第4話
杏子の就職が内定してから本採用されて働き出すまでの時間は脱兎のごとく。。。それでも賢三の試験勉強などはしっかりとみていた。お互いの家族に紹介されて、完璧に公認のカップルとなって半年以上。特に賢三の家族は杏子の存在を大歓迎していた。どれだけ見た目と違って真面目だと言われる子でも、遊びたい盛りのティーンエイジャーに、しっかりした姉さん彼女が着いていることは、家族にとっては好都合なのだろう。それでも杏子は、賢三が大学に入るまでは気を抜かずに勉強させることに重点を置いていた。 賢三は音大と目標を定めた。ある程度家計には余裕のある家だとしても、できれば国立に入り、学費を少しでも浮かせておきたい。芸術系の大学は学費が高い。特に音楽は美術よりも高い。まぁ、誰でも考えることは同じだと思うけど、芸大に入るために莫大なお金を使っている人たちが大半なのは、なんとも皮肉なものである。。。
「賢三は学科の方は心配ないと思うの。成績良いし、内申書もかなり良く書いてくれると思う。サックスは度胸で決めることよね。私はいけると思うの。滑り止めはどこにするの?」
「うん、、、滑り止めは武蔵野音大か、国立音大かな。。。 あのへんはサックスの良い先生がいるって話だし。。。どちらにしても俺、教職取ろうと思ってるんだ。」
「教職はあってもいいと思う。 賢三って、教えるの上手いのよね。一応教職は持ってるべきよ。」
「俺はビッグバンドにも入りたいけど、だいたいジャズって、最終的にはソロ活動なんだよね。。。同じ場所に長居しないんだ。でも、俺って、仲間と長居したいんだよね。。。だから教師向けかもしれないな。。。」
杏子は、少しホッとした。前々から賢三には教師が似合っていると思っていたが、やはりプレイヤーを目指しているのだから、そんな事は言わないと決めていた。
「とにかく頑張って! 賢三が大学生になったら、一緒に暮らそうね!」
「あー!もう、それが一番俺を頑張らせる! 絶対に入るから待ってて。」
スタジオミュージシャン仲間で、芸大の受験になにか助言してくれそうな人を探した。コルネットの奏者。どうやら知り合いが大学にいて、色々分かるらしい。
「十文字さん、芸大にお知り合いいましたよね。 受験に関して、良いアドバイスくれそうな方ですか?」
「あぁ、いるよ。しょっちゅう会うから、少しなにか聞いておこうか? 彼氏のこと?」
「そうなんです。サックスは倍率高そうだから、不安にさせたくなくて。。。」
「受験って、その時の運がかなり影響するよな。。。芸大受ける連中は、まず、ヘタクソなやつっていないから、神頼みだっていう人、多いよ。とにかく色々と聞いてくる。 杏子ちゃんも、新卒での就職先、結構無理してない? 趣味とはかけ離れているから、歌うことがストレス発散になると思うし、今度、またリード入れてみようか?」
「ほんと、時の運ですよね。。。 あ、私?? 私は大丈夫です。エリート組には入らないから、退社後の飲み会のお誘いも殆ど無いので助かってます。断るのは2回までと言われているので、今後少し行かないとダメかな。。。居酒屋やカラオケボックス、面倒で。。。」
「ははは、、誰もが羨む商社に入れたのに、昇進は望まず、安定した給料だからっていうのが、杏子ちゃんの面白いところだよね。上手に動いておくほうが、後々役に立つよ。頑張れ!」
確かに、会社の人脈をおろそかにしてはいけないだろう。。。下手に意地悪されても困るし、目をつけられないように振る舞うしかないかもしれない。。。帰国子女はワンサカいるけど、どの人もハーレム英語なんか話せないと言うのは一目瞭然。スラングさえ知らないだろう。でも、自分がそれを話せたり、スラングをしっかりと知っているというのも、会社の人達は殆ど知らないはずだし、まぁ自分がそう思っているだけかもしれないけど。
原田みどり子は、同期で比較的話が合うので、お昼ご飯を社食で一緒に食べることも多い。
「今日の定食、結構美味しそう。私、Aにしようかな。山本ちゃんはどうする?」
「私は・・・たぬきうどんがいいや。」
「そう言えば、山本ちゃんは、歓迎会以降、飲み会って来ないよね? 同期以外に先輩たちも来るのがあるみたいなんだけど、行かない? ちょっと人脈つくっとかないとって思ってるの。」
「人脈ねぇ。。。あんまり興味ないけど、たまには行かないと印象悪くなるよね。。。次っていつ?」
「今ね、ロンドン支社から研修に来てるイギリス人2人と先輩の中原さんが来るのがあるんだけど、、、ほら、中原さんって、あのハーフのイケメン!! 知ってるでしょ?」
「え?ハーフのイケメン?・・・知らないかも。。。」
「えー!山本ちゃん、すっごく損してない? 中原先輩、もう、思いっきり眼福なのよ。。。どこの部署の子もみーんな狙いみたいよ!」
「へぇー、、、全然知らなかったわ。。。でも、私、外に彼氏いるから興味ないかも。。。」
「そうだったね、山本ちゃんは外に彼氏いるんだよね。。。ねぇ、どんな人なの?」
「あはは、そう来ると思った。 サックス吹いてるの。バイク乗るから時々後ろに乗せてもらう。。。そんな感じかも。」
「おぉー!青春してるのね。サックス奏者かぁ。。。セクシー路線ね。 いいなぁ。。。私は高校の時の彼氏がいたけど、とっくに別れちゃったし、ただいま募集中。えーっと、次の飲み会はね・・・あ、明日よ! いこうよ、行こうよ!!」
「ゲゲ!、スケジュールに入れているんだ!?(笑)明日は金曜日だもんね。 OK明日ならいいかも。」
「じゃ、決まりね! 幹事さん知ってるから言っておくね。 何着ていこうかなぁ〜〜。。。」
そうか、着ていくものも考えるのか。。。まぁ、それは彼氏作るの目当てな人のことだろうし、私は関係ないな。お酒飲むなら楽に越したことはない。ウエスト、ゴムでも良いくらいだわ。。。
「お祖母ちゃん、今日会社の同僚たちとの飲み会だからすっごく遅くなる。寝ちゃっててね。」
「あら、賢三くんに送ってもらえないの? じゃ、タクシーで帰っておいで。賢三くんには誤解のないように、ちゃんと教えておくことね。あの子は良い子なんだから、貴方がフラフラしてたら可愛そうよ。」
「はーい! でも、賢三は受験生だから忙しいのよ。酔っ払いを迎えに来てなんて言えない。大丈夫よ!タクシー使うから!」
原田みどり子といっしょに会社のトイレで着替えた。みどり子は7cmヒールのパンプスまで用意していた。杏子は靴は通勤用のパンプスのまま、本当ならDr.Martenに履き替えたいくらいだ。 場所に行ってみると、居酒屋ではなくて、小洒落たカラオケバーだった。。。カラオケ・・・まぁ、ボックスじゃないからまだいいけど、きっと飲みだすと誰か歌うんだな。。。先に聞いてたら来なかったのに。。。 それでも食べ物は美味しいという評判なので、良しとしなくちゃ。。。
「あ! 来た、来た! やっぱりイギリス人2人と中原先輩は一緒みたい。そこに群がる女子社員たち。。。私の順番はなさそうだわ。。。」
「いいじゃない! 楽しく飲んで食べて、他の同僚と仲良くするのが目的だし! 気にしないことよ!」
パクパク、もぐもぐと食べて、飲みものもウォッカ・トニックをしっかりと飲んでいると、何故かその中原先輩がこっちに来た。みどり子は焦っていた。
「あの、もしかして、山本さんって貴方でしょ? 面接官だったスティーブンソン部長が、英語は君が最高点だと言ってたんだ。 あ、失礼、僕は中原京介、君よりも2年上で、営業部です。」
「あ、はじめまして、山本杏子です。企画部でお世話になってます。」
「私は原田みどり子です。山本ちゃんとは同期で一番の仲良しです。よろしくお願いします。」
「あ、原田さんも、よろしくね。 ところで、良かったら、イギリス支社からの研修に来てる2人、少し話し相手になってあげてくれないかな。。。僕も同席するし、心配ないから。彼らすごく良い人たちですよ。 どうかな?」
「私は良いのですけど、、、山本ちゃんも大丈夫でしょ? ね??」
「あ、、、はい、分かりました。でも、私はあまり話上手じゃないし、イギリスじゃなくてアメリカ英語だし。。。」
「え? 部長はコックニーが使える女子だと言ってたよ、違うの?」
「あぁ、はい、少しなら。。。」
「じゃ、決まりね、今呼んでくるから。」
「みどり子〜〜、めんどくさ〜い。。。」
「じっと我慢の子になってよ。私には願ってもないチャンスなんだから!! ウォッカトニック、ダブルショットにしてもらうから!! おーい、おにいさーん、お替り!!ウォッカトニック、ダブルショットでね!」
うぅぅ、、、やってらんねー。。。早く帰りたーい。。。 この心の声は顔に出さずに隠し通さねば。。。 イギリス人の2人は感じが良くて、私が最初、オクスブリッジのアクセントで話すと、一人が自分はロンドン大学のキングスカレッジだと言ってきた。キングス・カレッジは同じ名前がケンブリッジもロンドンもあるので、ケンブリッジかロンドンかで差があるわけではないが、日本人にはケンブリッジのほうが受けるということをちょっと悔しがってた。だから、お酒もしっかり入ったので、コックニーで話すことにした。イギリス人2人は大喜びだった。ついでに、中原京介も驚いていた。この3人は仲が良いのは同じロンドン大学だからだった。中原と1人のイギリス人はロンドン経済大学。。。ここの経済学部はオクスブリッジよりも上である。コックニーが受けるわけだ。。。 盛り上がり始め、仲間たちはカラオケも始めた。 総務部の古株さんが『マイウェイ』を歌い出した。。。あぁ最悪、帰りたい。。。もう、飲んじゃえ! とばかり、ダブルショットをガンガン飲んだ。会話はすべて英語に替わった。サービス精神満杯でコックニーにしてあげた。私はハーレムのほうが得意なんだ!と一言加えて、イギリス人たちを脅かしてやった! 音楽の話は欧米人にすごく受ける。杏子の知識が物を言う一番の話題だし、すっかり打ち解けてしまった。すると、研修の1人がカラオケで歌おうと言い出した。杏子は自分の歌える曲はカラオケにはないだろうと高をくくっていた。POPミュージックは知らないから歌えないと言う。すると、中原が、外人を連れてくる場所には日本の曲のほうが少ないんだよ!と言い返してきた。。。 よし! チャカ・カーンなら歌ってあげるわ!と、小馬鹿にするように言ってみた。なんと、チャカ・カーンが揃ってた。。。しまった!!、完全に墓穴を掘った。 ガッツリ酔ってるし、演るっきゃなくなった。開き直った杏子は ”What Cha' Gonna Do for Me” を選んだ。イギリス人たちは、Ho-Hoとからかってきた。 マイクを持った杏子は豹変した。最初のサビのところで、全員が固唾を呑むことになる。 あぁ、ここに賢三がいたら、もっと気持ちよく歌えるのに。。。彼の顔を見ながら歌うのが一番うまく歌えると杏子は納得していた。天井と床しか観ないことにした。そうすれば少し笑みを浮かべながら歌うことができるから。杏子が上手に歌うときはいつも笑いながら歌う。あのランディ・クロフォードと同じように。 マイクは殆ど使ってないように見えるくらい口から離している、マイクが音をどう拾うか分かった歌手しかできない。
歌い終わったのに最初は誰も拍手してくれなかった。みんなフリーズ状態だったのだ。まさか、あの地味に振る舞う新卒社員がこれほどの歌唱力とは、誰も期待しなかったからだろう。
「山本さん、凄いんだね、君の歌って。」 中原は目を輝かせて杏子を称賛した。2人のイギリス人も最上級の褒め言葉を並べまくっていた。
「もう、毎週彼女とカラオケで決まりだな」とイギリス人2人は言った。 杏子は思い出した。そうだ、この3人は取引先じゃなかったんだ。同僚なわけである。ならば取り繕う必要はない! コックニーで言い放つことにした。
「冗談じゃないわ! 私に歌わせたかったらサラ・ヴォーンと同じチャージ払うことになるわよ。貴方達じゃ払えないわ。(爆笑)」 杏子はウォッカトニックを追加した。それもトリプルショットで!
「山本さん、ごめんね。。。気を悪くしちゃったかな? でも、こんなに上手なチャカ・カーンのカラオケって、始めて聞いたよ。どこかでヴォイトレとかしてたの?」
「あぁ、私、子供の頃ゴスペルを習ってたんですよ。そこでのヴォイトレが癖になってるだけです」
「そうなんだ。素晴らしいね。君は音大出じゃなかったよね? もったいないな。。。」
「あーははは、私みたいなのはアメリカにはゴロゴロいるんです。私程度では歌手になんかなれないんですよ。(笑)趣味、趣味。」
「ねぇ、もう一曲歌ってくれないかな?」
「もう、無理です。酔っ払っちゃってるし、もう、絶対に無理。みどり子さん、私、帰るわ。」
「えー!山本ちゃん! こんなに超絶受けまくっているのに、アンコール無しで帰るなんて、あり得ない! もう一曲だけ!!おねがーい!!」
「そうだよ、もう一曲だけ! チャカ・カーンが出たなら、ホイットニー・ヒューストンやってよ。 俺からもお願い!」
杏子は酔っていた。もう、なるように成れという気分だった。ホイットニーか・・・賢三になら歌ってあげる。賢三になら。。。スマホを取り出し、賢三に電話した。
「あ、賢三? とんでもないことになっちゃってね。。。1曲歌うからそこで聴いてて。。。トラウマが出てきそうで怖いの。だから賢三にだけ歌っていると思いたいから。」
飲み会に来ている人には聞こえない小さな声での電話。。。
「杏子・・・大丈夫? 分かったよ、ここで聴いてるから歌って。」
杏子はほとんど歌うことがないホイットニー・ヒューストンの名曲、『I Will Always Love You』を選び、歌い出した。声量と歌唱力を必要とする曲を杏子は、賢三に歌っているという意識を頂点にして歌いきった。 聴いている人たちは彼女の稀な歌唱力に唖然としていた。特にイギリス人2人と中原京介は、杏子の歌唱力と抜群の発音の良さに呆然とさせられていた。そして、小声で電話しているのを観ていた。泣きそうになっている杏子を観て、中原は誰と電話しているのか興味が湧いた。
「山本さん、素晴らしかったよ。アレックスたちと本当に感動しちゃったんだ。 でも、どうしたの? 泣きそうに見えるんだけど。。。大丈夫?」
「私、リードを取るような歌い方をすると、あるトラウマが蘇ってちょっとパニックになるんです。子供の頃、ゴスペルの合唱団に入って歌ってたこと、お話しましたよね。。。 私、結構歌えたんです。とても楽しかった。でも、習っている子の中には、私が日本人であるということも含めて、気に入らなかったみたいで。。。いじめられたんです。暴力も振るわれました。大怪我をしたので、それがトラウマになってしまって、歌を歌うのは大好きなのですけど、人前でリードを取ると恐怖心が蘇ってきちゃうんです。だから、スポットライトを当てられるのが嫌で、端っこでなら歌えるんですよ。それでも音楽、特にソウルとブルース、そしてジャズは大好きなんです。ですから、どうか、もうカラオケには誘わないでください。アレックスさんたちにも言っておいてくれますか? 今日はすごくたくさんお酒を飲んだから酔っ払っちゃって、だからここまでできたけど、これは続けられません。」
杏子はすでに動揺を抑えられないで、ポロポロと涙を出してしまった。同僚や先輩には絶対に見せたくない姿だと自分で悲しくなるほどうろたえていた。中原は小刻みに震えている、まるで小動物のような杏子を観て、思わず抱きしめてしまった。腕の中の杏子は小さくて、彼女の心臓の鼓動は激しく、ずっと抱きしめていてあげたいという、どうしようもない欲望にも似た衝動に駆り立てられた。『あぁ、キスしたい。。。』という感情を抑えるのが大変だった。その時、突然、店のドアが開いた。貸し切りなので、店員が2人、必死で、いきなり入ってきた男を押さえながら何か言っていた。
「杏子!」 賢三だった。
「杏子、もう大丈夫だよ。さ、帰ろう。 あ、どうもお世話になりました。連れて帰りますので、ご心配なく。」
「あぁ、山本さんは、ちょっと過呼吸かもしれない。。。大丈夫かな?」
「大丈夫です。 では、すみませんでした。帰ります。」
そう言って、杏子を軽々と抱えて外に出ていった。
「あの人、誰かしら? 学ラン着てたし、弟さんかな? しっかりしてるね。おまけにカッコいいイケメンだわ。。。」
「そうだね、きっと大丈夫だね。 それにしても山本さんって、プロの歌手って言っても良さそうな歌唱力だな。。。もったいないよね、普通に歌えないって。。。彼女、歌ってる時、すごく魅力的だった。」
「Hey 京介!! 落ちちゃったんじゃないの?」
「ははは、、、アレックスはうまいこと言うな。。。」 英語での会話はみどり子には聞き取れなかった。
「大丈夫だよ、杏子。抱えててやるから。 かなり飲んだんだね。。。」
賢三は杏子の家まで彼女を抱えて、タクシーで帰った。杏子の祖父母はすでに就寝していたので、彼女を抱えたまま部屋まで連れて行った。ベッドに腰掛けても彼女を離さずに、そのまま抱いていた。涙でいっぱいの彼女の顔をみていた。スースーと寝息を立てて安心したように眠っている。
「安心したのか?? 酒くせーぞ。。。 こんなに泣くなんて、杏子らしくもない。。。嫌なこと思い出しちゃったんだな。。。カラオケなんて、杏子の行く場所じゃないもんな。。。あと、寝てるときに、なんだけど、あの男、誰? もう近づくなよな。。。 聞いてないか。。。(笑)」 杏子は賢三に抱きしめられたまま、二人は幸せそうに眠りについた。
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