第3話 白い服と白い球
ナースステーションの壁には各部屋の患者の名前が貼られている。
各患者の名前の横には、緊急を知らせる赤いランプが添えられている。
今夜の当直で、今の所、赤いランプは点いていない。
そのパネルを見ながら当直のナース達が小声で喋っている。
「あのご老人、担当医が言ってたけど、今夜が峠だって」
「さっき巡回で見たけど、すやすやと眠っている感じ」
「そのままって・・・」
「当直医が来たわ、さ、仕事仕事」
当直医はナースステーションに入ると、パネルを眺めながら、
「あの爺さん、なかなか死なないな」
と呟くが、ナース達は聞こえていないふりをする。
あの爺さんと呼ばれた老人は、数週間前に職場で倒れ、救急室に運ばれて来た患者である。
なんとか持ち堪えて精密検査をしたところ、腫瘍が見つかり、腫瘍内科の医師、つまり今夜の当直医に回された。
老人の担当医は冷徹とさえ噂されている医師である。
彼の父親は、彼が小学生の頃に離婚して、母親一人で育てられた。
母親はかなりの苦労をして彼を育て、彼もまた、それに応えるように学業をこなし、一流と呼ばれる大学の医学部に合格した。
彼の母親は、これまでの苦労が祟ったのか、数年前に他界し、彼にとっての慰めは唯一立派に医者になれたところを見せれたことだった。
父親の記憶は殆ど無い。
母親一人で育てられたので、親に遊んでもらえたこともなく、そのせいか彼の素振りはどことなく冷たいところが見える。
彼の方針は、患者として病院に来たからには、それは人ではなく病気であり、医者は病気を治すことだけに専念し、人生に関わるものではない、である。
彼が冷たい人間だと思われる一因ともなっている。
それでも、彼の冷たさの向こうにある寂しさを理解している者がいる。
今夜、当直の若い看護師である。
二人は誰にも知れないように付き合っていた。
担当医が、患者名が貼られたパネルから目を離し立ち去ろうとした、まさにその時、パネルの赤いランプが光った。
点滅は看護師を呼ぶナースコール、光り続ける赤いランプは、生命の危機を知らせる。
そして赤いランプの点いたそのネームプレートこそ、彼が「なかなか死なないな」といった人物であった。
ある朝、病院から一人の老人が、にこやかに出て行った。
彼は奇跡的に回復し、予後も良好で、抗癌剤の効果も順調であった。
数週間後に通院したところ、どこを見ても腫瘍が見つからなかった。
腫瘍マーカーと呼ばれる、血液内の因子も正常であった。
奇跡的な回復である。
ただ一つ、老人の心に引っ掛かる問題があった。
担当医のネームプレートに書かれた名前が、離縁した妻と同じ苗字であった。
図々しいと思いながらも名前を聞けば、妻のもとに残してきた息子と同じ名前であった。
予後は順調すぎるくらい順調であったので担当医から、もう来なくても良い、と言われた時、老人は何か切ないものを感じながらも、
「先生、今まで、本当にありがとうございました」
と涙ながらに何度も礼を言った。
「どうぞ、お大事に」
相変わらず笑顔ひとつも見せずに担当医は言った。
老人は、元の職場に復帰し、以前よりも元気に働いているようであった。
彼自身も、若さに満ち溢れているような錯覚さえ覚えた。
そんなある日、街角で以前お世話になった主治医を見掛けた。
老人は早流心を抑えながらも、声をかけたいと思う気持ちを抑えきれなかった。
老人は足早に当時の担当医のそばへ駆け寄り、
「突然失礼ですが、その節は大変お世話になった者です」
その言葉に何の表情の変化も見せず、
「ええ、覚えていますよ、その後いかがですか?」
とそれなりの社交辞令を返してきた。
「ありがとうございます、この通りです。何かお礼できることがあればと・・・」
そう言い終わった後、老人は下を向いて、これは言い過ぎたと思った。
然し、あろうことか、医者は、
「ええ、では、食事でもいかがですか?」
と言って来たのだ。
驚いている老人を他所に医者は名刺の裏に何やら書き込んで、
「このホテルのレストランにしましょう」
と名刺を渡してきた。
そこに書かれたホテルの名前は都内でも有名なホテルであった。
老人は、そのホテルに合うようにと、なけなしのお金でスーツを買った。
そして白いシャツにネクタイ、皮ではないが新しい靴も買った。
そして、その日がやってくると、老人は急に物怖じし出した。
自分みたいな人間が、こんな所に行っても良いのか?
それでも老人は指定されたホテルに行くには行ってみたが、自分のような見窄らしい人間には見合うものではないと、ホテルの中を歩いている紳士や貴婦人を見て、そう思った。
最早、老人は居た堪れなく思い始め、そこから帰ろうとエントランスに向かい始めた時、担当医が立派なスーツを着て入って来た。
「お待たせしました、席は予約しています。行きましょう」
淡々とした表情で言った。
予約席での食事は二人とも無言であった。
最後のデザートが運ばれて来て珈琲を済ますと、突然、医師が喋り始めた。
ポケットから何やら取り出して、
「覚えていますか? このボール」
と言った。
老人は目を見開き、言葉を出せなかった。
「このボールは、あなたが母さんと別れる前に下さったものです。いつか、僕を誘いに行くから、キャッチボールをしよう、と言って二つのグローブと一緒に。僕はその時を待っていました。でも、あなたは来てくださらなかった。もしも、あなたさえ宜しければ、キャッチボール、やりませんか? 僕たち三人が住んでいたマンションの下にある、あの広い公園で」
老人は、嗚咽を堪えながら何度も頷いた。
その日の朝が来た。
老人は、かつて住んでいたマンションを見上げ、白かった壁が灰色っぽくなっていることに月日が流れたことを感じた。
たくさんの子供がいた公園も、今では数えるくらいしか見当たらなかった。
老人は、公園へと向かうが、悲しみで膝が震え出し前へと進めなくなった。
その時、老人の両脇を支えて立たせようとした者がいる。
彼の担当医であった。
二人は、公園に着くとゆっくりとキャッチボールを始めた。
老人は、担当医が投げてくるボールを受け止めるたびに、ありがとう、と呟いた。
老人が投げる時には、済まなかった、と呟いた。
やがて陽も暮れ始める頃、とうとう老人は疲れ切って動けなくなった。
担当医は彼を支えてベンチに座らせると、そっと肩を抱いてやった。
老人は、笑顔を浮かべ、やがて、静かに眠り出した。
実の息子に抱かれて、老人は静かに眠った。
赤いランプの点いた部屋へナースと担当医が着くと、全てのモニターに写っている線が水平に伸びており、最早、老人の死は確実であった。
担当医は、それでも瞳孔確認を行なったりとやるべきことは全て行った。
「死んだよ」
と言った時、
「お願い、せめて、お父さん、と呼んであげて」
そう言ったのは、彼の婚約者である若い看護師であった。
「もう死んでるよ」
「それでも、せめて、呼んであげて」
担当医は、そっぽを向いて、何やら白衣から取り出した。
彼は、自ら取り出したそれを見て不思議そうな顔つきをした。
さっきまで白かったのに、と。
それでも担当医は、まだ暖かみを残した老人の手にそれを握らせると、今までの関が外れたのか、急に一筋の涙を流し、
「父さん・・・」
と言った。
その反対側では、若い看護師も涙を流しながら、
「ありがとう・・・」
と言う。
まだ生きているようにしか思えない老人の顔が笑っているように見える。
それは若い父親が、一人息子とキャッチボールをしている時のような笑顔に似て。
そして死人のその手には、まるで使い古されたような色になった白球が握られていた。
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