第54話 リリアナのおねだり
ルーカスは大抵、グランツ家の執務室にいる。仕事関係の客人が日に何回か訪れるくらいで、ほとんどの時間をその部屋の中で過ごしていた。
彼が部屋から出てくるのは、食事のときくらいである。多忙ゆえなのか、仕事以外に興味がないだけなのかは誰も分からない。いつも書類に囲まれ、彼が判を押しただけで、膨大な金が動く。そうして五年、グランツ聖公爵家は王族をも凌ぐ大金を作り出してきた。
彼を部屋から出すことができるのは、たった一人しかいない。
トントントン
使用人たちを真似て、扉を叩くが、少しばかり軽快になる。
「お父――」
言葉を終える前に扉が開く。小さく開けられた扉の隙間を辿って、リリアナは視線を上げた。いつもと変らない表情でリリアナを見下ろすルーカスの顔を見つけて、リリアナは満面の笑みを浮かべる。
「お父様、一緒に休憩しましょ」
ルーカスは眉一つ動かさない。感情という感情をそぎ落とした人形のように。何時間も一心不乱に仕事をしても、いっさい疲れを感じさせなかった。「休憩」などという言葉はあまりにも不似合いだ。
リリアナは、後ろに立つロフを視線で示した。ルーカスはリリアナから視線を外し、その後ろに立つロフに目を向ける。両手で持ったトレイの上には二人分のシュークリームとティーセットが容易されていた。
ルーカスはやはり眉一つ動かさず、ただ、了承を意味するように扉を大きく開く。リリアナは扉が開ききる前に小さな身体を滑り込ませた。
本棚と書類に囲まれた執務室は、広くもないが狭くもない。部屋の奥に鎮座する大きな机には部屋の主を隠すほどに高く積み上がった書類がある。
仕事の途中であることは明白だ。
リリアナはそれを一瞥したあと、見なかったふりをして部屋の手前にあるソファーに腰掛ける。気にしていたら、ルーカスの時間を少しでも奪うことに耐えられないだろうから。
(まあ、あの書類の山が崩れたところは見たことがないから気にしても仕方ないけど)
五歳の子どもには大きすぎるソファーに身体を預けると、隣にルーカスが座る。前は正面に座っていたのだが、いつの間にか隣に座ってくれるようになった。
この距離に座るには何度も苦労を重ねたのだ。リリアナはルーカスを見上げて満面の笑みを見せる。彼から笑みが帰ってくることはない。
それでもよかった。
ほんの少し前までは会うことすらかなわなかった関係だったのだ。笑顔は長い年月をかけて取り戻せばいい。
「今日はね、オッターがシュークリームを作ってくれたの」
「そうか」
リリアナの言葉を合図にロフが目の前のテーブルにシュークリームを置き、お茶を入れる。心得ているとばかりに、ロフはすぐに部屋を出ていった。
雑多な執務室には少しばかり異質なティーセット。ベルガモットの香りが漂う。
ルーカスはやはり表情を変えず、リリアナを見下ろした。彼はゆっくりと、静かにリリアナの頭を撫でる。
これもいつものことになっていた。これが愛情表現なのかは実のところ、よく分かっていない。しかし、前世でまだ聖女が幼かったころ、同じように兄だったルーカスが頭を撫でてくれていた時期がある。
その記憶よりも大きな手の感触、手のひらから伝わる温もりを感じるだけで十分だった。
彼の手が離れると、リリアナは屈託のない笑みを見せる。
「甘い物を食べると、元気が出るの」
「ああ、そうだな」
「オッターのシュークリームは初めて?」
「いや、昔食べたことがある」
ルーカスの短い返事にリリアナは相槌をうった。よく知っている。オッターが初めて作ったシュークリームを、前世でルーカスと義姉と一緒に食べたことがあった。
しおしおのシュー生地と、甘すぎるクリーム。一所懸命に作ってくれたものを「まずい」とは言えず、紅茶で流し込んだ。
ルーカスがナイフとフォークを器用に使って切り分けていく。その欠片をフォークで刺すと、リリアナの口元へと運んだ。
リリアナは思わず口を開け、そのシュークリームを受け取る。クリームの甘みが口いっぱいに広がった。
「おいしいか」
リリアナは言葉の代わりに頭を縦に振る。サクサクの生地とクリームはよく合っていて、まるごとかじりつきたいくらいだ。
ルーカスも一口、口に入れた。
彼の表情は変わらない。おいしいのか、おいしくないのか。口に入れたのは幻だったのではないかと思えるほど、微動だにしなかった。
「おいしい?」
「ああ」
(ぜんぜん、おいしそうに見えないけど……)
おそらく、おいしくない料理を口にしても同じ表情のままだろう。「おいしい?」と聞けば、同じ顔で「いや」と答えるはずだ。
もう少しだけ、口角をあげるだとか、目を細めて微笑むだとか、そういうアクションがあればおいしさも伝わると思うのだが。彼の顔は感情のない人形のように変化しない。
(でも、微笑んだら、再婚候補が山のように押しかけて来そうだから、当分はこのままでいっか)
リリアナは大きなシュークリームを両手で掴むとかじりついた。五才だから許される所業だ。潰れたシュー生地のあちらこちらからクリームがあふれ出して両手を汚す。
手が汚れたことよりも、口の中に広がる上品な甘みにリリアナは目を細めて笑った。
汚れた手と口周りをどうにかするのは、リリアナの仕事ではない。無表情のままのルーカスが甲斐甲斐しく世話を焼くのだ。愛情があればこそだと思うと、リリアナの口元は更に緩んだ。面倒ならば、侍女の一人を呼べば済む話だから。
「お父様」
リリアナの小さな手を拭うルーカスに声をかけた。返事はない。しかし、視線が絡む。それは、言葉の続きを催促するときの合図だった。
最初に会ったころよりもだいぶ、態度が柔らかくなったように思う。リリアナは、無邪気な笑みを向けたまま言った。
「あのね。お外に遊びに行きたいの」
「だめだ」
「ちょっとだけ」
「だめだ」
ルーカスの返答は変らない。リリアナのお願いは全て、「だめだ」で返されてしまった。
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