私が適応障害になって、主人が幼稚園とバトった話

猫島 肇

5分で読める2週間の話

 事の初めは2023年10月の半ば。


 天気も良く、10月にしては暑いくらいだった。息子の幼稚園降園後の話だ。

 この子はいつも遊びたがる。この日も例に漏れず、息子は友達と遊んでいた。


 幼稚園降園の際には正門とは違う扉が開かれる。降園側の扉は公共のグラウンドと繋がっており、みんなそこで遊ぶのが好きだった。

 遊ぶ息子の側で見守りながら歩いていると、クラスの友達が声を上げる。


「あっ、カマキリ!」


 と。赤茶色のグラウンドの上には、確かに緑色の昆虫が弱々しく存在していた。その姿を一目見ようと、わらわらと子どもが寄ってくる。誰かに踏まれたのか、逃げることも威嚇することもなく、そして運悪くいまもたくさん子どもに囲まれるカマキリ。


 しかしやはりその辛うじて生き永らえている姿を心配して、ひとりの心優しき子が草むらに移動を試みていた。


 私は一瞬目を離してしまい、気付いた時にはすでに遅かった。息子含む五人の子どもたちはハーメルンよろしく先頭の子について行き、事もあろうに団地の敷地の中に入ってしまったのだ。


 説明が遅れたが、我が子の通う幼稚園は団地に囲まれており、そこまで近接ではないものの少し歩けば行けてしまう距離にある。


 足を踏み入れてしまったのは入口側ではなくベランダ側で、謎に建物と同じくらいの大きさに拓けた空き地のようになっている場所だ。その存在意義を知らないので「敷地」と呼ぶが、今回必要性はないので調べ物は省かせていただく。


 私は慌てて敷地の外から子らを呼んだ。見れば下の兄弟がいる子や新しく越してきた子がほとんどで、母たちは違う用事で忙しく、近くで動ける人がいない。仕方なく――と言うよりかは確かに自発的に――、私がひとりで呼びかけに行ったのだ。

 人目も少ないだろうと思い、建物の関係で少し反響するが声を掛けた。


「おーい、みんな! そこは、団地の人の場所だから、こっちに戻っておいで!」


 するとどこからともなく男性の声。しかし何を言っているのかはっきりとは聞き取れない。無視してしばらく呼びかけていると少し声が鮮明になってきた。ほとんど何を言っているのか分からなかったが周りを見渡すと、ベランダから顔を覗かせて激怒している老人がいる。


 私の呼びかけに答えない子どもたちも相まって焦ってしまい、失礼ながら一度敷地へ入りすぐにどかせた。


 老人は吐き捨てるように


「どんな教育をしているんだ! 教育委員会に訴えるぞ!」


 と叫んでいた。


 こちらも頭に来たのは認めよう。

 どんな教育をしているかと言われて怒らない親はいないはずだ。五歳の子の行動を縛れないのは恐らく親だったら、育てていたら分かるだろう、と。無論、それは子どものせいにしているだけでは、と責められても仕方ないとは思う。


 しかし思い出して欲しい。この場にいる親は私だけで、五人の子どもをいっぺんに見ている。自分の子も混じっているとは言え、先頭で引っ張ったわけではない。その怒りからか私は、


「失礼しました!!」


 と叫びながら敷地を後にした。表向きは謝っている。思った以上に声は響き、それはそれで申し訳なくは思った。


 一応先頭で入ってしまった子の親には、気を付けるように後で伝えておいた。心の中で閉まっておくにはモヤついたのと、報告しておくのも優しさだと思ったからだ。しかしもうこれで終わりだと、そう思った矢先。


 幼稚園にクレームが入ったらしかった。保護者の名札の色で分かったとのことだが、その場で遊んでいた年長の親が呼ばれた。先頭の子はすでに帰った後だった。


 老人は激怒していた。


「そこはお前の土地じゃないと言われた!」


 と。

 言っていない。対応したのは確かに私だ。だがそんなこと言うはずがない。思っても直接は言わない。こちら側も向こうの主張が良く聞き取れなかったし、向こうの聞き違いだと訂正したが、園長はそれでも、


「大変怒っていらっしゃる。たぶん訂正しても聞き入れてもらえない。謝りに行かないといけないかもしれない」


 と報告してきた。その時は私も気が立っているので、謝りにでも何でも、何なら向こうが凶器を持ち出すのならば殴り倒してやると思っていた。

 しかし私にも非があるところもあるだろうと、その時は後日謝りに行くつもりではいたのだ。


 しかしながら。冷静になってふと考えてみれば。私が謝りに行くのは、おかしくないだろうか、と思うようになっていた。


 そのことを主人にも話し、怒りを受け止めてくれる形となって一旦は話を終わらせることにした。主人ももし謝りに行くなら一緒に行くと言ってくれて心強かった。


 また後日、老人からのクレームもあり、親全体に一週間ほどグラウンドで遊ぶのは自粛という連絡が来た。申し訳ないと思う反面、老人の言うこともあながち的外れではないところもあり、私としては納得していた。


 ちなみに老人の主張としてはこうだ。


ひとつ 子どもが何をしているか、親が見ていない。

ひとつ 騒音がひどい。フェンスにボールをぶつけない。グラウンドの説明に書いてある。

ひとつ 水道は出しっぱなしにしない。


 等々。長年住んできての怒りが募ったのだろう。今回関係の無いことまで言われたようだ。


 だが公共施設の注意書きにあるため守るのは当たり前だ。注意書きに従うのは間違いではない。半分ほど的外れなことも書いてあったが無味乾燥なので省かせてもらった。


 しかし謝りに行くのはまだ消えていないらしく、今度は幼稚園から呼び出しがかかる。その時私はストレスから食事が上手く喉を通らなくなっており、主人からは鳥のエサくらいの量しか食べてないと言われた。正直ちょっと面白かった。


 いま笑えるのも元気になった証拠だ。だがあの時は本当に、幼稚園の事を考えるだけで苦しかった。


 改めて状況把握、ということで私は園長と取りまとめの先生と三人で話すことになった。他の子の親も居るのかと思ったら私ひとりだった。そこがまずおかしいのでは、と思ったが、別で話すのかもしれないと思い指摘はしなかった。


 最初に子どもたちの動向と、老人が顔を出していた部屋はどの辺りだと聞かれた。


 これは後から主人がキレ散らかした時に聞いたのだが、幼稚園側は相手の名前も住んでいる場所も連絡先も知らないとのことだった。もちろん個人情報だから言いふらさないに越したことはないのだが、老人もクレームを入れるなら名前か連絡先くらいは伝えないとどうしようもないことを知っておいて欲しい。団地の住民なので、管理会社を挟んでやり取りするにしても、だ。しかしこれは個人の感想なので間違っているかもしれない。すまない。


 さて、私の話へと戻ろう。ここでも私は私の正当性を主張した。許可なく敷地に入ったこと、大声を出したこと、子どもを入れてしまったことは私の至らぬところではある。


 だが、単なる聞き間違いで頭に来てもらっても困るのだ。重ねるが、お前の土地ではないだろとは思っても決して口には出さない。実のところ、すんでのところで飲み込んでいる。

 老人はエスパーなのだろうか。


 それでもなお謝りに行かなければいけないかも、と主張する園長。しまいには、


「もっと他に言い方なかったの? 私だったら、もっと謝ったわよ? もしくは他の親を呼ぶとか。言ってないって言うのも、他の誰も聞いてないから貴方だけの話なのよ。全体の親に連絡するのも、纏めてくれる親御さんたちが時間外にやってくれたのよ?」


 と、こちらを見捨てるような言葉を発してきた。


 そこは最初に、他の親の分まで見てくれたんですね、ありがとうと嘘でも言うべきではないだろうか。

 それに失礼な物言いをしたのかしてないのかは、こちらもそうだが老人だってそうだ。この園長は見ず知らずの老人の方を信じるのか。

 PTA的な会議外での取り纏めは感謝するし、それは悪い事をしたと思う。けれど園長が胸を張って言うことではない。もっと言うなら私だって個人的な時間を削ってアルバムを作成している。お互い様だ。


 もう耐えられなくなって、ついに私は主人に連れられて精神科を受診した。一過性のものであり、現在ではもう症状はないが、すごく辛い思いをした。

 余談だがバイト先のスーパーでくだんの老人でなくとも、老人を見るのが怖くなっていた。


 無理にでも診断書を書いてもらい、主人が幼稚園に怒鳴り込んで行った。診断書は最終手段のため見せることはなかったが、もうこの件には私を関わらせないこと、話を信じる相手が違う等を伝えてくれた。主人には頭が上がらない。私のために矢面に立ってくれて感謝している。


 また、新しい家族が出来ても、この幼稚園にはもう入れないだろう、と心に決めるのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私が適応障害になって、主人が幼稚園とバトった話 猫島 肇 @NekojimaHajimu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ