第11話

 「ウェルカムボードの設置は、こんな感じかしら? 奎子ちゃんも、お手伝いしてくれるのね? ありがとう。奎子ちゃんの自慢のお姉さん、綺麗になってたね! かっこよく登場してもらわないとね。 それにしても奎子ちゃんはいくつになったんだっけ? 日本語忘れずにいて、すごくお利口さん! 悪いけど、私の彼氏と話してあげてね、彼も日本語できるようになったけど、ときどき、英語のほうが楽で少しリラックスしたいと思うの。よろしくね!」


「私はもうすぐ13歳になります。英語で話せば良いのですね? はい、わかりました。クリスさんですよね。パパが英語で話してましたよ。クリスさん確かに嬉しそうでした。今日、一番緊張しているのって、賢三さんだと思う。。。観てて面白くなっちゃったです。私にまで敬語なんですよ。」


「あらら、、、それは緊張してるね。彼らしくない。すでに正式に夫婦なんだし、緊張することないのに。。。あ、そうか、私達が証人となる『人前結婚式』だからかもしれない。 彼は本当に正直で律儀な人だと思うの。あ、分かるかしら、『律儀』って?? えーっとね、Faithfulness かな。あとでクリスにきいてみてね。」


 賢三は、林家の紋付袴を着ることは、一生ないだろうと思ったことがあった。でも今こうして身につけてみると、なんとも厳かな気分となり、自信みたいなものが湧き上がった。タッパのある男子は、着物姿が凛々しい。賢三は鏡を見ながら機嫌が良かった。


「賢三! その髪の毛をどうにかしておけばよかったわね。。。この際、月代(さかやき)にして、完全に落ち武者風に仕上げようかね? (爆笑)」


「母ちゃん、本気じゃないだろうな。。。 やりそうだから怖いな。。。ロン毛はさ、杏子も気に入っているんだ。まぁ、ツーブロックだけどな。そのままにしておくれ!」


「本当にねぇ、、、あんなに素敵なお嫁さんが来てくれるとは思っても見なかったから。。。私も感無量なのよ。。。あんたはお兄ちゃんたちよりもしっかりしてるし、きっと良い亭主になるさ。」


「まぁね、 まだ学生だけど、頑張るからさ。学費も出してもらってて、申し訳ないけど、その分、親孝行もするつもりだから。とりあえず、頑張って良い亭主になるよ。 母ちゃん、今まで、色々と、ありがとうございました。」

賢三の母は、声を殺して泣いていた。。。


 「杏子、あまりぎゅっとしないようにするけど、タオル入れずにすんでお腹周りはバッチリよ! まぁ、まだお腹出てきてないけどね。髪は角隠しも綿帽子も被らないと決めたけど、貴方には似合うわ。 とっても綺麗よ。あなた達は絶対に洋装だと思いこんでいたから、打ち掛けって言ってくれたときは、思わず涙が出ちゃったの。自慢の娘がお嫁さんになるのね。あんなに素敵なお婿さん見つけて、杏子のセンスの良さは、伴侶選びにも反映してたってことだわ。。。誇りに思ってる。幸せになってね。。。」

杏子の母は、溢れる涙を止められず、せっかくの化粧が台無しだと恥ずかしがっていた。 


「ママ・・・ありがとう。。。たくさん心配かけたけど、素敵な伴侶に恵まれたみたい。5歳も年下で、不安にさせたでしょ?でも、賢三は私よりも大人なの。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんも頼り切ってしまってるの。子供ができても大丈夫よ。 心配しないでね。出産のとき、無理に帰ってこなくていいから。とにかく、奎子をしっかりと育ててあげてね。もう、奎子は賢三に懐いちゃって、はっきり言って困るわ、あそこまでベッタリしてると。。。妻として。。。(爆笑)」


「貴方は奎子の理想の女性でもあるのよ。だから賢三さんを観て、自分も同じような人を見つけなければと思っているみたいよ。賢三くんは、唯一無双だわ。」


「賢三って人誑しだからね、みんなそう思っちゃうかもしれない。でも、根っから嘘のない人なの。私、ラッキーだと思ってる。 幸せになるね。」


 6月の日差しは、やや強いものの、涼しい風も吹いてガーデンパーティーは大盛況で、バイキング形式だが、料理の内容は、ホテルのものに引けを取らない素晴らしいものばかりだった。誰もがみんな楽しんでいた。 仲人であり、この結婚式を計画から全て請け負ってくれた、カウンティング・スターの川辺陽介と美津子夫妻は、洗練されたスタイリッシュな人前結婚式を執り行ってくれた。たくさんの友人達の協力で、なんともお洒落で素敵なパーティーとなった。 司会をしてくれたのはジャズバー、ストンプのマスター。 杏子と賢三は指輪の交換をして、熱いキスを交わした。盛大な拍手が起こった。


 「今日は、俺と杏子のためにお集まりいただき、ありがとうございました。俺がまだ学生だということで、皆さんに心配いただいたかもしれませんが、俺が杏子を誰にも取られたくないから、無理やりすぐに結婚してくれと、道路に転がって、地団駄踏んで我が儘を通しました。(爆笑) 彼女のことは必ず幸せにします。そして、二人で力を合わせながら、もっともっと高みを目指してがんばります。どうか、今後ともご指導をよろしくお願い致します。」

「賢三といっしょに頑張ります。よろしくお願いします。」

ストンプのマスターは賢三にサックスを渡した。ピアノとコントラバスは用意してあった。 吹き出した曲は、ジョン・コルトレーンの曲の中から「Time After Time」 杏子の祖父母は、優しく踊りだした。その後、誰もが歌ってくれるかどうかわからなかったが、賢三が隣でサックスを吹くこともあり、杏子は自信が持てるということで大好きなチャカ・カーン、「What Cha' Gonna Do For Me」を歌い出した。その声量、打ち掛けを着ているので、本人も優雅さを醸し出しながらの名曲に、杏子の父母は泣いていた。

カイドウ・コーポレーションの社長は、付き人3人と来ていたが、お祝いにということで、新婚の二人が乗るためのリムジンカーを用意して、杏子と賢三が泊まるために、東京のホテルのエグゼクティヴ・スィートルームを予約しておいてくれた。 二人は最初、自宅に帰るだけの予定だったが、みどり子とクリスが社長から提案を受けていたので、実現したのだった。 カイドウの社長は、賢三のサックスと、杏子の歌に大満足だった。賢三と杏子は、社長がそういったものを用意してくれているとは知らなかったから、ものすごいプレゼントとなった。


「賢三くん、恵比寿だから、ここからは少し遠目のホテルだが、リムジンの中にはお祝いのシャンペンも用意してある。少し横浜港近辺を回って行くから、シャンペンを飲みながら楽しみなさい。明日は、チェックアウトの時間にワシのレクサスが迎えに行く。着替えもホテルの方に用意してあるので、心配無用だ。満喫しておいで。」


「海堂さん、こんなに良くしてくださって、なんと言ったら良いのか。。。今度、ジャズバーに一緒に行きますからね。」


「なにを言っているのだ、ワシができることなど、たかが知れているんだ。二人に気に入ってもらえると嬉しいんだがね。ワシは賢三くんのサックスが聴けるほうがいいから、演奏するときに招待してくれたまえ!」



 二人を乗せたリムジンカーは、優雅に東京湾を一周し、車内に用意され氷バケツに入ったドン・ペリニヨンのロゼを、杏子は一口だけ、後は全部賢三が飲んだ! 数えで20歳だということを、頭の中で繰り返し叫んでいた。


「うわぁ~社長さんって、私達に一生かかってもできない贅沢をさせてくれている感じね。」


「このシャンペン、美味い! 杏子飲めないし、瓶飲みしちゃってもいいよな。(爆笑)」

「ははは、、、後でそのシャンペンの値段教えてあげるからね。」

その後、ホテルに到着した二人は、リムジンから降りるなり、紋付袴と打ち掛けという、トラディショナルな装いに、周囲から注目が集まった。芸能人並みに扱われていたが、賢三はほぼ泥酔に近かった。丁寧な案内係が、二人を超豪華なエグゼクティブ・スィートに連れて行ってくれた。 すでに二人共に着崩れが激しい婚礼衣装のままで、ぽつんと超豪華な部屋に残された。

 

「杏子、これ、部屋なんだよな? ちょっとカイドウさんに電話してみる。・・・・ あ、モシモシ、社長? 賢三です。ホテルつきました。リムジンは最高でしたし、ピンク色のシャンペンも美味かったです。ラッパ飲みしちゃいました、ごちそうさまです。(爆笑)で、あの、俺達とんでもなく広い部屋に案内されたんですけど。。。何かの間違えかもしれないなって。。。 すごいんですよ! 部屋なのに、豪華な家みたいでね、ベッドルームとリビングルームだけじゃなくて他も付いてるんです。なんか、間違えていたら、どうしようかなって。。。」


「はーはっはっっは!賢三くんは豪快だな!ドンペリのラッパ飲みか、サイダーと間違えたのか??。今どきの高級ホストになれるぞ!(爆笑) 部屋はそれで間違いない。 杏子さんをいたわり、素晴らしい初夜にしなさい。」


「あぁ、何か、高いお酒みたいですね。。。俺、ラッパ飲みしちゃったせいか、酔っ払っちゃってます。。。社長! 初夜が台無しになりそう。。。(爆笑)でも、努力します。」

「お幸せにね! また連絡を待っているよ!」


二人はしばし呆然としていたが、最初は杏子が窓辺に立って夜景を観はじめた。つくずく東京とは美しい街だと思えた。いろいろな人達がそれぞれに美しい物語を持っているのだと思うと、感動的だ。その物語はすべて大きな意味があるはず。喜劇かもしれないし、悲劇かもしれない。自分と賢三が新しい人生のページを捲ったことを実感し始めた。お腹の子供が生まれたら、また違うページが捲られることになる。きっと愉しい。賢三と一緒なら、幸せな日々が待っているはず。 そう考える杏子だった。 背後で賢三は着物を脱ぎ捨てて、丸裸で爆睡していた。。。 仕方がない、緊張した長い一日だったもの。

杏子も婚礼衣装をすべて脱ぎ、姿見で自分の裸を見つめた。この中に小さな命が宿っていて順調に育っているんだと思うと、思わずほくそ笑んでしまった。背後にダビデ像のように立っている賢三が映し出された。。。慌てて起きたらしい。無理しなくても良いのに。。。


「杏子、一瞬寝ちゃって、ごめんね。 さ、奥様、お手をどうぞ!」

賢三は優しく杏子を抱き上げて巨大なベッドに向かった。賢三は杏子のお腹を触りながら、優しく語った。

「今日一日、ちょっとうるさかったかもな。みんな良い人ばかりだから、ママもリラックスしてたよ。だから、ご褒美にパパシャワーしてあげるからね。」


「元気なのね、賢三! もう初夜の夜伽はなしかと思ったわ。ベイビーがパパシャワー、お待ちかねのようです。。。じゃ、いきましょうか、私の大切な旦那様!」

「はい!はい!!はい!!!」

賢三はこれ以上ないと言えるほど優しく、杏子を甘美な世界へと誘導していった。ときに耳元でハスキーな、かすれ声で小さく言葉を発しながら耳から首筋へとつながる優しい口づけと、本人は完全に無自覚なセクシーさが杏子にはたまらなく、美しく酔いしれるものだった。いつも思う、どこで覚えたんだろう??と。。。天性の人誑しだとはわかっているが、彼がくれる、この官能的な世界は自分だけのものなんだと思うと、優越感があった。相思相愛っていうものを実感できた自分を幸運に思う。


 翌朝、杏子は若干の悪阻があったが、豪華なルームサービスでの朝食は、美味しくて、幸せな気分だった。賢三はというと・・・目の焦点こそ合ってなかったが、杏子をがっかりさせまいという気合が感じられた。


「午後から現実に戻るのが、ちょっと辛いかも?? 杏子は今日一日、会社は休めるんだったね。俺は午後5時から出なくちゃいけない授業あり。。。休んじゃおうかなと思ったけど、家に帰るだけだから出ることにする。」


「そうね、体力があるのだから、勉強もしっかりね! 私はここ数日はお祖母ちゃんとお母さんにも面倒を見てもらえるから、ここぞとばかりにウダウダすることにする。」


 豪華な朝食の後、用意された洋服に着替え、昨夜脱ぎ捨てた着物たちをジッと見つめ、着物のたたみ方など知らないんだと思い出し、困惑する。。。適当に折りたたんで、大きな袋に入れた。賢三は二日酔いの最悪なものを経験しているようで、怪訝な顔つきなのに、なぜか紋付袴をしっかりと綺麗にたたんでいた。


「ねぇ、賢三、なんで着物のたたみ方知ってるの?」

「え?これ? 折り目の通りにやってみたらできたよ。杏子の打ち掛けのほうがやりやすいぞ! 俺のは袴にプリーツがあるからな。。。どちらにしても、プロがちゃんと直してくれるし大丈夫じゃないか?」

 ホテルの玄関にはカイドウの社長の車が迎えに来ていた。リムジンと変わらないほど目立つレクサスだった。


「お迎えにあがりました。お二人を山本家にお届けするように言われております。 どこか、寄りたい場所があれば、何なりとお申し付けください。」


「お疲れさまです。 直帰ということで山本家までお願いします。」


 山本家につくと、運転手は、杏子たちを降ろしたあと、なんとも困惑した顔をしていた。しばらく駐車しても良いかと聞いてきたので、待機命令でも出ているのかな?と不思議だったが、駐車スペースに入ってもらった。 玄関を開けると、ものすごい靴の数だった、リビングに行ってみると、そこはまるで戦場かと思うほどの乱痴気騒ぎのあとで、愕然とする。

「祖父ちゃん! しっかりしろ!!大丈夫か?祖父ちゃん?」

賢三は杏子の祖父のところに駆け寄り、体を起こして様子を見た。

「おぉ、賢三くん、おかえりなさい。」


「なんだよ、これ。。。祖父ちゃんが白目向いてたから、本気で死んでんのかと思って、思いっ切り焦ってしまった。。。酒くせー。。。」

「どうやら、まともに寝たのはこの子だけみたい。。。」

杏子の妹の奎子が目をこすりながら階段を降りてきた。いい歳をした大人たちの醜態を観て呆れているようだった。


「なんだか、山本家と林家、全員で意気投合してたみたいね。 放っておこうか? って、うわ!あそこ観て、賢三!」

「何だよこれは。。。カイドウの社長じゃん。。。なんでここにいるんだよ。。。しょうがねーな。。。あ、だから運転手さん、なんか困惑してたんだな。GPSで追ったら、ここにいると出たんだね。 今呼んでくる、一緒に社長を運び出さないとな。。。」


「社長、ご自宅に戻ります。しばらくつかまっていてください。よろしいでしょうか?」

「よろしい、よろしい!、ワシは大丈夫だ、ちょっと飲みすぎたがな。 おい、賢三くん! いやはや、素晴らしい結婚式だった。新婚初夜は大成功だったか?  しかし、君たちのご親戚はみなさん酒豪で、、話しも愉しい。ワシは本当に嬉しかった。じゃ、今日は帰るが、今度は、ブルーノートにいくからね、付き合ってくれ給え! 杏子さんも、ご一緒にね! では、直帰とする。」

そう言って、運転手と賢三に支えられて車に乗り込み、豪快に帰っていった。


「林家は放っておいても平気。兄貴たちまでいるのに、なんかだらしないよな。。。」

「みんな喜んでくれたってことよ。よかったね! 私はちょっと疲れたから二階で寝るわ。。。奎子! 貴方ももう一度寝ておいで!」


「俺は、頭クソ痛てーから、薬飲んで、このまま学校行く。頭痛薬とユ◯ケル飲まなくちゃ。。。」


 その日の夜、自宅の戻った賢三だったが、目を疑うかのように、朝いた林家の連中は、まだ居座っていて、新しい宴会が執り行わえていた。杏子が妊娠していることを発表した結果、新たな宴会となったらしい。 杏子の両親は、孫が誕生したときの顔が見られる時期に休暇が可能かどうかを調べている。


「賢三くん、少し外に散歩に出かけようか。」

杏子の父が賢三を誘った。当然話さなくてはいけなかったのに、チャンスは殆どなかった。全て、自己顕示欲の強い順にこなされてしまい、杏子の父のような遠慮深い学者タイプは、後回しにされたのだ。


「賢三くん、この度は僕の大切な娘の杏子と結婚してくれて、そして、子供まで授けてくれて本当にありがとう。杏子は独立心の強い子だし、私達に迷惑をかけたくないという意識が強くてね。一時は彼女には恋なんてできないのではないかと心配になったこともあった。 もう、杏子のトラウマに関しての事実は知っていると思うが、杏子がまるで簡単な過去のように話しているだろうことは想像できる。でも、決して簡単なものではなかったんだ。私は娘を失うのかもしれないと恐怖を感じるほどだった。人種差別を乗り越えて、差別をされた側に入り込んだのだけど、最初はうまくいってた。人の下に人を作るという感覚が、差別を受け迫害された人々の頭の片隅には残っているものでね。。。 妬み、恨み、その他の鬱憤は、違う風体のものに当てられることはしばしばある。 杏子はご存知のように稀に見るほど歌が上手でね、私は自慢だった。でも、アメリカの黒人たちの中に入れば、同じようなレベルの子は沢山いるというのが分かる。 やはり彼女は他の子よりも上手だったんだ。主任の先生から、ホイットニー・ヒューストンの声質と非常に良く似ていると言われたのがきっかけでね。。。それを気に入らない子が出てきた。。。嫉妬されたんだね。

でも、彼女は持ち前のポジティヴ志向といい、人懐こさと賢さが、それを大きく上回り、友達もたくさんできたし、とにかく、歌の先生たちが親切にしてくれたものだった。 一度、歌の先生から気をつけるように言われたことがあった。昔、同じ人種なのに、ひどい目にあった子がいたそうだ。人種は関係ないのだと思う。杏子と同時に3人、杏子の親しい友達も暴力を振るわれた。ただ、彼女たちは体力も体躯も杏子よりも逞しかったから、杏子のような重症には及ばなかった。意識不明の2週間、僕はいろいろなことを考えた。僕は善人気取りはできなかった。正直に言うと、同じ目に合わせたいと願ったものだ。でも、杏子の母、千恵子は、強い人でね。僕は怒鳴られてしまった。『目には目を』をやっていく限り、差別は終わることはないと言われた。たしかにそうだよね。。。祈るような毎日だったけど、僕たちは、神には祈らなかった。杏子自身に祈ったんだ。『愛してるよ! 戻ってきておくれ!』ってね。2週間もかかったけど、祈りは届いたんだ。そのたった2週間で、千恵子の髪は真っ白になった。彼女も相当に我慢していたのだね。 目覚めてからは、新たな戦いが始まった。トラウマを残さないために千恵子は頑張っていろいろなところにつれていき、克服を早めようとしたんだ。そして、見つけた。杏子はもう、人前でリード・ヴォーカルを取れないということを。上手に歌って目立つと、またひどい目に合うかもしれないと感じていることをね。それでもゴスペルの先生は杏子の才能は秀でていると教えてくれた。だから、もっとリラックスできるようにさせたし、ちょうど僕の転勤が決まったことで、トラウマが残る街から離れることができたんだ。


重複してしまうけど、彼女は強い。僕たちに甘えることが嫌だったらしくてね、日本でお祖母ちゃんとお祖父ちゃんと一緒に暮らしたいと言ってくれた。一石三鳥のようだった。だから、僕たちが杏子に甘えることになってしまった。でも、自分は大丈夫だ! 役に立てるんだ!という自信がついてね。心配だったけど、バックコーラスとは言え、また歌を始めてくれたことは感無量だった。後ろを向いていたり、アンプの影なら歌えると言ってくれたから。そして、賢三くん、君の存在を教えてくれたときの杏子の態度は、娘が本物の恋をしたと分かるものだった。やっと、ホッとできると感じた。 ダラダラと長く話してしまったけど、賢三くんとこれが話せて良かった。 どうか、娘のことをよろしくお願いします。君のことを最高に愛しているらしいよ。 父親として少し嫉妬してしまうね。(笑)」


「ありがとうございます。知っていた話しでもお父さんから聴くとスケールが変わります。心身ともに極限に至るような傷をつけられたのだと思いました。でも、杏子は強いです。彼女が嫁になってくれて、俺は幸せですし、絶対に杏子を幸せにしますから、どうか見守ってください!」


杏子に関わる、最も近い男同士の会話は、意味あるものとなった。賢三は心底嬉しかった。 そしてこの男たちは、意を決して2日目の恐怖の宴へと戻っていった。

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