第20話
みどり子は上機嫌だった。事実上、クリスと結婚したことになり、自分の両親からも祝福され、ビデオ電話だったが、クリスの両親や兄弟も大喜びしてくれた。杏子の祖父のお陰で、クリスが気に入った家を借りることができ、家賃はあってないようなもの。。。ただし、大掛かりな修繕以外の修繕や改装は自分たちで負担とするなど、あまりにも優遇されたので、それでは申し訳ないということで、きちんとした契約書を作った。クリスはこの家屋と土地の税金を負担すると約束した。明るい公園と散歩道、さらには良い商店街もある。それでも、みどり子にとって、何よりも嬉しかったのは、杏子と賢三の家の傍だということだった。歩いて10分かからない。実家よりも頼りになる友人の傍、ありがたい。クリスは、林家の音楽室が羨ましい。そして、彼らの上質な演奏の練習などを聴けることが何よりも楽しみだった。みどり子は、少し落ち着いたら結婚式を挙げたい。そして、賢三のバンドに演奏してほしいと考えていた。杏子と賢三には仲人もやってほしい。
「ディーヴァ! 仲人もやってほしいと思うのだけど。。。赤ちゃんが生まれちゃうとそう簡単じゃないよね。。。山本さんのおじいちゃん&おばあちゃんにやってもらおうかな?」
「すぐだったら私達でできると思うけど、色々と計画立てるなら、私は当てにならないかもしれないよね。。。じいちゃん&ばあちゃんにやってもらうのは、きっと喜ぶと思うけど。。。婚姻の証人だしね! あの時、あの老夫婦がものすごくイキイキしてた。賢三との結婚が決まったときと同じだったよ。」
杏子は心から喜んだ。 彼らの馴れ初めも知っているし、賢三と祖父母はこの2人を歓迎していた。親友の夫婦が傍に住んでくれるのは、いろいろな意味で心強い。みどり子たちもそう思ってくれているようで、嬉しい。 両親と離れて暮らすようになって何年だろう? 年の離れた妹は、両親と暮らして幸せそうだ。週に一度は連絡が来る。妹は学者肌だ。両親ともに研究職だけど、特に父に似ているようだ。私とは全く違うが、音楽は好きで、音楽で姉の私と繋がっていたいと思うようだった。ピアノは習っているようで、アメリカでの生活に入り込んでいる。理系の勉強は、確実に姉の私よりもできる。母は、堅物になりそうで困るという。堅物だって良いじゃない?素敵な恋ができるようになれば、すべてがご破算になる。ネガティヴな部分がなくなり、持って生まれたポジティヴな部分が前面にでてきて輝いてくる。男女ともに、恋をすると、さらには、その恋が成就すると美しくなる。自分では気づかないことも多い。私もそうだったと思う。沢山恋をしたというつもりでいたが、賢三に出会って、それらが本物の恋ではなかったと痛感させられた。賢三は、ただ単に年下というだけではなく、あの時、彼は高校生だった。その事実が幾重にも広がる自分の恋心に、歯止めをかけようと、必死の抵抗をし始めていたっけ。。。賢三はそれを、いとも簡単に打ち破ってくれた。彼には困難とか、ハンデという言葉を覆すような力があった。それもごく自然に、当たり前のことだと言っている感じだった。私にとって、自分にはない憧れるような賢三の性格と態度。容姿も含めて賢三は理想だった。さんざん嫌な目にあって、心身ともに叩きのめされたトラウマを抱えて、それでも音楽に関わることを止めなかった自分だけど、まさかこんなに真剣で鮮明な恋に落ちることができるなんて、奇跡のようだった。天は自分を見捨てなかったんだと思えた。めぐり逢いって不思議だ。自分は髪の毛一本一本から爪先まで、完全に守られていると自覚できるほど、賢三の愛情はソリッドで、お互いを信頼し合っていることは、疑う余地など微塵もない。 どれだけ美しい女性が現れたとしても、賢三が自分から離れることなどないと確信できる。そして、同じ気持ちを賢三にもあげられる。
「杏子、今日さ、教育実習した学校からの評価が来て、びっくりするほど良い評価をもらえたんだ。実際は、担当してくれたクラス担任の篠さんには、かなりきついこと言っちゃったんだけどな。理解してくれたようだ。今後は良さそうな高校を探すつもり。杏子は俺にミュージシャンでいてほしかった?」
「良かったね、努力した甲斐があって。賢三は先生に向いていると思ってた。ただ、中学生はどうかな??って少し心配してたの。高校向けの先生だと思ったからね。 ミュージシャンじゃなくなることはないんじゃない? 先生はミュージシャンでもあって良いんじゃない? ただ、お金を稼ぐような活動はできないかも? CDは作って売ることくらいはできそうだけど?? だって、本を書いている先生っているでしょ? 文学も音楽も、同じ芸術じゃない? だから大丈夫よ!」
「そうだよな。バンドは続けていきたいし。ただ、ジャズバンドは同じ仲間で継続することは稀だけどね。。。今のところ、翔平が俺と組むのが好きだからやっているけど、翔平はもっと自分だけのソロを前面に出せるバンドのほうが向いている。俺のサックスが邪魔になるはずだ。メインのラッパは2つがぶつかり合うのはいらない。聴く方だって、ペットだけを欲しいと思う人もいれば、サックスが聴きたいんだと思う人もいるし。今のところ、ベストな温度を保っているけどね。。。」
「うん、それは分かる。賢三は器用だからジャズのスタンダードが行ける。でも、翔平はフュージョンが好きだし、似合う。一ノ瀬くんと彩子ちゃん、そして一也くんも続けたいと言いそうだから、そういうバンドになる方が良いと思う。翔平は、とことんミュージシャンで行くはず。それでいいのよ。。。関係がなくなるわけじゃないもの。 ねぇ、賢三。。。貴方は子供ができるから安定した仕事を選ぼうとしているわけじゃないよね? あくまでも『好きな仕事』を選んでいこうとしているのよね?」
「なにそれ? 杏子は何を心配しているの? 俺は根っから正直者なんだけどな。。。俺、教師って面白いって思えたんだよ。人に伝えられるって、凄くない? 才能を引っ張り出せるかもしれないって、それも一つの才能だなって。やり甲斐ある仕事だと思うんだよな。。。だから、心配しないで欲しい。サックスは大好きだけど、ミュージシャンで生計を立てたいと思ったことはないんだ。楽しんでいたい。仲間と一緒に一体感を味わいたいって、いつも思ってるだけ。 その中で杏子と知り合えた俺って、めちゃくちゃ幸運な人間だと思ってる。家族が増えることで、何かを諦めるなんてしないよ。俺ってさ、強欲だから、どっちも欲しいの。 杏子がもしも、もう一度リードを取るシンガーになりたいと思える時が来たら、俺、全面的にサポートするよ。子育てだって、やっちゃうよ! ほら、俺、強欲だからさ。(笑)」
「愛してるよ、賢三! 幸運なのは私の方よ。賢三と巡り会えて良かった。 この子・・・どっちだろうね? 賢三に似た女の子だったりするかもね?」
「それは困るかもしれないな。。。ま、どっちでも良いさ、杏子に似てくれるならどっちでもいいんだ。俺と杏子の子供だもの、無条件で愛せちゃうぜ!」
林家も山本家も幸せを満喫できる日々を送っていた。その2週間後。。。
・・・・ここはどこだろう? ずいぶん長く、よくわからない夢を観ていた気がする。。。でも、自分のベッドじゃない。蛍光灯の光って、好きじゃない。。。だから家の灯りはすべて白熱灯。間接照明にして、柔らかい雰囲気にしてある。 我が家の天井は木目だったはず。。。これは白い地に、ごま塩のような模様がある天井、こんな部屋は家のどこにもないはず。視界の脇に黄色い液体の入った袋が吊るされている。かすかに人の声が聞こえる。。。みどり子が小さな声でクリスと話しているようだ。。。会社の部署のこと?。。。アレックスがイギリスに帰ることになったようだ。。。中原京介は困っているだろう。。。 賢三はどこ? いつもなら悪夢でうなされた時は必ず手を握っていてくれるのに。。。どこにいるの?賢三。。。
傍に来て。。。早く抱きしめて。。。なんだか、凄く怖いの。。。賢三。。。
杏子は、思わず手探りで、自分の周りを確かめ、賢三を探した。
「あ、ディーヴァ! 気がついたのね? よかった。。。 会社の玄関でいきなり気を失っちゃって、私達の目の前で崩れるように倒れちゃったのよ。その後、全然起きないし、すごく、すごく心配したのよ。。。ディーヴァだけでも・・・って。。。。今、クリスが賢三くんを呼びに行ってるからね。無理しないで、そのまま待ってて。水を飲んでいいかわからないからお医者さんが来てからね。ごめんね。。。ごめんね。。。私が泣いちゃ駄目だよね。。。」
「私だけでも?? って。。。もしかして、またやっちゃったの、私??」
「あのね、ディーヴァは普通に歩いていただけだったんだよ。倒れてしばらくしてから出血が。。。」
「杏子!! 気がついたんだね。」
疾風の如くの勢いで走ってきた賢三が杏子の手を握った。 杏子は思わず腕を上げて、賢三に抱きついてほしいと促した。賢三の首は汗ばんでいて、顎があたった部分から小刻みに震えているのが分かり、彼が泣いていることに気づく。
「ごめんね、賢三。。。また落としちゃったみたいね、私。。。大事にしていたつもりだったんだけど。。。今回は、誰かにぶつかったとかじゃないみたいでしょ? 貧血なのかしら?? 増血剤も飲んでたし、頑張ったんだけど。。。」
「うん、杏子は何もしてないよ。たまたま、目眩から気を失っちゃったみたいなんだ。腹痛を起こす前に倒れちゃったらしい。結構な出血量で、みんなびっくりしちゃったけど、まだボーッとしているんじゃない?」
「そうね、、、まだ賢三の顔がぼやけてるかも。。。ごめん、全く覚えてないのよ。。。一体何だったんだろう??」
「賢三くん、私達ディーヴァのおばあちゃん迎えに行ってくるね。2人でゆっくり話してて! じゃ、後でね。」
みどり子たちは病室を出た。賢三は杏子の手を握りながら頭を枕の脇に倒した。
「杏子の子宮は受精卵が着床し続けにくいらしいんだ。剥がれやすいというのかな? 数日入院して検査しようって、先生が言うから、この際、やってもらったら良いと思う。どう?」
「そうだね。 3度目の正直が実現できるように、駄目なところは治しておかなきゃね。」
「着替えとか、その他色々とおばあちゃんが持ってきてくれるって。なにか食べたいものはある? 」
「うん。『雪見だいふく』が食べたい。」
「了解しました! ばあちゃんに小さい方の冷凍バッグももって来といてもらおうか。 そう言えば、アメリカのご両親も気分が良い時にビデオ電話してほしいって。」
「アメリカとは時差があるからね。。。退院してからにしてって言って。」
「奎子ちゃんが泣いてるらしいよ。。。大好きなお姉ちゃんが入院したと言うだけじゃなくて、杏子の赤ちゃんが楽しみで仕方がないらしい。」
「アメリカで育つと、早く大人になっちゃうのね。。。あの子はバカ正直なところが私とそっくりだし。。。勉強はできるらしいから、きっと両親と同じように医者になるんだろうな。。。」
「そこなんだけどさ、杏子のお父さんがここの主治医さんと話したいって言うから、時間とってももらうことにしたよ。」
「そうなんだ。。。じゃ、お母さんも一緒ね。井上先生も大変だわ。。。あの2人は質問多そうだし。」
「でも、それは当然だろう? 俺も詳細を聴きたいしな。血液検査その他、かなり真剣に調べてくれてるよ。前のときと違って、気を失って、ぶったおれちゃったから。。。みんな心配してるんだよ。」
「うん、そうだね。ありがたいわ。 ね、賢三! ここに来て。」
ベッドのリクライナー上部を持ち上げ、緩やかな背もたれのあるソファのようにした。賢三は軽く隣に座り、腕を杏子の肩の下に入れて、サイドからハグした。杏子はこれが欲しかった。 賢三の体の温かさ、腕の力強さ、吐息の優しさに、悲しみが絶妙に絡み合って、こみ上げてくる感情があることに気づき、やっと泣けた。泣くという行為や感情は、あのトラウマを作った事件から杏子に欠落している部分だった。自力で這い上がり、絶対に泣かないと誓った。気が強いと思われることはなかったが、正義感は強く、NOがはっきりと言える日本人になっていた。泣くという人間らしい感情を、少しずつ元に戻してくれたのが賢三だ。会社の接待で、ホイットニー・ヒューストンを歌えたこと。。。賢三に対して歌うならできると思えた。声質が似てて得意としてたのに、それが元で長期間の意識不明となり、死にかけたから。。。一番歌えなかったホイットニー・ヒューストン。 完全な克服ではなかったが、賢三が目の前にいていてくれたから、もう一度歌えるようになれた。彼女の恋歌は、すべて賢三を見ながらだけ歌える。 いつの間にか、5つも年下の押しの強い、それも当時の高校生にメロメロに恋してしまったのだった。鏡を見ながら『一体どうしたっていうの??』と語りかけそうになったものだった。私は盲目になったわけではない、本物の恋に落ちたのだ。この男に出会えて心から幸せだと言える。
「賢三、大好き! 愛してる。。。」
「俺も愛してるよ、杏子! 唯一無二。」
ちょうど杏子のお祖母さんとみどり子が帰ってきて、看護婦さんも1人一緒だった。
「林さんご夫婦は仲良しですよね〜。ナースステーションでも話題なんですよ。素敵なカップルだって。みーんな羨ましがってますよ。 さてと、林さん、血圧測りますね。 あと、旦那さん、井上先生がお呼びです。医長室の方に行ってみてください。井上先生、凄く忙しくてなかなか回診にこられなくて。。。」
「あ、はい、分かりました。義父母さんと電話で話したからかな? じゃ、杏子、後でね。お祖母さん、後はよろしくお願いしますね。」
「賢三くんの分も取っておくからね、雪見だいふく! (笑)」
医長室は、1階上にあった。他の科も、この階に医長室がある。産婦人科は小児科と病室を含め診察室も、いつも隣り合わせで、お産で取り上げた赤ちゃんは、母体から離れるとすぐに小児科の扱いになる。医者と看護師以外の一般人は、退院後の話など、いろいろな事情がある人たちがこの階に来る。病室や診察室のある階と違って、カチャカチャという音や、急ぎ足の看護師の滑り止めを施した靴がキュッキュッと鳴るのが聞こえることはない。 賢三は杏子の最初の妊娠からお世話になっている井上先生には、尊敬と信頼の念を抱いている。 井上先生もまた、この若い音楽家のカップルを非常に懇意にし、まるで近しい親戚のように感じている。患者とその親族には感じの良い医者だが、必ず一線を引く人でもある。必要以上に近寄らないことでも有名な医者なのに、杏子と賢三の夫婦に関してはかなり思い入れを持っている様子だった。実は音楽好きで、自宅には鑑賞室がある。クラシックとジャズの両方を、その日の気分で聴き分けている、プロ中のプロのようなジャズファンであった。そのことは杏子も賢三も知らない。
賢三は足早に井上先生の医長室にたどり着き、ノックした。
「どうぞ、お入りください。」
「失礼します。林です。杏子がいつもお世話になっています。今回も、手厚く治療くださって感謝しています」
「林さん、今回も、本当に残念でした。なんとか胎児を助けようとはしたのですが、すでに手の施しようはなく、何よりも奥さんの健康状態を取り戻すことに集中しました。意識も戻ったようで、本当に良かった。実はものすごく心配したのですよ。意識が戻らなかった場合、どうするべきかと。だからすぐにアメリカのご両親と連絡し、以前の事故についてなども調べさせていただきました。ご両親ともに医療に関わっている方なので話も早く、煮詰めた話もできました。 いや、その、少し前から気になっていたことがあったんですよ。卵巣も子宮も、全く問題ないし、前回の検査の一環で調べた貴方の精子も健康そのものです。だから、着床とその継続維持に少し問題があるのかと思いましてね。この際だから、少し気になったことを、血液検査の時に調べておいた事項があります。余計なことかもしれませんが、いわゆる『老婆心』というものでした。妊婦健診の時に、杏子さんから相談があったのが、腱鞘炎は大丈夫か?というのと、疲れやすく眠いというもの。 眠いのは妊娠中だけではなく、生理の前後なども普通に眠くなるのは、当たり前なので、あまり気にしませんが、腱鞘炎を疑っているほど、手から物を落とすということだったのです。ご主人はお気づきでしたか?」
「飲み物のグラスを落としたことがあります。本人は手が滑ったと言ってたけど、力が入りにくいとも言ってました。あ、そうだ、マイクを落としたんですよ。。。自分で爆笑しながら前代未聞だって言ってましたが、腱鞘炎じゃなくて、若年性の関節炎とかもあり得ますか?? よく、年寄がなるやつ。。。祖父ちゃんがそれなんですけど。。。」
「うん、、、そう考えてしまいますよね。。。 林さん、これから話すことは、非常に言いにくいことなのですが、心して聞いて下さい。かなり動揺させてしまうと思うのですが、大切なお話です。杏子さんのご両親には、これから私がお知らせしますが、多分、医者仲間なので、感づいていると思います。
奥様の杏子さんは『筋ジストロフィー』と呼ばれる病気です。現代医学では治す事ができない遺伝性疾患なんです。受精卵が着床しにくかったのは、それも関係しています。もう一度言いますが遺伝性ですから、林さんは子孫を残すべきではありません。アメリカにいるご両親と妹さんは、すでにDNA検査をしてもらっていますが、数日後に結果が出てくると思います。一番気になるのは同じご両親から生まれている妹さんです。」
「井上先生、俺、ちょっとまだ理解ができていないのですけど。。。杏子は治らない病気にかかっているってことですか? もしもそうだとしても、現状維持で生きていけるわけですよね?」
「林さん、筋ジストロフィーは、治らない病気で、その上、どんどん悪化していきます。個人差がありますから、すぐに悪化しない人も多いのですが直ることはないのです。悪化というのは、歩けなくなったり、話すこともできなくなります。もちろん、歌うことはいずれ。。。 ご存知とは思いますが、心臓は筋肉でできている臓器です。ですから。。。
あなた達ご夫婦は、私が最も大切に見守りたいと思った理想的なご夫婦なので、なんと申し上げていいか。。。とても残念です。杏子さんにもお話しなくてはいけません。その時にご主人はしっかりと支えていてくださらないと。。。だから先にお話したのです。杏子さんは気丈な方なので、多分、貴方以外の人の前では気をしっかりと保つと思います。だから、貴方だけが彼女の本当の気持ちを受け取れるだろうと思うのですが、心配なのは、あのトラウマが蘇ったときと同じように過呼吸になったり、それが元で呼吸困難になってしまったら大変です。ご主人にはその時の杏子さんのショックをしっかりと支えてほしいのです。こんなに子供が欲しいと願っていた御夫婦なので、流産の直後に話すのは、私としても辛いのですけどね。。。先延ばしにするのは良くないかもしれないと。。。そうだ、余談になってしまいますが、夫婦生活は続けられます。あなた達はまだ若い、人間としてそういった感情を無下にしないで夫婦の愛情を表現してください。ただし、妊娠は避けてください。貴方は優しいから夫婦生活を遠のこうとされるかもしれませんが、奥さんのためにも、自然に接してあげてください。お互いが求めることを止めてはいけません。心身ともに支え合うことです。」
「先生、俺は今、思考回路が中断されている感じで、何を言って良いのか、わかりません。でも、その病気と上手に付き合えば、うまくすると爺さん&婆さんになるまで一緒にいられるんですよね?」
「進行具合は個人差があります。すぐに車椅子というわけではないと思いますよ。それにたとえ車椅子の生活になっても、あなた達夫婦は明るくやっていけそうだし、良いお仲間がたくさんいるから、きっと上手にやっていけると信じています。 とにかく、もう少し杏子さんの体調が回復したら、ご本人にお話しますから、それまではご主人も、あまり悲観的にならないでほしいです。杏子さんの体調にも影響があると退院がおくれますし、うつ病などの原因になることも考えられます。そんな副作用はあってはならないんです。」
「気をつけます。ただ、俺は杏子に何も隠すことができないんですよ。隠したこともないのですけど、悩んでいる時はすぐに感づかれちゃって。。。頭の良い奥さんなんです。俺にとっては奥さん以上・・・女神様みたいなんです。そんな杏子を失う覚悟って、どうやればいいんでしょうか?」
「私にできることは何でも協力します。貴方たちは本当に不思議な魅力があるご夫婦でしてね。。。 私も母校を訪ねて、少しですが専門医になった人を探します。私の専門は産婦人科ですからね。色々と当たってみますよ。」
「先生の母校って、何処なんですか?」
「東大の医学部です。私は貴方の大学に憧れてますよ。 実は私の奥さんは貴方の先輩に当たります。弦楽器、チェロを弾いていた彼女に惹かれました。。。大昔の話ですね。。。付き合ってもらえるまで時間がかかりました。彼女には先天性の心臓疾患がありましてね。。。子供は作れなかったんです。私は新生児を取り上げる産婦人科医、皮肉なものでしょ? それでも私達は幸せに暮らしています。娘二人います。どちらも養子です。不慮の事故から両親をなくした子たちです。2歳違いですけど、非常に仲良しで、私たち夫婦を楽しませてくれています。 いつも家では林さん夫婦のことを話します。 音楽家でしたから楽しそうに聞いてくれるんですよ。娘たちも一緒に。彼女たちはまだ小学生ですけどね、家内がチェロとバイオリンを教えています。将来、彼女たちも貴方の後輩になってほしいと家内は希望しています。林さんのバンドが出るコンサート、一度お邪魔したいと思ってます。」
「そうですね。先生の個人的な電話番号を聞いてもいいですか? バンドのライブ、ご招待します。」
「よろしくお願いします。これが個人の電話番号とメールアドレスです。病院のはお持ちでしたよね? どうぞ、遠慮なさらずにご連絡ください。」
「俺のは、今送っておきます。 さて、どういう顔で病室に戻ろうかな。。。先生と話すまで黙っていることはできないと思うのですよ。それに、杏子は多分、何かに気づいてますよ。自分には子供ができないとか何か。。。その筋ジストロフィーとかいう病気かどうかはわからないだろうけど。。。気づかないような鈍感な人間じゃない。誰よりもデリケートで、予知能力のような勘も優れた女性。女神様だと言いましたよね。。。じゃ、そろそろ行きます。杏子と二人だけになったら、子供ができないことだけ話します。難しい名前の病気に関しては先生から話してくれる時に一緒にいます。 でもさ、先生。現代科学、医療は、日に日に進んでいるんでしょ? ならば、治せる可能性だってあるかもしれないですよね。俺はいつでも人間の可能性に関しては信じ続けることができるんだ。だから、杏子と望みをなくさずに前進します。期待しててください。 失礼します。」
賢三は部屋を出て、一歩一歩踏みしめるように歩き出した。スマホを取り出し、電話をかける。
「あ、美津子さん? 賢三です。ちょっと聞いてほしいことがあって。。。近々伺ってもいいですか?」
「何を言ってるんだか。。。いつでも勝手に来てるじゃない。変な子ね。。。どうしたの?・・・賢三くん、何かあった?? いつでも良いよ。何なら今晩来る? 陽介さんにも言っておくから。」
「いや、今晩は無理かも。。。杏子やっと目が覚めたから。。。一緒にいてやりたいしね。多分、明日の晩、お店が閉まった頃に行きます。だめかも知れないけど、とにかく、明日、もう一度電話します。」
「わかった。もう一度言うけど、いつでも良いのよ。好きな時。夜中でも歓迎するからね。元気出して。」
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