第2話 橙

 西暦二千二十四年、二月。北海道、札幌市。円山。



 神野神斗は自分の一人暮らしの家から二月の北海道の雪道を、日が沈んだ夜に歩いていた。この季節にしては寒い日で、氷点下の真冬日に雪が深々と降り積もる日であった。彼は地下鉄の構内へと階段を降りていくとアイシーカードを取り出して改札を通った。手にはジュラルミンケースと背中にギターのケース。これから練習なのだ。



 ロスガの練習は週に二回行われた。ライブは月に二回。いつものスタジオで練習して、いつものライブハウスでライブを行う。それが日常だった。



 リハーサルスタジオの名前はチョウチンアンコウ。皆にはチョウチンとか、アンコウとかそれぞれで呼ばれている。チョウチンアンコウは深海魚の名前だ。深く深く潜った果て暗いところでも一つの小さな光を灯して、光り輝く存在になってほしいと名付けられたそうである。音楽という世界に深く深く潜ると、時々真っ暗闇の中に迷い込んでしまうことがある。回りに何も見えず、自分ひとりで残されてあたかも存在そのものが間違いであるかのように取り残されてしまうのだ。しかし、そこは音楽の世界。一つの音が一つの光となって辺りを照らし、世界を見えるようにしてくれる。まるでチョウチンアンコウのように。



 このスタジオは音楽に対して深く向き合っているところがすごく好きでずっと使っている。そして今日は練習日。そのスタジオへと彼は向かっていた。



 彼は地下鉄を待っていた。電光掲示板が前の駅を電車が通過したことを知らせていた。やがて勢いのある風と共に地下鉄が入ってきた。扉が開き、彼は乗車する。がらがらの車内で適当なところを選んで荷物を隣に置いて座った。広いのにもかかわらず、肩身狭そうに座っていた。何かと謙虚なのだ。



 地下鉄は各駅で停車した。止まっては、開き。開いては閉じて発車。次の駅へ。しばらくすると目的の大通駅に到着。彼は降りて階段を上がり、改札を抜けて外へ出た。



 外はまだ雪が降り続いていた。暗くてよく見えないが、どんよりと重く空にのしかかっているであろう雪雲を睨みつけ、首元のマフラーをしっかりと直してから歩き出した。



 地面はこおり、滑りやすくて大変危険であった。しかし、そのスタジオは駅から近かったのでその危険からは早々におさらばすることができた。



「こんばんはー」


「いらっしゃいませー」


「予約していた神野です」


「はい、三番の部屋になりますね。何か必要ですか?」


「マイク一本とケーブルを」


「はい、確かに。会員カードは外の箱に出しておいて下さい」


「わかりました。ありがとうございます」



 店員とのやり取りを終えた彼はスタジオの部屋を確認すると、会員カードを外の箱に入れてからノックしてドアを開けた。



「おつかれっすー」



 中には四人が既に集結していた。各々が各々の反応で挨拶を返してくれる。ギター、ドラム、ベース、キーボード。そう、ご存知の通り俺達希望のロストガールは全部で五人のバンドだ。



「やあ、愛。今日はマーシャル使ってるんだな。じゃあ、俺はジャズコかな」



 ギターの彼女は細美愛(ほそみあい)。いつも温かいやつを着込んだ上に革ジャンを着ていて、それを愛用している。スタイルが良くてかっこいい、ちなみにマーシャルとはギターのアンプのことで、ジャズコもギターのアンプの種類のことである。Jazz chorusの略称ね。



 俺は愛と同じようにエフェクターボードを開き、電源のコンセントを取り出して延長コードにさした。ギターをケースから取り出してシールドをエフェクターの最初、チューナーに繋いで、もう一本のシールドをエフェクターからアンプに繋いで、アンプの電源を入れる。



 ドラムを調整するように少しずつ叩いているのは、鈴木律(すずきりつ)。律は極度の人間嫌いで、バンドメンバー以外の人間を信用していない。彼女と話ができるようになるまではかなり時間を要したし、実際、年俸一千万円の話がなければ彼女が俺達のバンドに参加してくれることはなかっただろう。しかし、安定したリズム取りとそのテクニックは他に代えがたい魅力がある。お金目当てでもいいから、このままバンドに居てほしいものである。ちなみに彼女は華奢で細身であり、手足が少し長く見える。シンバルだって余裕で届くのはその身体の良さなのかもしれない。俺には綺麗でスタイリッシュに見えて、かっこよく映るけどな。



 ピックを咥えながらベースをチューニングしているのは田淵奏(たぶちかなで)。彼女は胸が大きくてグラマーだ。愛とは交際関係、つまり恋愛として付き合っているカップルである。女の子同士だけど、今の時代そんなの普通だよね。男と女とか、男と男とか、女と女とか、なんでもありだし、そうであるべきだと心から思うよ。女の子だから好きになったんじゃない。女の子が好きになった相手がたまたま女の子だったってだけなんだから。彼はバンドに貢献して欲しいと思って二人にそれぞれ声をかけたんだが、まさかこんなことになるとは思わなくて、だからこそ幸せになってほしいとも同時に思うわけで。奇妙な縁の巡り合わせというか、神様のいたずらと言うか。まあ、でもいつも喧嘩ばっかりしているんだけど。



「奏が悪いんだからね」


「愛が聞かないだけ。私は悪くない」



 今日も二人は絶好調のようだ。やれやれ。お似合いなことで。



 そんな様子をやれやれと思っているのは彼女もそうなのだろう。キーボードの小柄で小さな体の女の子、彼女の名前は草野天(くさのてん)。バンドの中ではかなりの常識人で、一風変わった連中の集まりにも思える我がバンドのまとめ役のところがある。音楽に関しても天賦の才があり、その鍵盤捌きは類稀なところがある。



 さて、こうしてみると集まったのは女の子ばかりで、まるでハーレムバンドのようだと言わんばかりだけれども、しかしそのうち二人は既にカップルだし、一人は人間嫌いだし、ひとりは常識人だし、つまり彼の付け入るような隙は、邪な考えを持ち込むような余裕はこの場所にはなかった。しかし、人間関係ではなく音楽としての関係はこの上なく最高だった。バンドミュージックについては各々がとても理解していたし、それに神野の作る音楽も理解されていた。それはとてもありがたいことで、とても貴重で素晴らしいことだった。だって、誰にも理解されないような音楽や言葉が、更に他の誰かに理解されたり絶賛されることはあるはずがないだろう? それを一番身近なバンドメンバーが理解してくれている。それは当たり前のようで、当然のことのようで一番難しいことだ。一番嬉しいことだ。だって、一緒に音楽をやる仲間に理解してもらえるなんてこれ以上のことはないじゃないか。あとは精いっぱい演奏して伝えるだけだ。問題はない。



 彼はチューニングをしていた。エフェクターがたくさん繋いである線の一番右端に繋いだチューナーを足で踏んで起動させ、真ん中に矢印を合わせてレギュラーチューニングを一つずつ合わせていく。ギターは全部で六本の弦がある。右利きギターのネックを左にして、上から太い順番に六弦、五弦、四弦、三弦、二弦、一弦と呼ぶ。ギターを握った時の一番下が一弦で、一番細い。チューニングは次のとおりに合わせる。六弦はE、五弦はA、四弦はD、三弦はG、二弦はB、一弦はE(六弦の一オクターブ下)。ドレミの階名でいうと、Eがミで、Aがラ、Dはレで、Gはソ、Bはシである。上から順に、EADGBE、ミラレソシミとなる。厳密には音名と階名は相対的と絶対的という違いがあるのだけれども、とりあえず日本人の音楽教養に合わせてわかりやすくね。詳しくはまた今度。



「奏が悪い」


「いや、絶対愛が聞かないだけ。私は悪くない」


「ふたりともどうしたの? 今度は何? 何で揉めてるの」



 愛と奏の喧嘩に天が割って入った。彼はその様子を苦笑しながら見つつ、チューニングを続けていた。



「だって、次のライブ赤と黒のギターどっちがいいかなって聞いたら赤だって。私は黒だと思ってたんだけど、赤だってうるさくて」 



「ギターの種類は?」


「赤はテレキャス、黒はレスポール」


「だいぶ音が違うな。次のライブのセトリなんだっけ」


「ssds、せとか、トリシューラの伝説」



 ドラムの律が無機質に、淡白に答える。三曲とも我がバンドのオリジナル曲だ。ssdsは曲名を略さないとssd・s・ sapporoになる。ちなみにセトリとはセットリストの略称のことであり、ライブでやる曲の順番のことである。



「テレキャスター一択だな。ssdsはいつもそれで弾いていただろ。チャキチャキとハキハキしたテレキャスターの音が似合うナンバーだからな。見た目の色の違いもいいけどさ、音に合わせてギターを選んでくれよな」



 俺もギターをきちんと選んで来ている。全部で十本くらい持っているが、今日選んだのはフェンダーのストラトキャスターだ。去年発売されたばかりのAMERICAN PROFESSIONAL II STRATOCASTER 。ストラトキャスターは万能で軽くてどんな曲にでも似合うお気に入りのギターだ。シングルコイルのピックアップが全部で三つ。つまりギターの音を拾うマイクの部分が単独コイルで三個あるってこと。ちなみにカラーは白。ホコリ一つ無い、真っ白なホワイトカラー。同機種で青も買った。まあ、でも白のほうが一番使用率が高くて、お気に入りのフロントギターかもしれない。青もよく使っているけど。



 俺の今の資産力であればアホみたいに高いギターとか、買おうと思えば買える。買えてしまう。一本三百万円の金のギターとか買えてしまうのだ。一生物の一本だな。



 初心者用の激安が一本一万円から三万円だとすると次の初中級者は八万円から十万円くらいだろうか。プレイ用としてはこれぐらいでも十分なものが多く、俺も愛用しているものが多かった。二、三十万円くらいになると高級品だ。プロが使っていたりするようなオーダーメイドクラスになってくる。そんな物を買えるのはギターのために貯金しまくったギター大好き野郎か、ユーチューバーとか宝くじを大当てした成金金持ちか、本当のプロのミュージシャンである。プロのミュージシャンは楽器が資本というか、資産というか、命みたいなところもあるから遠慮なくお金を掛けるだろう。一本じゃなくて、何本か。そりゃあ、一生物の一本、これだ! みたいなのは別にあるんだろうけどね。それはそれだよ。演奏用とは違う。



 まあ、ギターに関して言いたいのは、値段とかメーカーとか、音の違いとか個性とか良し悪し色々あるけど、ある程度のレベルの物で、誰でも手にしようと思えばできるもので演奏して曲を作ったりするのが一番だと思うんだよ。これみよがしに、オリジナル楽器やらカスタマイズやらを見せびらかすのもいいけど、誰でも手に取れる楽器で鳴らす本物のロックンロールこそが、響いてくるんじゃないかなと、個人的にはそう思うんだ。どうかな。それは俺の音楽に対する追求というか、突き詰めの甘さでもあるのかな。音を考えて、鳴らしていった先にいいものを求めるのは当然だとは思うけど、その楽器は、その音は本物なのだろうか。本当にいい音なのか。独りよがりになってはいないか。高いからいいっていうのは確かにその通りで、希少な木材とか、技術とか詰め込んだら値段は跳ね上がるものだけど、でもそれもやりすぎても独善的になるだけであって、やっぱりある程度のそれなりの基準のもので満足することも必要なんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろうね。



「えー、でもお気にの色で弾きたいときもあるじゃん? その時の気分というか、調子に合わせてみたいな?」


「気持ちはわかるが、どちらでも弾けるだろう、愛ならば。今日は黒のレスポールみたいだから、それでいいけど、次の練習の時と今週末の本番の時には赤のテレキャスターを持ってこいよ」


「チューニング終わった? そろそろ練習しよう」



 キーボードの天が仕切る。俺はチューナーをオフにして、ギターを一度鳴らす。ジャーンと、心地よい歪んだ音がアンプから流れた。

 


「ああ、オーケイだ。マイクも繋げた。あっ、あっ、テストテスト」


「皆オッケーね。……よし、じゃあまずはコピーの曲から。律」



 周りを見渡し、確認して、頷いてスティックを宙で叩く。



「ワン、ツー」


 

 



 本日のコピー曲:ASIAN KUNG-FU GENERATION「橙」

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