第13話

杏子の妊娠も3ヶ月を超えると、辛かった悪阻(つわり)もなくなった。それでもまだ疲れやすくて、朝も起きにくく、いつも眠い。。。安定期にはまだまだだし。。。真夏の日差しが強くなりだすとゆっくりと外で休むことはできなくなる。杏子は暑さが苦手だ。 子供の頃は、誰よりも早起きで、コツコツとなにかに打ち込んで、一人遊びが上手だと言われるほどで、週末など、親は朝寝坊ができたと喜んでいた。夏の日差しも好きで、水遊びができることを喜んだものだった。いつからだろう?? そのどちらも逆になってしまったのは。。。早起きしにくかったのは妊娠以前からだが、比較的最近だと思う。。。体質が変わったのかも??と杏子は思っているが、子供に影響がないので、気にしないようにした。医者は血圧も順調だし、気にする必要はないという。

 会社で公表したわけでもないので、今まで通り、普通に仕事をこなしていた。みどり子とクリスは、他言のない信頼できる親友たちだ。口止めしてないが誰にも言っていないようだ。京介は、できる男として出張が重なっていたので、、すれ違うこともなく平穏な日々だと思う杏子だった。


「ディーヴァ、このところ、体調が良さそうだね。みどり子と心配してたけど、Morning Sickness って朝だけなのかと思ってた。。お母さんになるって大変なんだね。。。 ところで、今更だけど、賢三くんのサックスは素晴らしかった! 彼のバンドもプロ並みだね。演奏後の歓談も楽しかった。みんな英語も大丈夫だったから、すごくリラックスできたんですよ。みどり子も楽しそうだったし、またライブが有るとき、教えて下さい。」


「日本語で悪阻(つわり)っていうのだけど、朝がひどい人が多いらしいの。空腹時が酷いのかも? 私って昼夜関係なくお腹空いているのかな?(笑)  賢三の演奏ってすごいでしょ? 私もバンドで聴くの久しぶりだったから、すごく新鮮だった。 またどこかに出るときは教えるね!」


「ディーヴァとクリス! ここにいたのね。ディーヴァは体調が戻ったみたいで、嬉しいよ! ところでこの前の賢三くんのバンドは良かったわ! あのトランペットだっけ? あれ吹いてた子、やけにセクシーだった。色気ダダ漏れ〜」


「あぁ、あの子ね、自分で芸大のチェット・ベイカーだって言ってるらしい。。。(笑)」


「へぇー、やっぱり賢三くんみたく尊敬するミュージシャンがいるのね。チェット・ベイカーって、私は知らないけど、なんか、凄そうね。」


「そうね、みんな憧れを持って、近づきたいと思う目標のミュージシャンはいると思うな。私にもいるし、賢三にもいるでしょ? コルトレーンなんて、賢三からしたら神様なんだけど、じつは酒と麻薬に溺れたことのある『意気地なし』ともいえる弱い人だったの。。。ただ、彼らは黒人差別の真っ只中にいた時代のミュージシャン、マイルス・デイヴィスのように図太くないと自分を発揮できない。でも、吹っ切れて悟ってからのコルトレーンは、賢三の神様に相応しいと思うわ。私は強い人が好き。」


「ディーヴァはどんな歌手が目標なの? ソウルの大御所のアレサ・フランクリンとか?」


「アレサは気高すぎて。。。私はね、声質がホイットニー・ヒューストンに似てると言われてた。でも、彼女は目標じゃなかった。彼女が尊敬してたシンガーは目標だったわ。チャカ・カーン。チャカはジャズを歌ってもすごいの。 あと、声ではないんだけど、個人的にはランディ・クロフォード。 彼女のように悲しい歌を優しく笑いながら歌いたいって憧れたものよ。 ランディーって、やっぱりジャズが歌える。そういう意味では私には賢三のサックスがないと歌えなくなってきた感じ。。。わかっているの、賢三は一生懸命に私のトラウマを克服させようとしてくれてる。でも、まだ、リードは取れないけどね。。。スタジオミュージシャンって、実力がある人しかなれないの。だから、私はスタジオで選ばれているし、満足なのよ。」


「もうほんと、ディーヴァと賢三くんって、理想的なカップルだわ。。。私はあなた達を尊敬してるわ!」


そのことを語る杏子は、にこやかでなんとも言えない彼女独特の雰囲気が醸し出され美しかった。そういう表情を引き出してくれるのはいつも音楽であり、今は、そのすべてが賢三が関わることに、自分の忘れていた表情までも引っ張り出されると自覚していた。そして、お腹の中にいる子供がその気分を更に上へと高めてくれる。 大切にしたい。子供はできるだけたくさん欲しい。賢三も子煩悩な父親になりそうだ。。。ジャズバンドでも作りたいと思ってくれるかしら?


 賢三の大学は楽器の演奏に気を使うことがないが、お互いを邪魔しないように練習する必要がある。 賢三は誘われれば、誰とでも気軽に練習ができる珍しい人間だ。大谷翔平は賢三がいない限り、バンドの練習には参加しなかった。常に自分で勝手に練習していた。賢三はサックスなので、掛け合いはできるが、できればピアノとベースが欲しいところなのに、なぜかサックスと練習したがる。 というよりも賢三といっしょにいたがるのだと思う。


「なぁ、翔平、ストンプのマスターがね、翔平が良ければトランペットが欲しいときに呼んでもいいと言ってるけど、どう?組むのは俺たちよりも経験あるプロばかりだから、やりやすいと思うよ。 俺もそう言うので呼ばれて演奏しているんだ。実践で演奏すると勉強にもなるし、感謝している。やってみる?」


「お前がやるときに一緒ならいい。一人で知らないバンドでは自信ない。」


「なんだよ、気持ち悪いな。。。一人じゃ行けないの? 小学生かよ。。。(笑)」


「場所的には好きなんだよな、あそこ。 昔付き合ってた彼女が横須賀の人でさ、横須賀まではよく行ったんだ。本牧となると、なんか、もっとカッコいいじゃん? だから行っても良いんだけどさ。 できればお前と一緒が良い。」


「それでもさ、一人でマスターに会いに行って、自分のスタイルとか、ちゃんとわかってもらったほうが良いぞ。 でもまぁ、 その時は一緒に行ってやるからさ。カウンティング・スターでバイトも入ってるし、バイトのときだったら行くよ。」


「なにかテスト演奏するんだろ?・・・なぁ、賢三の奥さん連れてこない? 一回は彼女の歌が聴いてみたいんだよ。客がいないときなら歌ってくれないの? 」


「え?なんで杏子が行かなきゃいけないんだよ。。。 聴いてみたいという気持ちはわかるけどさ。誰かから聞いたんだろ? 杏子がディーヴァだって。 まぁ、俺がいないと歌わないぞ。(笑)」


「ペットと合わせられる曲、Night in Tunigia とかどう? 彼女、チャカ・カーンが好きなんだろ? 賢三がサックス入れれば、俺達ブレッカー・ブラザーズじゃん。それができるなら行くよ。」


「お前って我が儘な〜! 杏子は俺の奥さんなんだぞ? 女房っていう意味、Wifeだ。理解しろよな! ったく。。。一応聞いてみる。 ただ、杏子は妊娠しているからな。俺の子供を! まだ安定期じゃないから約束はできないかもしれない。」


「え? 彼女妊娠してるの? それ、そそるなぁ。。。すげーエロい。。。」


「なに、お前、変態?? おまえ、杏子はダメだぞ! お前の性癖、どうにかしろよ。」


「違うよ。女性の体ってさ、子供が産めるんだよな。すごい神秘的じゃない? そのファンクションをちゃんと経過した女って、物凄く美しいし、エロスなんだよ。。。

一つの人体の中にもう一つの人体が育っている。母体はそのための準備を始める。

おまえ、そばで見てて、伝わってこないのか? その神秘的な美しい裸体とか、お前は常に観て触れるんだろ?」


「え? まぁな。。。確かに綺麗だよ。。。杏子は。 まだ彼女のお腹に子供が入っているか、外側からじゃ実感がないけど、俺、語りかけちゃうんだ。パパシャワーもかけてあげてるしな。(笑)」


「なにそれ?? パパシャワーって?? もしかして、奥さん妊婦なのに、セックスを強要しているってことか? 賢三、それって、すごくエロいんだけど。。。賢三って、かなりSなんじゃないの? 究極じゃん?」


「翔平・・・お前、やっぱ精神科受診しろや。。。変態だぜ、それ。。。一応医者に聞いたんだよ。妊娠中の俺の欲求不満はどうしたら良いかって。。。そしたらさ、全然普通にOKなんだって。まぁ、お腹が大きくなって、辛そうなら対処の仕方が変わるけどな。今から少し研究しないといけないな、俺。。。」


「うわぁ~ すっごく興奮しそうだな。。。いいなぁ、賢三。。。」


「げ!キモ!! 翔平さ、さっさと伴侶となるような人を見つけられるように努力したらいいじゃん。人のこと羨ましがってんじゃねーよ。ほんと、キモいな。。。とにかくちゃんとした彼女作れよ。お前モテるんだから、誰彼構わず遊んでばかりいるんじゃねぇよ。 マトモな女の子は、どれだけ可愛いのが寄ってきても、ほとんど断っておいて、付き合い出すのが人妻って、お前。。。怒った旦那たちから痛い目に遭わされているんだろ? 少し『悔い改めよ、地獄から這い上がれ』だぜ。。。まぁ、お前になびく人妻も貞操感なくて呆れるけどな。言っておくが、杏子はお前にはなびかないぞ。ぜーったいに!」


「ははは、、、そう焦んなって。とにかくさ、杏子さんが一緒に歌ってくれるように頼んでくれよ。どうしても聴いてみたいんだよ。賢三も一緒なら、俺、きっと良い演奏できる自信がある。」


「一応は聞くよ。 でも、肝心なストンプのマスターがどう言うかはわかんないぞ。。。。まぁ、何も言うわけないけどな。。。杏子にぞっこんなのはあのマスターも同じなんだ。」


  賢三は、いつになく早めに家に帰ることにした。バイトにも行かないし、音楽室で少しサックスを練習しようと思った。大学の門を出たところで、バンド仲間のベーシスト、一ノ瀬 晶に肩を叩かれた。


「よぉ! もう帰るの? 珍しいね。」


「おぉ!一ノ瀬、お前も帰るの? 俺は今日はちょっと疲れているから家帰って、少し休もうかなって。。。といっても、年寄りたちが何かしら用事を貯めているんだよな。。。」


「そう言えば、賢三は、『マスオさん』みたいな感じなんだったね。なんていうんだろう??舅と姑の親って?(笑) でも、うまくやってそうだな。」


「おかげさまでね、祖父ちゃんたちとは仲良くやっているよ。 良い人たちでね。理解力が半端じゃないんだ。 今度遊びに来いよ。 ベース持ってきてくれたら練習できる。」


「お! それ最高だな。俺は今日でも良いんだけどな。。。疲れてる?」


「おぉ!じゃ、来る?? 杏子はまだ帰ってないけど、ばあちゃんがなにか飯つくってくれるぞ!」


「わ、それありがたいな。お邪魔するよ! おばあちゃん達、何か好きな物ある? 和菓子とか?」


「あぁ、それな、気にしなくていいよ。でも、なにか一つと言うなら、木村家さんの水ようかんだな。杏子も食べるし。、それ買ってくれ!」


「いいよ! でも、木村家さんてどこ?」

「あ、おれんちの傍。(笑)」


2人は山本家に着いた。杏子の希望で、林という表札も着けてもらったのを、賢三は誇らしげに、一ノ瀬に見せびらかしていた。一ノ瀬は、賢三の、そういったお茶目なところが大好きだった。 杏子の祖父母は一ノ瀬を大歓迎して、嬉しそうに水ようかんを受け取った。


「どうもありがとう。 あとでお茶といっしょにを持っていきますね。どうぞ、音楽室に行ってください。杏子が帰ってきたら行くようにいいますね。」


「あ、水ようかんは、山本さんに持ってきたので、どうか、そのまま召し上がってください。」


「ばあちゃん、一ノ瀬は一人暮らしだから、今日飯食べてってもらって良い?」


「もちろんですよ、腕を振るうわね! 一人暮らしだと、どうしてもコンビニ弁当になってしまうんじゃないの? 作るよりも安上がりかもしれないけどね。。。私みたいなお婆さんが作るもので恐縮だけど。。。食べていってね。」


「もう、作っていただけるって、すごく嬉しいです。すみません。ご馳走になります。」


一ノ瀬は賢三に誘導されて音楽室に行った。あまりにも完璧な作りの部屋に、驚きを隠せなかった。


「すごい部屋だな! ここなら、いつでも思いっきり練習できるし、羨ましいな。。。今日は、賢三に合わせてジャズで行くよ! 俺、So What 弾けるよ」


「おぉ! やろう、やろう!! 数曲やろうぜ!」

2人は、息もぴったりで、賢三がベース用に楽譜を出すと、一ノ瀬は、すんなりとベースを弾きこなした。普段は遠慮がちな一ノ瀬が、いつになく愉しいという気分を表現しきっていた。


「なぁ、一ノ瀬、今度学校からコンバス(コントラバス)借りてみないか? 持ってくるとき車出すよ。」


「俺、実家にはコンバスあるんだよね。。。長野まで帰るときって、いつも電車だから迷惑になるので持ってきてないんだ。」

「え? そうなの? じゃ、今度取りに行こうぜ! 俺の知り合いに八百屋がいてさ、その人の軽トラあるし、借りて取りに行こうぜ! で、ここにおいておけばいいよ。 よし、もう一曲行こう。 じゃ、お前の好きなマーカス・ミラーな! ガンガン、スラップやって!」


2人は1曲をいつもよりも伸ばして演奏した。 ドラムが欲しいところだったが、ベースとサックスでも十分な音域を持ち、賢三もアルトサックスにして、演奏を楽しんだ。 と、そこに杏子が入ってきた。


「一ノ瀬くん、いらっしゃい。 いい感じのセッションだね! すごく良い。完成されたバンドでの一曲だったらもう、最高。 そうだ、お祖母ちゃんがもうすぐ晩ごはんできるって言ってるよ。一段落させて、手を洗って、居間までおいで!」


2人は楽器を置き、手を洗って、祖父母の居間に向かった。 杏子の祖父は、嬉しそうにビールを出した。

「はじめまして、賢三くんの義理の祖父です。彼が『じいちゃん』と呼ぶのは私のことです。一ノ瀬くんは、もう20歳は超えてますか? 最近は、賢三くんも数え年を正式な年齢としてしまうことにしましてね。 酒に付き合ってもらってます。」


「あぁ、ご心配なく! 僕はすでに二十歳です。お付き合いしますよ! 僕の田舎の家族はみんな酒豪です。お祖父さんのお気の済むまでお付き合いしますから!」


「おぉ、それは頼もしい! じゃ、今日はよろしくお願いします」


「お祖父さん、程々にしてくださいね!明日は平日ですからね。でも、一ノ瀬さんは、どうぞ沢山召し上がってね。 今日は奥座敷に泊まっていただけますよ。」


「一ノ瀬くん、この唐揚げ、お祖母ちゃんの得意料理なの。 食べてほしくてものすごい量を揚げていたので、びっくりだったわ。。。(笑)」


「それはありがたい! 僕は唐揚げが大好きなんですよ。じゃ、遠慮なく、いただきます。」


「今日は賢三がバイトなかったのもあって、久しぶりに一緒に夕飯食べられたし、一ノ瀬くんが来てくれて盛り上がって、嬉しいよね!」

愉しい夕飯となって、皆満足だった。一ノ瀬は率先して後片付けをしてくれて、杏子の祖母は恐縮していたが、ニコニコと嬉しさを隠せなかった。片付けを済ますと祖父母を残して、3人で音楽室へお茶を持って移動した。


「杏子さん、今日はすみません。賢三と話もしたいし、セッションしたかったんですよ。無理言っちゃいました。お陰で、かなり弾き込めましたよ。」


「いや、俺も一人でやるよりもものすごい成果が出たよ。来てくれてよかった。 サンキューね!  そう言えば、この前演奏したストンプのオーナーが、トランペット探してて、翔平はどうかと言ってきたんだ。あのオーナー、めったに指名しないから、翔平にとってはチャンスだと思うんだよね。 今回はペットだけなんだけど、コンバス欲しい時もありそうだから、そのときは一ノ瀬を一番に推すからな。」


「そうなんだ!翔平にとってはまたとないチャンスだよね。テスト演奏をするんでしょ? 受かると良いなぁ。。。 コンバス、本当に今度持ってこさせてもらうよ。  ところで、翔平の名前が出たから、ちょっと話しても良い?杏子さんにも聴いておいてほしいからここにいてくださいね。  大谷翔平は、トランペットは天才的に上手です。驕り高ぶることはないのですけど、とにかくグループに属さない一匹狼的な感じなんですよ。人間は悪いやつじゃないし、今のバンドは賢三がいるからだと思うけど、かなり安定して参加してくれてます。自分にあったサックス吹きが、やっと見つかったって思っているらしいよ。ただね、アイツ、変な性癖があって、結婚してる女性がが大好きなんだよね。。。ただの彼氏のいる女性じゃなくて、結婚という公的な約束をしている女性。。。もちろん彼の好みで美人じゃないとダメですけどね。だから、杏子さんに言い寄っているんじゃないかと思って、ちょっと心配。。。 あと、あいつ、酒も物凄く飲むし、かなりの頻度で薬に手を付けているみたいなんだ。でも、悪いやつではないんだよね。。。どう説明していいかわからないけど。。。だから、ラリって、杏子さんに抱きついたりとかするかもしれないので、飲み会のときとかは離れていてくださいね。」


「そうかぁ、確かにお酒に混じって薬の匂いのする子だと思った。教えてくれて、ありがとうね。正気じゃないと知っていると怒らないで済むかも。すでに色々と話しかけてくれてるわ。でも、私が鈍感だから、賢三以外の男には興味が行かないし、大丈夫。お酒と薬って、最悪なコンビネーションなんだよね。。。なんとか薬だけでもやめてもらわないとね。。。27‐Clubに入ってしまうようなことがないように。。。」


*27‐Clubとは、多くの人気ミュージシャンが酒と薬の乱用で27歳のときに亡くなっている偶然からできた名称


「そうなんだよね。。。 で、杏子、それがさぁ、さっきも話したストンプでのペット奏者のことなんだけど、今日、翔平に話したんだよね。そしたら、あいつ、杏子が自分の演奏で一曲歌ってほしいっていうんだよ。。。杏子の歌を生で聴いたら、ストンプのテスト受けるっていうんだ。。。杏子がディーヴァって呼ばれているのを、どこからか聞いたらしいんだ。。。杏子は嫌かな? ストンプのオーナーだけしか客席にいないし、VRゴーグルもいらないと思う。 俺としては、気に食わない部分もあるけど、できれば杏子がもっとハッピーな気分で人前でも歌えるようになってほしいんだよね。。。俺は必ず、杏子を観ているから。。。ダメかな?」


「へぇ。。。ゴーグル無しで? ・・・ 賢三も演奏するの? そばにいられるってこと?? 観てるのはオーナーだけ? で、その後に賢三の演奏する機会が増えるってことだよね?? わかった、やってみる。でも、手のひらが汗ばんだら途中でも止める。それでいい?」


「あぁ、杏子、もちろんだよ。俺、絶対にサポートするから。」

そう言って、杏子を抱きしめた。それをみていた一ノ瀬は、なんとも言えない感動を覚えた。


「あのぉ、、、杏子さん、僕も袖から見ていてもいいですか? 貴方の歌を一度生で聴いてみたかったのですけど、視界に入らないようにしますから、ダメでしょうか?」


「あはは、、、そうよね、こんな話しを目の前でされて、疎外感たっぷりよね。。。いいよ、一ノ瀬くんもオーナーの脇にいて。(笑)でもって、あの変な男が私に近寄らないようにさせてね! オーナーはいつって言ってるのかしら? 日にちが決まったらすぐに教えて。じゃ、私は上に行くわ。 お休み、一ノ瀬くん。 祖父母を喜ばせてくれてありがとうね。」


「とんでもない、いきなりお邪魔してすみませんでした。 おやすみなさい。」

杏子は先に自分たちの寝室に行くことにした。賢三はドアのところまで行って、『先に寝てて』と囁いた。


「なんか、僕まで入れてもらっちゃって、申し訳ない。。。でも、僕も聴いてみたかったんだよ、賢三がぞっこんな彼女の歌声を。何を歌ってくれるのかな? お前たち2人の演奏だと?? 」


「杏子はさ、ソウルが一番好きなんだ。でも、今回はオーナーの希望があるので、多分、ジャズからだと思う。俺としては彼女が好きなシンガーの曲を入れたいから、翔平に言っておく。 ま、楽しみにしてて。俺の奥さん、すごいんだぜ!(笑)」


賢三は翔平に、まんまと乗せられてしまったことは十分にわかっていた。ただ、自分と杏子の結びつきは、他の誰も崩すことはできないという信頼感もあるし、あのトラウマが少しでも緩くなることを願っているのもあるから、わかっていても受けようとしたし、そのことは多分、杏子も十分に心のなかで了解済みだと確信があった。遠ざけることだけが、優しさじゃないということ、杏子をもっと自由にさせたいと願っていること。必ず守り切る! そう心のなかで誓っている自分がいること『悪くないぜ』と自賛してしまう。


「なぁ、一ノ瀬、俺達ってたしかに年齢は若いと思うんだけどさ、お前は、一人の女をとことん愛したと思えるような恋って、したことある? ストーンって、落っこちていく自分を自覚できたときの高揚感って、サックス吹いているときに、ほんのちょっと感じることがあるんだけど、その上位互換。。。最上位互換。。。 俺、こんなに若くして出会っちゃったからラッキーなんだけどな。。。」


「僕にはまだないよ。。。そんな人と出会えたら、もう少し自分に自信ができるかな? 賢三をみてると、羨ましを通り超えて、神のようだと思える時があるんだよ。(笑)」


「そうか! じゃ、悔い改めよ!地獄は近づいた!!(爆笑) お前にもきっとそんな出会いがあるよ。突然来るかもしれないし、躊躇しないで受け入れることだよ。相手は男でも良いんだよ。自分が高揚感を持てる、引っ張り上げてくれる人。 杏子は俺よりも5歳上なんだけど、誰かにかっさらわれる前で良かったって思うんだ。」


「たしかに、杏子さんが成人式で浮かれているとき、お前はまだ中坊だったもんな!(爆笑) もう、運命だったと言えるな。」


「うん。そうだよな。。。」


「ところで、夫婦の共通点って、音楽の他に何かあるの?」


「あるよ。肺活量。(爆笑)」



 小雨交じりの土曜日。カウンティング・スターで軽くランチを取っていると、翔平が電話してきて、ストンプに向かっていると知らせてきた。ストンプに着いてからもう一度電話してくるという。杏子は、シーザーサラダを食べている。杏子がカリッと、クルトンを噛むと、その音が賢三には心地よかった。 マスターと美津子は、窓辺の2人を見て、思わず微笑んだ。賢三が恋に落ちた馴れ初めを最初から観ていた二人は、この上質なカップルを大切にしている。もちろん自分たちと重ねているところもあるのだが、杏子と賢三には習う部分が多いから。。。


「さてと、そろそろ来ても良い頃だな。一ノ瀬は、すでにオーナーのところに行かせた。オーナーは快く彼にも見せてくれるってさ。横須賀には強いって言ってたし、本牧でも迷うとは思えない。それにアイツはいい加減そうに見えて時間には、きちんとしているんだ。あ、噂をすればなんとやらだ。 行こうか、杏子。」


窓から見える高身長の男は賢三よりも髪が長く、後ろで束ねていた。賢三に電話しようと携帯電話を出して見つめていたが、ボタンを押すよりも早く、賢三が肩をたたいた。


「よ! お疲れ! 迷わなかったみたいだな。」


「おぅ、天気も小雨交じりだから、速歩になったよ。 杏子さん、お久しぶりです。 今日は俺のわがままを聞いてもらって、すみません。 嬉しくて、ちょっと興奮気味なんです。」


「そうなんだ。ストンプのオーナーに気に入られると良いね。 私も最近はちょっとヴォイトレ休んでたから、久しぶりなの。100%出せないと思うけど、悪く思わないでね。」


「大丈夫ですよ。 ところで、お腹に赤ちゃんがいるんですよね? おめでとうございます。 前にも増して綺麗ですよ。やっぱり女性って、母になるときが輝いているのかな?」


「さぁ、どうでしょうね。。。」


杏子はかなりドライな態度だった。でも、翔平は、賢三の眼の前でもお構い無しで、杏子を見つめていた。杏子は全く気にしなかった。

 ストンプのオーナーには事情を説明してあるので、杏子が来たことをオーナーが心底嬉しがっているのがわかった。久しぶりに彼女のソロが聴けるとあっては、その実力を知っている者にとってはラッキーとしか言いようがないのだろう。そこにはすでに一ノ瀬 晶が来ていて、オーナーと話をしていた。


「杏子ちゃん、どう? 体調の方は?? 少し痩せたみたいだけど、最初がきつい人、多いらしいから気にしないほうがいいよ。」


「はい、もうかなり収まってきました。 ただ、いつもよりも眠くて。。。(笑)」


「今日は気持ちよく歌って欲しい。きっと助けになるよ。賢三くんも一緒だしね! 発声練習しておく?」


「はい 楽屋借りますね。あ、そうだ、一ノ瀬くん、袖じゃなくて客席でオーナーと並んでてもいいよ。」


 賢三たちはすでにステージで練習を始めていた。 すぐに2人だけのセッションが始まった。彼らはマイルス・デイヴィスの Mr.Pastoriusを選んだ。どちらかと言うと賢三の見せ場のほうが多いのに、翔平はなぜか、この曲を先行すると言った。多分、杏子の乗り具合を高めたいと思ったのだろう。でも、もちろん主役は翔平自身だという自負はあったはず。。。杏子は袖で見つめていた。客席にはオーナーがノートを持って座っていた、そして一ノ瀬が彼の隣に座った。 賢三は抜群のサックスを披露している。

そして、杏子がステージに立つ。賢三はすかさず近寄り、優しく小声で杏子に語りかけていた。翔平はその光景を見て、賢三を消して、自分が彼の場所にいると想像していた。杏子は自分を見上げてくれていて、優しく微笑みを向けていると想像する。気持ちが良い。。。彼女の体を触ってみたいという邪な衝動も出てきている。


「おい!翔平! 行くぞ! お前が欲しがった通りの選曲だ。杏子は、Night in Tunisia を歌ってくれる。ボケっとすんなよ。」

「あ、OK. わかった。」


 リハーサルなしなのに、杏子は上手に翔平のトランペットに合わせて曲に入っていった。賢三は、杏子の後ろで、まるで翔平とブレッカー・ブラザーズを再現しようとしているようで、興奮していた。アドリブを入れても良いことにしておいた。キーボードの部分をすべてトランペットにアレンジしたので、オーナーは十分に翔平の実力を観る事ができた。 杏子は最初こそ、少し躊躇しているような歌い方をしたが、すぐに賢三が小声で言ってくれたことを思い出し、空席に向かって微笑む余裕もできた。賢三はそんな杏子を見て嬉しくて、愛おしかった。同時に翔平が焦点があってなさそうな虚ろな目をして杏子を見つめているのも気がついた。しかし、翔平のトランペットは、いつもよりも更に数段格上の演奏をしているのを認めざるをえなかった。オーナーは満足そうだ。隣りにいる一ノ瀬は、目を輝かせていた。


 歌い終わった杏子は浮かれた感じに後ろを振り向いた、瞬時に抱き締めて来たのは賢三ではなく翔平だった。賢三は呆気に取られたが、すぐに翔平を引き剥がした。

「おまっ、何やってんだよ。俺の奥さんなんだぞ!」


「だって、こんなすごいヴォーカル、それも日本人だぜ! Hugしたくなるのが当たり前じゃん。俺、もう、ちょっと興奮状態なんだよ、今。。。杏子さん、貴方は綺麗だ。。。」


「ありがとう翔平くん、でも、離してちょうだい。貴方からはコークの匂いがするわ。触らないで。」

そう言って、杏子は翔平を突き飛ばし、すぐに賢三に抱きついた。


「翔平・・・まさかお前。。。どこかに寄ってから来たんだな。」

幸い、ストンプのオーナーには聞こえていなかったようだ。オーナーは駆け寄ってきた。一ノ瀬も、そのやり取りには気づいてないようだ。


「いやー、良かった、実に良かったよ。録音しておけばと後悔してるよ。 大谷翔平くん、よければ今後のトランペットの要員になってもらうことにするから、後で連絡先その他、書類にサインして欲しい。外の事務所に来てね。 賢三!サックス最高だったよ やっぱり杏子さんがいるとレベル上がるな! それにしても杏子ちゃんは、しばらく歌ってなかったのが信じられない。 今後、リード取れるようになると良いな。。。少しずつでいいから、戻っておいで。 じゃ、事務所にいますから。」


「はい。すぐに行きます。」


「翔平。。。 少しゆっくり話そうか。。。オーナーのところに行った後、向かいの店に来て欲しい。」


「わかった。 杏子さん、ごめんね。。。でも、本当に興奮気味なんだ。 ちょっと頰を触っても良い?」

「ふざけんなよ、お前、もう杏子と接触禁止な。話すのは良いけど触るな! 」


賢三は翔平を押しやり、オーナーのところに行かせた。サックスを拭いてからケースに仕舞い、杏子の肩を抱くようにしてカウンティング・スターに向かって歩き出した。一ノ瀬も一緒だった。


「演奏はすごかったんですけど、翔平、ちょっとラリってませんでしたか? オーナーも気づいているかもしれません。。。」


「なんか、俺、翔平に寛大すぎたかな? 杏子のことが気に入ってるのは知ってたけど、俺を差し置いて抱きつくなんて許せねー」


「私は気にしてないけど、あの子、自虐的になったら厄介ね。。。ラリった状態で抱きつかれるのも嫌だし、ハイになれば良い演奏ができると思っているとしたら、これからもどっぷりになると思う。賢三のように薬に頼らずにあの音が出せるなら、彼は良いミュージシャンになれると思うけど。。。今のままじゃダメ。そして多分、今しか薬を断つチャンスはないかも。。。賢三がどう気持ちをコントロールしてるかを教えて上げる必要があるかもね。」




「お待たせ! オーナーに気に入ってもらえたから、今後、良いバンドが来たらジョイントさせてもらえそう。 サンキューな賢三! そして、杏子さん、貴方がいてくれたからできた演奏だったと思う。俺のディーヴァになって欲しい。」


「あのさ、お前、俺の前でそんなこと言っちゃってさ、許されると思ってるのかよ。。。 さっさと薬抜いてこいよ。そしたら話そうぜ。薬臭いやつは俺の奥さんに近寄るなよ。」


「薬・・・杏子さんはよくコークだってわかったね。横須賀の友達がさ、俺がこれから採用試験に行くって言ったら、ちょっと分けてくれたんだ。。。お陰で少しリラックスできたんだよね。。。」


「あのね、翔平くん。私、アメリカにいたの。それもけっこうな人たちが薬漬けになって身を滅ぼすような目に合ってた場所。。。そこで歌を習ってたの。だから、薬を使っている人の匂いは、その微々たるものでも体臭からすぐ分かる。翔平くんの今日の分量は決して少なくないわ。 そんな人間の前で歌ったと思うと吐きそう。」


「え? 杏子、吐きたいの?」

「今は大丈夫よ賢三。」 杏子は賢三の頰に手を当てて優しく微笑んだ。


「翔平、俺さ、薬ってやったことないんだ。やりたいとも思わない。でも、好きな曲を好きな女の前で演奏し始めると、アドレナリンがガンガン出てくるのが分かるくらい興奮するんだ。トランス状態になれる。今日なんか、杏子がスタンドマイクに向かって歌っているのを目にしたから、完璧にトランス状態になっちゃったんだよ。 翔平も同じようになれるんじゃないか?薬に頼らなくても、きっとハイになれると思うんだ。」


「じゃぁ、俺に杏子さんくれよ。そしたら薬抜きでハイになれそうだ。賢三がそうだったように。杏子さんをくれよ。。。」


「お前さ、俺に喧嘩売ってんだろ? 外出る?」


「賢三、気にしないでいいから。落ち着いて。 翔平くん、まず最初に言っておくけど、私は物じゃないのよ。女を物と扱うようなオールドファッションな男とは恋なんてできない。私の意思で私が愛している人のところしか私は存在しない。私は賢三以外の男のところには行かない。賢三の子供しか産まない。」


「だってよ!翔平。わかったかよ? もう少しマトモな恋愛してみろよ。どちらにしても、ラリった男のことは誰もマトモな人は好きにならないんだよ。杏子はおまえの匂いで一発で薬だとわかったんだぞ。」

すると、翔平は一瞬蔑んだような顔を賢三に向けたが、すぐに泣き出してしまった。賢三は焦った。これには大人しくしていた一ノ瀬も、びっくりしてしまった。


「翔平くん。。。貴方、寂しがりやさんなんだよね、きっと。誰かに裏切られたりしたの? もしも人間不信で、ある程度落ち着いて見える人妻が好きなんだとしたら、今まで奪うことでしか快感を得られないのだとしたら、それは克服できるよ。世の中捨てたもんじゃないって。寛大な女性はたくさんいるし、貴方が薬をきっぱりと止めて、トランペットにエクスタシーを感じられるようになったら、それがトランス状態よ。貴方、気が付かないでいるだけだと思うの。私と賢三は、そうなった貴方となら一生友達でいるから。頑張ってみない? やってみようよ。」


翔平は、まるで子どものように杏子に抱きついて泣き出した。 杏子は今度ばかりは突き放さなかった。代わりに、『いい子』と言いながら頭をなでてあげていた。賢三は複雑な気分だったが、何も言わず傍観していた。杏子は賢三の手を握った。

美津子さんが新しいおしぼりと水を持ってきてくれた。

「適当に軽い食べ物を持ってくるわ。」


「ありがとう美津子さん、あと、多分この子、今、甘いものが必要かもしれない。チョコレートが良いんだけど。。。何かある?」


「任せて。」


翔平は泣きじゃくっていた。。。賢三も少しだけ寛大な気分に戻り、翔平を杏子から引き剥がし自分の肩越しに翔平の顔を置くようにした。杏子は開放されたが、賢三の逆の腕に寄り添っていた。なにかの悲しみを背負ってきたかもしれない翔平を、これから友人として支えたいと賢三は願った。とりあえずは、今後ストンプでの仕事でも、良いコンビになれると良いなと考えた。ジャズはソロでの行動が多い。どこかに属することが短い。でも、それだから長く付き合える良い友人同士になれるのかもしれない。ジャズとは個人を大切にした上で、その時々にピークのプレイヤーを、あるいは、抜群な新人を見つけたときに、次のコンサートに持ってくるということが可能な構成になっているから、ロックグループのように何十年も同じメンバーで活躍するということがない。音楽とは面白い繋がりで成り立っているのだろう。賢三はそこも大好きな部分だと思っているのだった。

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