第2話 三流の窓辺



 彼は目覚めると、布団からなかなか出られずにいる。

ただ単に会社に行きたくないだけである。

3流大学を出て、3流会社に勤めて、上司にこき使われ、1年が経つ。

苛めもある。


「お前自身がくだらない人間だから、この会社に来たんだろ?」


「他に行くところのない連中の溜まり場さ、お前みたいにな」


「3流会社だからって舐めてるんじゃないぜ」


 自分にだって言いたい事はいくらでもある。

だからといって、それを言ってしまえば、喧嘩になるに決まっている。

あんな連中と喧嘩などしたくない。

やってしまえば奴等と同等の位置に立つことになってしまう。

それだけは嫌だ。


 彼にとっては最後のプライドのようなものだった。


 それでも彼のことを気にしてくれている上司が一人居る。


「なぁ、先祖参りでもして来たらどうだ?」


「ええ! 墓参りですか?」


「うん、お前さぁ、何か悪いものでも憑いているんじゃないか? まぁ、お前自身がそうかもしれないけどさ、あははは、冗談だよ。でもよ、一回浄化させたらどうかなぁ?」


「信心深いんですね」


「俺が? まさか」


 それから暫くしてまた、その上司と二人きりの時間ができた。


「行った?」


「墓参りですか?」


「それそれ」


「行きましたけど・・・」


「何か変わったか?」


「何んにも」


 そしていつものように疲れた体を引きずるようにして、アパートへ戻る。

アパートに戻ると、これもいつものように炊事場の窓から道路向かいのアパートの窓を見る。

窓から明かりが溢れている。

カーテンは引かれていない。

いつも綺麗な鳥の描かれたタオルが干されていて、それがカーテン代りなのだろう。


「帰ってるんだ」


 彼は呟く。

日曜日のある日、掃除でもしていたんだろう、窓が全開されていて中が見えた。

綺麗に整頓された部屋で、不意に現れた人は、それ以上に美しかった。


 それからは、窓が開けられていようがいまいが、毎朝、毎晩、その窓を見るようになった。

時々、その女性が窓を開けることがある。

思わず隠れてしまう、何も悪いことをしている訳でもないのに。

女性が窓を開けるときは、雨の日でも晴れの日でも、必ず空を見て深呼吸をする。

その姿が初々しいようで、どこか翳りがあるようにも思える。


「綺麗な人だな、一人暮らしみたいだし、彼氏でも居るんだろうな」


 などと想像し、


「どうせ俺みたいな貧乏で夢も希望もない人間とは関係ない話だけど」


 と諦める。


 そして、また今夜も明かりの溢れている窓を見ては、一人暮らし頑張って、と思ってしまう。

だが、ある日、夜になっても明かりがつかない日があった。

最初は、彼氏とどこかへ旅行にでも行ったのかと思っていたが、次の日も明かりが灯る事はなく、窓が開け放たれることはもちろん無かった。


 そんなある日。

会社で散々罵られ、早退してアパートに帰った。


「もう、辞めてやる。こんな会社、うんざりだ」


 アパートに入ると、万年床に身を投げて、拗ねるようにして寝転がった。

昼過ぎだ。

虫の居所が悪くても腹は空くものである。

彼は、面倒臭そうに鍋に湯を沸かし、インスタントラーメンを放り込む。

換気扇が無いのでそっと窓を開けると、道路向かいのアパートの窓が開いていた。

彼は、そっと覗くようにして部屋の中を伺うと、果たしていつもの女性が見えた。

何か用事をしているようで、そそくさと動き回っている。


「何をしているのだろう? 大掃除?」


 と思いはしたが、ラーメンが出来上がっているので、器に入れ替えて麺を啜りだす。

暫くして、また窓を覗いてみるが既に締め切られていた。


「帰って来てたんだ」


 そう呟くと、なぜか元気が出て来たみたいで、街へ買い物に行き晩御飯を調達する。

その夜、窓からは明かりが溢れていた。


 翌日、昨日の昼頃までは、2度と出社しないつもりだったが、出勤した。

出勤すると、彼を思ってくれている一人だけの上司がやって来て、さりげなく声を掛ける、


「もう、来ないと思っていたよ。昨日は酷かったな」


 その言葉に彼は頷き、


「ええ、まぁ」


 と曖昧な返事をする。

次の日は日曜日だ、一日くらいなら、そういう思いで出社して来たことには間違いない。


 彼はアパートに帰ると、また窓の外を眺めてみる。

明かりはついていない。

そういうことか、と彼は思う。

土曜日の夜だ、きっと彼氏と一緒なんだ、自分に言い聞かせる。


 ある日の日曜日、冷蔵庫になにも無く、商店街へ行こうとアパートから出る。

ふと気がつくと道路向かいのアパートの道端に少ない家具が置かれていた。


「誰か引っ越ししたんだ」


 そんなことを思いながら通り過ぎようとすると、その少ない家具の間に見覚えのあるタオルを見つける。

三枚セットなのだろうか、どのタオルにも美しい鳥の絵が描かれている。


「引っ越したのは彼女なんだ」


 そう思うと、どうしても荷物が気になる。

何気ないふりをして、荷物に近づき、彼女の使っていたものを懐かしむように眺めていると、紐で縛られた何冊かの本があった。


「どんな本を読んでいたんだろう」


 と眺めていると、本と本の間に Dia・・という文字が見えた。


「これは」


 と思うと彼は、そっと上に積み重ねられた本をどかすと、それは確かに日記帳であった。


「いけない」


 と思いつつも彼の手は紐を解き、手帳を持って帰ってしまった。


月日

 今日も晴れ、窓を開けると冷たいけど清々しい空気が入ってくる。

今日から、自分の思いを確かめるために日記を書くことにしました。


月日

 一人暮らしって良いものね。

自分だけのために朝ごはんを作り、自分だけのためにお弁当を作る。

早く知っておけば良かったわ、なんて思ってる。


月日

 そうね、一週間前に一人暮らしは最高って書いたけど、やっぱり寂しいかな?


月日

 今日は仕事で疲れたなぁ。


月日

 パート先の男の人に晩御飯に誘われる。

行く訳ないじゃん。

一人暮らしの女を舐めんじゃねーよ!

って言ってやりたかったけど丁重にお断り、です。


月日

 雨の日は憂鬱、でも窓を開けて! 頑張れ! 私! って呟いてみたよ!


月日

 全部、嘘。

何が?

分からない。


月日

 やっぱり貴方が居ないと寂しい。


月日

 まだ怒ってるよね。

許してくれないわよね。


月日

 浮気、本気じゃないから浮気。

まさか、貴方の知らない人と歩いている所を貴方のお友達に見られたなんて。


「浮気をしたんだ、家庭を持っている人だったんだ・・・」

 彼は読み続けた。


月日

 勝手に出て行ったのは私の方。

だって、貴方は怒りもせず、どんどん無口になっていくだけ。

耐えられなかったの。


月日

 たまたま、街で貴方を見かけた。

やっぱり嘘。

本当は貴方の街へ電車に乗って行ってみたの。

寂しそうな後ろ姿。

いつもと変わらない。


月日

 今、ホテルの部屋で日記を書いている。

駄目だって思いながら、貴方と暮らしていたマンションの前まで行ってみた。

ベランダに干されていた男物の洗濯物。

そして隅に置かれた台の上、旅行先で買った可愛い陶器のお人形、どこからでも見えるように綺麗に並べられていた。

私のために?

信じていいの?

ほんと?


「そうか、数日間家に帰って来なかったのは、この日だったんだ」

 読んではいけないと思いながら表紙を開いた日記帳であったが、彼は既にそんな思いはかき消されていて、日記帳を読み続けた。


月日

 ありがとう、貴方。

許してくれていたの?

でも、戻れない。


月日

 お酒、やめれなくなった。

禁酒の会へも行ってみた。

もう一度、もう一度だけ頑張ってみる。

そしたら帰るね。

待っていてくれるかな?

引っ越します。


月日

 今日は引っ越しの日

頑張れ! 私!

何度でも言ってやるんだ!

信じてるよ! 私! 

新しい私! 頑張れ!

きっと胸を張って貴方に会いに行ける私になるんだ!


 ここで日記帳は終わっていた。

彼は日記帳を閉じると、


「頑張れ・・・。みんな汚れているんだ、仕方ないじゃないか、汚れていない連中なんてどこにも居ないよ。どんなに惨めでも、生きてみるんだ」


 そう呟いた。

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