入院することになって。。。昨日、医者から俺に話をしてくれたのですけどね。 杏子、子供作れないらしいんです。できても子宮への着床を継続できないんだって。。。それには1つ、関わっている病気があるというのもわかって。。。 みっちゃん、マスター、俺、どうしたら良いのか。。。」
「しっかりして賢三。貴方らしくないわ。私だって子供できないけど、けっこう明るく生きてるよ。どうしちゃったのよ。。。」
「賢三、落ち着いて。何があったか話して欲しい。ここで泣いてしまえ。」
「マスター。。。」
賢三はそれまで抑えていた感情が、一気に溢れ出し、声を出して泣き出してしまった。それには美津子も陽介も驚いた。しばらくして落ちつき出した賢三は、この2日にあったことを、しっかりと話した。 流石の美津子と陽介も言葉を失ってしまった。マスターの陽介は、賢三の肩を叩き、その後、美津子が抱きしめた。3人で沈黙したままだったが、陽介がブランデーをグラスに入れて持ってきた。賢三は酒を飲むつもりはなかったが、陽介の話だとブランデーには気持ちを落ち着かせる効果があるというので、ちびちびと飲みだした。本当に少し落ち着いた。
「実は今晩のストンプ、翔平が演奏するの。これから行かない?」
「翔平かぁ。。。どちらにしろ、あいつにも話さなきゃいけない時が来るしな。。。行きます。」
客席からステージの上の翔平を観るのは、いつぶりだろう? こんなにも目を奪う存在感のあるトランペッターだったこと、今更ながらに驚いている。いつも自分と並んで、曲を盛り上げていた相方は、こんなにもセクシーな男だった。コイツは杏子が一緒なら、どれだけ暗くても必ず見つけ出し、すぐに駆け寄ってくる。今日は美津子さんにトランペットを持ち上げて挨拶した時、隣に賢三がいるのをやっと見つけたのだった。目を見開いている。杏子を探し始めているのが分かる。俺を見つけて杏子がいないというのが腑に落ちない様子だった。ステージを駆け下りてくるには時間がない。。。すると、いきなり翔平はマイクに近寄って、珍しくひとこと言い出した。
「杏子ちゃん、どこにいるの?これ、君を思って吹く曲だから、ちゃんと聴いててね。」
曲が始まった。翔平のバンドじゃないのに、選曲は彼のものだと言う。Irresistible Bliss まさに翔平にとっての杏子を表すような曲名の優しいトランペットだ。だからその場に彼女を見つけたかったのだと分かる。俺でさえ、容易に杏子を思い浮かべられる。翔平は天才だと認めるよ。。。あぁ、、、杏子。俺の最愛の人。
最終演奏までしっかりと聴いた。終わると、翔平はまっすぐに賢三と美津子さんのところに走ってきた。
「何だよ、杏子ちゃんは何処? どこに隠してるんだよ。。。Irresisitible Bliss 良かっただろ? もう、杏子ちゃんのことを思うとあれが吹けるんだよ。。。ね、みっちゃん、それは許してくれるんだよね? (笑) 俺、今日は機嫌いいんだけどさ、早く杏子ちゃん出せよ! 約束は守るさ。 俺からは抱きつかねーよ。・・・
おい、何? なんかあった??」
「あぁ、翔平、今日の演奏は良かったよ! 賢三もじっくり観てたしね。 今日は杏子ちゃんは来てないのよ。。。ごめんね。。。知らせてなかったけど、杏子ちゃんね、また流産しちゃったのよ。今入院中。。。」
「え? 嘘だろ? で、なんでお前がここにいるんだよ? 賢三! 付いてなくて良いのかよ? お前らしくないんじゃね??」
「あぁ、、、杏子の両親がアメリカから来ててさ、たまには横須賀で息抜きしてこいって、杏子に言われたんだ。」
翔平がバンドのメンバーとストンプのマスターに挨拶して、急ぎ足で賢三たちのところに戻って、カウンティング・スターに戻ることになった。陽介さんは翔平には酒は出さないことにしていた。翔平を元の木阿弥に戻したくないというのが確実に守られている。それもあって、賢三も酒は飲まず、マスターに美味しいコーヒーを淹れてくれと頼んだ。 マスターは取って置きのハワイアン・コナを用意した。ハワイアン・コナは高級豆となった。その香りとコクは、ブルーマウンテンよりも上と言われるようになっている。そのアロマが気分を落ち着かせてくれる。今の賢三と翔平には、ちょうど良いと考えた。
「落ち込んでる賢三は、観てて、ちょっと痛々しいな。杏子ちゃんのお腹が大きくなるところを観ていたかったけど、2回も流産って、可愛そうだ。。。アメリカから家族が来たの?、前回は来なかったよな。」
「翔平。あのさ、お前が杏子のことが好きだというのは変わってないと思うけど、彼女は俺の奥さんだというのはわかってるよな? 杏子は俺のことを愛してるんだ。それもわかっているよな?」
「分かってるよ。。。俺には手が届かないことは分かっている。。。でもさ、俺が彼女にどれだけ救われたか、そして、彼女が俺の理想だってこと、賢三だって知ってるだろ? 杏子ちゃんに恋愛感情を持たなくなるのは不可能だよ。でも、手に入れようとは思ってないよ。ずっと観ていたいだけだよ。お前に愛されている彼女は、格別に美しい。賢三に愛されている彼女を考えるだけで曲ができるんだ。それまでダメとは言わないで欲しい。。。」
「賢三くん、翔平は杏子ちゃんの『推し』だということさ。推しの中には、度を越す子もいると言うし、翔平は発言だけだから、そのへんは普通のアイドルの推しよりもマシかも知れないよ。。。この』言葉知らずの『推し』に、衝撃の真実を話しておいても良いかもしれない。『推し』が心から愛している人の口からなら、信じるだろう。」
翔平は、何を言われているのかわからないようだが、いつもどおり、へっちゃらな顔をしていた。はにかんだような表情は、少し幼く感じさせるような。。。これがグルーピーまがいな女たちを寄せ付けてしまうのだ。美津子が彼を可愛いと思うのがよく分かる。ここまで女に不自由がないように見える男が、なぜ杏子にだけ執着してしまうのだろう? 人妻好きという性癖はよくあることなのだけど、それ以前に、自分の描く理想にドンピシャなのか? じゃ、俺と同じじゃん。。。と賢三は考えた。先に出会ったのも幸運だが、杏子が自分を欲してくれたこと。それが賢三の誇りだった。
「翔平、杏子はさ、もう子供が産めないんだ。できてもお腹で育たない。それだけでもショックなんだけど。。。ある病気が見つかったんだ。筋ジストロフィーって言って、筋肉がどんどん動かなくなってしまう。いつか歌うことができなくなり、車椅子での生活になると思う。この病気は、遺伝性で、治癒できない。治らないだけじゃなくてどんどん悪化していくんだ。明日、医者と一緒に話をする。それからのことは、まだよくわからないけど、杏子を支えながら生きていくよ。だから、翔平も理解してやってくれ。。。」
「お前、何言ってるんだ。。。治らない病気って、まさか、杏子ちゃんは死んでしまうってこと?車椅子でも生きていけるんだろ? 違うのか??」
「だから、進行してしまうんだ。。。心臓っていう大事な臓器はさ、筋肉で出来てるんだよ。わかるよな。。。 でも、それがいつかはわからない。人によっては何十年もその病気と付き合っているらしい。俺は杏子の生命力にかけているんだ。きっと病気ともうまく付き合っていけるんじゃないかって。。。」
「あの素敵な笑顔さえ保ってくれたら、歩けなくてもいいさ。。。お前は結婚したんだしな、しっかりと面倒見ればいい。お前ができないなら、俺は彼女をいつでも慰められるぞ。病気くらいで要らなくなるなら、さっさと俺にくれよ おれは一生傍で過ごしてあげるぞ。」
「ふざけるな。俺は杏子を誰にも渡さない。 杏子は俺が必要なんだ。お前じゃない、翔平。」
「はい、はい、二人共。。。あなた達、杏子ちゃんの気持ちを無視してない? 今はどんな形になっても彼女を支えることでしょ? 彼女はあなた達が演奏する Hannibal がどれほど好きか分かってるの? あなた達二人のあの曲、サックスとペットの掛け合いは、私達を魅了する。それが杏子ちゃんにとっても、心地よくて感動的だっていうこと。また見せてくれるんでしょ?」
「そうでした。。。美津子さん、ありがとう。今はとにかく杏子の事を考えなくちゃ。。。 じゃ、俺、病院に戻ります。明日、医者が杏子に話すらしいし。。。 あと、翔平。さっきの演奏、すごかったよ。やっぱ、お前は天才だ。また俺とデュオってくれ。」
「あぁ、俺のペットに合わせられるサックスは、今のところお前しかいないからな。。。杏子ちゃんの前でまたやろう。」
賢三はそのまま病院に帰ることになった。3人で賢三の後ろ姿を見つめていた。 美津子は翔平の片側の肩に手をかけ、頭をくっつけた。陽介さんも逆側から翔平の肩を叩いた。
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