第16話
「あ、ゲンさん、俺、賢三です。ゲンさんは5時には起きてるもんな。ジョギングはこれから? あのさ、軽井沢の方までコントラバス取りに行きたいんだけど、今日一日軽トラ貸してくれない? バンドにはどうしても欲しい楽器なんだよね。うん、うん。え? ほんと? そりゃ、できれば屋根付きのほうが良いけど、ほんとにいいの?。まぁ、ゲンさんの八百屋コンバーチブルでも良いんだけど、屋根付きのワゴンのほうなら、コンバスも安心だし、杏子も連れていけるし、最高! じゃ、後で取りに行くね。サンキューです!」
「おい、一ノ瀬! まだ寝てるのか? ・・・あいつ、昨夜、絵美里ちゃんと頑張っちゃったんだな、きっと。。。(笑)朝飯も食べないといけないし、電話して起こそうかな。 杏子、軽井沢いくよ! 起きて! 支度しないとね。」
賢三は、もう一度ベッドに潜り込みたい欲情を必死に抑えて、一の瀬に電話を入れて、杏子をゆっくりと起こした。まだ7時前だが、日帰りだと、できるだけ早く出発したい。階下では、すでに老夫婦がしっかりと起きて、朝食の用意をしてくれている。
「おはようございます。 ばあちゃん、今日はみんなで軽井沢に一ノ瀬のコントラバス取りに行くから、一日いないけど、大丈夫? 帰りは一度全員でここに帰ってくるよ。コンバス音楽室に置くし。ただし、すごく遅くなるから飯はいらない。
できれば、おにぎり作ってくれないかな。。。どこか広々としたところで昼飯にしたいから。いい?」
「あら、そうなの? おにぎりね、任せて! 余っても良いようにたくさん作るからね。鮭とタラコでいいかしら?」
「鮭とタラコなんて、もう、贅沢すぎるくらい。買い置きでもあったの? 準備いいなぁ。。。たくあんと柴漬けもあったっけ?」
「余分に買いおいてしっかりと冷凍してあるのよ。今から解凍して焼くけど、9時位に出るの? お漬物もバッチリあるわよ。」
「そうだね、9時に出たいけど。。。いや、絶対に9時にでますので、よろしく!」
一ノ瀬と絵美里は、慌ただしく布団を片付け、シーツも剥いでたたみ直して洗濯物のあるところにおいていた。このカップルは非常に潔癖で、礼儀正しい。杏子もいつもなら眠そうなのに、今日は嬉しそうに支度を済ませて出てきた。賢三は早速、八百屋のゲンさんから車を借りてきて、門扉のところに駐車しておいた。
「じゃ、じいちゃんもばあちゃんも、変なヤツに騙されて、詐欺にあって壺買わせられないようにな!(笑) 帰りを待たなくて寝ちゃってて大丈夫だから、だからちゃんと鍵かけておいてね。何かあったら電話してください。
4人とも運転できるから、疲れたら交代できるようになってるし心配しないでね。」
4人は元気よく出発した。
「いつぶりかしら? 軽井沢にドライブなんて。 ところで、一ノ瀬くんのご実家にはちゃんと連絡したの?」
「はい、晩飯食べていってほしいって言ってるんですけど、お茶だけと言っておきました。帰りが遅くなると困るし、できれば、音楽室にコンバスを出しておきたくて。。。 あと、この前の台風の時に倒れたブナの木があって、すでにある程度の大きさに切ったから、それも運ばせてもらっていいですか? 絵美里のアトリエに持っていきたいんです。」
「ご迷惑じゃなければでいいんですけど。。。ブナ材は高くて。。。」
「あ、いいよ! 芸大のアトリエに運んでおくのね? ゲンさんにこの車返すの明日だし。先にアトリエに寄って、木を下ろしてしまおう。男手があるときでちょうどいいでしょ?」
「すっごく助かります! どうかよろしくお願いします。」
杏子は、学生たちのそんな会話を聞きながら、窓の外を眺めていた。カーステレオからはウェザー・リポートが流れていて、気分は良かった。競馬場を横目に見たあたりから、しっかりと青空になり、久しぶりの遠出を満喫できそうだと期待した。
軽井沢でも、一ノ瀬の実家は旧軽井沢と呼ぶ、高級別荘地域の中にあった。東京からは考えられない広さの敷地内に質素な邸宅がある。何代も前からの受け継がれた家で、一ノ瀬晶は、嫡男ではないが十分に丁寧に育てられていたように見える。
「やぁ、いらっしゃい。晶がお友達を連れてくるのは中学校以来だね。はじめまして晶の父、一ノ瀬大治郎です。こっちは妻の弥生。今日はご飯でも食べていってもらおうと思っていたのですが、どうやら、そのままトンボ返りだと聴いて、少しがっかりしているんですよ。近々、また皆さんで来ていただけますよう、約束してくださいね。 さ、どうぞ中に。」
穏やかで気さくな感じの両親で、一ノ瀬の親らしいと思えた。一番緊張しているのは、やはり絵美里だった。
「父さん、この人を紹介しなくちゃ。 彼女が上条絵美里さん、芸大の美術学科のほうで彫刻をしているんだ。ぼくの彼女です。しっかりと突き合わせてもらっているんだ。」
「はじめまして、上条絵美里です。晶さんにはとても優しくしていただいています。お目にかかれてとても嬉しいです。それから、今日は、私の教材として倒木の一部をお分けくださるということで、感謝しています。」
「はじめまして、晶から素敵な女性だと話を聞かされてますよ。どうか、長く仲良くしてやってください。あと、倒木ですからね、好きなようにお持ちください。こちらとしても助かります。良い状態にして庭師に管理しておいてもらってますからね。ただ、ものすごく大きいので、数回に分けてお持ちになればいいと思ってますが、今日は、力持ちが2人いるから、大きいのを持ち帰れますよ。」
「ありがとうございます。遠慮なく分けていただきます。 あと、今日は急なお話だったので、手土産もなく、大変失礼をお許しください。」
「あらあら、そんなことはどうか気になさらないでくださいな。晶の母です。今日は上2人の兄たちもいますから、会ってあげてくださいね。あと、林さんご夫妻ですね? お話は晶から聴いています。素敵な御夫婦だと。ほんとに絵に描いたような御夫婦ですね。どうか、晶と絵美里さんをよろしくお願いいたします。 お茶を入れますので、中にどうぞ。」
なぜか杏子と賢三が緊張していた。それでも、大学からの晶の友人として初めて実家に来たということを聞かされて、ちょっと鼻が高かった。 軽井沢は流石におしゃれな街ということで、晶の母が用意してくれたお茶もお菓子も美味しくてセンスの良いものだった。人誑しの賢三は、すでに一ノ瀬家の人々と打ち解けて、歓談していたが、杏子と絵美里が呆れるほど雰囲気を和ませてくれる貴重な人間だと、女2人はホッとしていた。
「杏子さん、林君って、すごいですよね。彼みたいな人が総理大臣になったら世界平和に貢献できそう。。。(笑)でも、彼を本気にさせたっていう杏子さんて、素敵です。お祖父様もお祖母様も素晴らしい方で、なんか、杏子さんのお人柄は家系なんだと理解しました。ところで、大谷くんのこと、大変じゃないですか? 晶さんから少しだけ事情を聞いていますが。。。彼の距離感って、負担になりませんか?」
「絵美里さん、色々と気を使っていただき、ありがとう。賢三がああいう人だから、助かることのほうが多いの、私は比較的無愛想だからね。。。彼と出会えて、私は幸せ。あと、翔平のことは、もうボランテイアっていう感じだけど、なぜか友達と重なるところがあって、どうしても救いたいって思ってしまうのね。。。友だちといっても中学まで一緒だったアメリカ人。もう、亡くなってしまったのだけどね。。。確かに翔平は目に余ることが多いと思うけど、私に任せてほしいの。賢三にも十分に説明してあるのだけど、彼の理解が一番重要なのでね。。。だから、私が二股かけているとは思わないでね。 翔平は稀に見るトランペットの天才だから、潰したくないの。。。精神的に弱いので、鍛えて、人間改造するつもり。あの友人のようにはしたくなくてね。。。」
「アメリカ人のお友達は・・・」
「うん、自殺してしまったの。。。私をトラウマから救ってくれた最初の人なのに。。。彼女が助けてくれなかったら、私は音楽に戻れなかったの。となると、賢三にも巡り会えなかった。 彼女がつなげてくれた縁だったのだと思っている。 ま、とりあえず、翔平は薬物からは抜け出せると思う。後は酒とあの性格ね。。。 賢三ですら音を上げそうになる。。。でも、あのトランペットとは曲の中で絡みたいらしい。息もぴったりだしね。。。 私はアメリカ社会で育ったから、日本ではベタベタしているように見えても、家族とやっているようなやり取りなので全然気にしていないのだけど、端から見ると私は『二股不貞浮気悪女』に見えるらしくて。。。(爆笑) ただ、彼を救いたいの。。。ギリギリなやり方をしているのだけどね。。。数人でも理解してくれる人がいればそれでいいの。絵美里さんもその一人。どうか、あの子を救えるように祈っててね。」
「はい、私と晶さんは、杏子さんと賢三さんを尊敬してます。大谷くんが救われますように。なにか私や晶くんで、できることがあったら、何でも言ってください。」
帰りの車には大きな木の株が2つとコントラバスが乗せられた。実際、ブナの木の株は、コントラバスよりも重かった。。。賢三も晶も、小柄な絵美里がこれを扱うと思うと、不安な感じもあるが、本人はワクワクしてて、重さなど全く気にしてなかった。賢三は、なぜか一ノ瀬の父からワインをケースで2つも貰っていた。それには息子の晶も大笑いしていた。杏子の祖父と車を貸してくれたゲンさんへのお土産ができたと大喜びだった。
「ゲンさんには2本でいいな。(爆笑) じいちゃんは喜ぶだろうし、一ノ瀬が来ると飲める言い訳ができて嬉しいらしいぞ。ま、付き合ってやってくれ。とにかく、ブナの木を美術科のアトリエに運んでしまおうね。その後に我が家です。」
サービスエリアで1回休憩を入れただけで、賢三と晶の2人だけの交代運転で帰ってきた。車の中は音楽と笑い話で一杯となり、子どもの遠足のような雰囲気も重なって、4人共に楽しんだ。絵美里のアトリエに木材を運び入れて、後数回、同じように軽井沢を訪ねようとみんなで約束した。その後、杏子と賢三の家に行く。祖父母が待ちわびていた。 賢三は荷物とコントラバスを出したあと、すぐにゲンさんのところに車を返しに行った。極上の赤ワイン2本でゲンさんは満足そうだった。
家に戻ると、晶はコントラバスを出して調整をしていた。女の子たちはお祖母ちゃんと何やら作りながら楽しそうにおしゃべりをしていた。
「晶、どうよ、久しぶりの自分のコンバスは? 手に馴染んできた?」
「いやぁ~けっこう久しぶりなんで、思わず磨いちゃったよ。湿度のない部屋に入れておいてくれたから助かった。弦を今度調達しに行かなくては。。。」
「あ、俺もテナー・サックスの方を少し観てもらいに山野に行くんだけど、一緒に行く? たまには銀座! (笑)」
「おー!行く、行く!! なに?セルマーの点検? 」
「そんな感じ。一応点検だけはきちんとしておきたいからな。 どう?週の半ば、授業のないときにでも?」
簡単な夜食を作った杏子たちは、音楽室で食べることにした。防音なので、祖父母の就寝時でも談笑できるし、晶と賢三が音合わせをしても大丈夫だった。 晶は気を利かせて、So What のイントロを始めたので、賢三はトランペットの部分までサックスで吹いた。杏子は満足そうだった。やはり、この手のクラシックなジャズにはコントラバスが似合う。この曲になると、賢三は張り切る。ジョン・コルトレーンそのものになろうとしてしまう。。。 この曲に翔平が一緒に入ると、2人のつなぎ部分があまりにもスムーズで、見事な演奏になる。素晴らしいコンビネーションだと言える。
「なぁ、晶、じいちゃんがワインが美味しいって言ってたよ。あんなにもらってきちゃったけど、良かったのかな?」
「山本さんに楽しんでもらえて嬉しいよ。 父が懇意にしているワイナリーがあってね、そこで一番美味しいのを毎年買うんだ、もちろんものすごく安くね(爆笑)。最初は応援のつもりだったらしいけど、口コミから売れるようになってきちゃって、今は確保しているらしいから美味しいとは思ってた。とにかくものすごいケース数を取っているから心配しないでくれ。 父さんは地主だし、長野県の農家はすべて応援しているんだ。」
「そうか、晶は地主の坊っちゃんか。。。絵美里ちゃん、もう嫁入り決定な!(爆笑)」
「賢三、そう言えばさ、マネージャーに関してのことなんだけど、俺は反対する。 せっかくいい感じにまとまってきたバンドなのに、あんなのが入ることで、乱されたくないんだ。それじゃなくても翔平が微妙だし、抜けられても困るから。。。」
「え?翔平が苛つくほどの人がマネージャーで入ったの? 今は彼も微妙な時期だから、変な刺激はほしくないなぁ。。。」
「お嬢様らしくてね。。。フルートを吹きたいらしいけど、賢三と翔平の両方に教えろと言うんですよ。。。軽音クラブなのに、なんで教えないといけないのか?? 普通先生が教えませんか? 俺も絵美里も、あまり良い印象がない女性なんですよ。」
「まぁ、塚野の下心なんだろうな。楽がしたいというのではなくて、刈谷さんを引き込みたいという願望みたいなやつ。アイツもジャズピアノやるだけでけっこう目立つのにな。 ま、実際俺も反対。翔平がピリピリしてるのは困るからな。ま、塚野にはみんな反対してると伝える。俺は翔平が抜けると言い出さないうちに対処してほしいかな。。。」
4人は和やかだった雰囲気が一気に暗くなった気がして、就寝することにした。 杏子の祖母は、奥座敷のもう一度布団を用意してくれていた。察しの良い人である。
杏子がバックヴォーカルを務めるバンドは、アメリカ人のドラマーを含める4人で演奏するソウルバンド、楽器はすべてエレクトリックで、ベースなどはスティングレーを扱い、迫力の音を出すベーシストだ。女性ヴォーカルは3人で、彼女たちを除けば、賢三たちのトレイターズと同じ人数だが、全く違う構成な上に、とにかく経験値が違う。杏子がスタジオ・ミュージシャンとして録音をしている時に居合わせたバンドの人たちが、かなり杏子の歌唱力を気に入っていて、今回、事故から1人のヴォーカルが欠員したので、どうしても彼女に入ってほしいという要望が来たことが、今日、この日本一の老舗ジャズ・クラブでの出演となった。杏子は場の雰囲気を壊さない程度にドレスアップしていた。ハイネックから、両肩がしっかりと出た控えめながらセクシーな黒いドレスで、賢三は、すでに彼女しか観ていなかった。ドラマーの斜め奥にマイクを用意してもらった。が、他の2人のヴォーカリストはもう少し前に出てもらうことになっている。今はステージでドラマーと英語で話している。全員が杏子のトラウマを知っているので、何ら問題はない。ステージで準備をしているときから、まさにプロのバンドだとわかるほど、充実していた。賢三たちは、すでに圧倒されていた。一人、翔平だけは余裕がある雰囲気で座って、酒を飲み始めていたが目は、賢三と同じ方向を見ていた。 絵美里もお洒落してきたが、緊張しているようだ。でも、ステージの杏子と目が合い、軽く手を振った。杏子はすかさず、小さく手を振り返した。 刈谷純子は、塚野の隣りに座っていたが、なんとなく不機嫌そうだ。
少し離れた席に、みどり子とクリスが来ていた。京介とアンドリュー、そして、カイドウ・コーポレーションの社長と付き人3人もいた。 みどり子が近づいて来た。
「ご無沙汰、賢三くん! トレイターズのみんなも、こんばんは! 勉強に来たのかな? 今日は客席からでいいの賢三くん?? 」
「いや、もうすぐPA気取って、ドラムの後ろに行きます。」
「あ、トランペットの人、翔平くんだったっけ? カイドウの社長も来てるよ。」
「あ、こんばんは~。カイドウさん来てるなら、一杯奢ってもらおうかな。。。ここよりもカイドウさんがいる辺りのほうが、杏子さんがよく見えそうだしな。。。」
「うん、よく見えるよ。椅子もらってこようか? 杏子、今日はすごくセクシーだからね、狙うなよ、翔平くん。隣にはしっかり賢三くんがスタンバイするんだしね。」
「賢三、お前は見えないところにいろよ。」
「まぁな、杏子以外からは見えなくていいんだ。(笑) さてと、杏子のところ行く。みんなくつろいでてね。また後で。」
気がつくと、テーブルには一ノ瀬と絵美里、そして塚野と刈谷純子しか残らなかった。刈谷純子は、一ノ瀬たちとは目も合わせようとしていなかったが、いきなり絵美里に話しかけてきた。
「美術学科の人でしたね? こういう場所よく来るんですか? 、聴いててわかります?」
「美術学科で彫刻やってます。このクラブには初めてですが、小さなクラブには一ノ瀬くんと何度か。。。 ここは、憧れていたクラブなので、今日はすごく嬉しいです。チケットも完売だったのに、入れてもらえて感激してます。」
「感激するほどの演奏かどうか、わかりませんよね。。。」
「まぁまぁ、純子ちゃん、ここに出演するのって実力ないと無理なんだよ。ちゃんと観ててね。」
「あの、刈谷さんが、このバンドを良くないと思うなら、もう、うちのマネージャーじゃなくていいから。それから、絵美里は多分、君よりもジャズやソウルは理解できてる。『聴いててわかりますか?』何ていう愚問を投げかけるのは止めてほしいな。君は何のために軽音部に入ったの? フルートなら、大学の先生に指導してもらうほうが良いんじゃない? 塚野、お前もそのつもりでいてくれ。いざとなったら、ピアニスト探すからな。」
一ノ瀬はいつになくイライラしていたせいもあって、翔平が問題を起こす前にジャブを入れる形となった。 純子は驚いていた。自分に楯突くような男子はいないという自信を覆された。
クラブのマネージャーがステージに立ち、挨拶とともに、バンドを紹介し、大迫力の演奏が始まった。 ライブハウスの良さは、大きなコンサートホールでは表せない。客席との一体化はもちろんだが、それが故に下手では話にならない。実力が問われる近さに観客がいて、落ち度があれば隠せない。個人個人の技量とは別に、音響担当、所謂、PAが如何に優れているかがわかる。このライブハウスのPAは、生演奏の実力者たちの力を120%出せる人がやっている。だから選ばれる側のミュージシャンたちは、絶対に手を抜かない。チャージは高いが、このライブハウスでガッカリさせられることは、まず無いと言ってもいい。 若手のジャズ・ミュージシャンたちの憧れの場であり、目標におく最高峰のライブハウスである。
今日の杏子は緊張しているようには見えない。あくまでもバックヴォーカルという設定だし、他の2人が全面的にリードを取ってくれるというのもあるが、実は杏子のパートが一番濃い。曲の殆どがバンドのオリジナルだし、数曲、杏子の好きな曲を選んでくれたようだった。 賢三は杏子の自信が、少し戻ってきているように感じている。ただ、杏子が自信を無くす前の溌剌としたヴォーカルは、録音テープでしか聴いたことがない。それも、彼女の祖父母がこっそりと聞かせてくれたもの。子どもとは思えない声量だった。 今日のコピー曲は、ソウルとファンクをどちらも行けるCHICのものだった。メインヴォーカルの2人は『見せる』ことに集中してもらうので、杏子の歌は最重要だと言えた。
杏子は客席は観ない。天井と横にいる賢三の顔を観るだけで後はいつものように目をつぶっていた。 『上手い!』彼女のヴォーカルはこの一言に尽きる。外人が客にいるときなど、なぜ彼女が前面に出ないかを聞いてくることがある。
翔平は、杏子をじっと見つめていた。かなり強い酒を飲んでいるようだ。杏子が客席を観ないことは分かってたが自分を見てほしいという欲望があった。彼から若干距離はあったが、一ノ瀬は、いつでも翔平を制止できるように構えていた。
刈谷純子は、杏子の歌声に言葉を逸していた。。。なにか欠点を見つけてやろうとしていたのに、徹底的に杏子の実力を見せつけられた。声量や音楽センスだけではなく、英語力には驚かされた。自分は手も足も出ないと感じ、恥ずかしい気持ちがあったが、素直になれなかった。
「塚野くん、私、帰りたいんだけど。」
「え?今?? もう少しで演奏が終わるんだよね。。。分かったよ、送っていくよ。一ノ瀬、悪いけど、お先に。。。」
「あぁ、分かった。あとさ、、、塚野以外のメンバー全員一致でマネージャーはいらないということになったから、よろしくね。マネージャーって、バンドの安定のためにいるんだよ、かき回されたくないし、価値観が違う人はいらない。 刈谷さん、そういうことです。お気をつけて。さようなら。」
純子と塚野はテーブルをはなれていった。一ノ瀬と絵美里は残されたが、大いにホッとした。 ステージでは、ラスト曲に向けての語りなどで、観客とバンドのリーダーが笑いながら、やり取りしていた。奥では、賢三が立ち上がって、杏子と楽譜を見ながらなにか話していたが、杏子の腰には賢三の手があり、しっかりと抱き寄せてるのがわかった。もしかすると、杏子はすでにギリギリなのかも知れない。 翔平はそんな2人の姿を見つめていたが、立ち上がり前に出そうになったが、すかさず、一ノ瀬が止めた。 今日の演奏は大成功だった。そして、杏子の新たなチャレンジも、うまく行ったようだ。過呼吸にならなかった。大金星だと賢三は感激している。 演奏が終わり、演奏メンバーたちと談笑したあと、杏子は賢三たちのところに向かう。翔平は待たなかった。杏子のところに駆け寄り抱きついている。
「ありがとう、翔平、ちゃんと観ててくれたね。いい子、いい子。」 杏子は翔平の頭をなでてあげた。酒臭さが気になった。
「おいっ!翔平、お前って素早いよな。。。もう判ったから離れろ! ったく、油断も隙もないって、コイツのことな。。。」
まずは、一ノ瀬の待つテーブルに行き、みんなで乾杯した。そして一ノ瀬は言い出した。
「トレイターズに新しいピアノのメンバーを探すつもり。みんな同意してくれると思うけど。いいかな?」
「異議なし。」全員が頷いた。
翔平は微笑んでいた。その後は、カイドウ社長とみどり子たちの席に全員で移動した。杏子は心地よい疲労感があった。
もしかすると、少しだけでもトラウマの克服になったかもしれない。。。改めて賢三の手を握りしめた。指と指を交互させる愛情あふれる握り方をして来られ、そのゾクソクさせて来る触れ方に賢三も満足だった。
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