第52話 ただの水

『聖女の雫』はもうない。あれは残るほど大量には作っていなかった。前世で作って配っても配っても足りない位だったのだ。毎日絞り出すように作り配ったこともある。それでも足りず、多くの人が『穢れ』によってなくなった。


 リリアナは調理場に続く扉を見つめる。


(あり得ないはずなのに、胸騒ぎがする。でも……)


 どんな内容にせよ、女から事情を聞くと言うことは最後まで付き合わなければならない。


「どうなさいますか?」


 ロフはリリアナに尋ねた。つまり、「女の元へ戻るか」と聞いているのだ。リリアナは頭を横に振る。


「あの人の話がどこまで信用できるかわからないし。『聖女の雫』の件は調べるよ。もし、偽物が出回っているのだとしたら、黙っているわけにはいかないしね」


 『聖女の雫』が本物かどうか、普通の人間には分からない。無味無臭の透明で、水と変らないものだからだ。瓶に水を入れて『聖女の雫』だと言って売れば信じるかもしれないような物である。


 部屋に戻るあいだもリリアナはずっとあの女の言葉が離れなかった。「聖女の雫を飲んでから病いがひどくなった」という言葉が耳から離れない。


「お嬢様、『聖女の雫』とはどのような物なのですか?」

「ただ『癒やしの光』を水と融合させたものよ。ミミックを助けたときに見たでしょう? あれを水に混ぜただけ。『穢れ』を浄化するだけの薬みたいなものかな。たくさん作ったけど、『穢れ』が広がるほうが早くて、作っても作っても足りなかったの。だから、余ってるわけないのよ」


(まあ、余っていても使い道はないんだけどね)


 『穢れ』に効く妙薬。『穢れ』がなくなった今は、何にも使えないものになる。


「ぜひ、一つ私にも作っていただけませんか? お作りするのが大変でなければ」

「いいよ」


 リリアナが快諾すると、ロフはティーカップにヌルくなった水を入れる。目の前に出された水は、何の変哲もないただの水。


 リリアナはそのティーカップを両手で持ち上げた。


「癒やしの光よ。加護を授け給え……」


 リリアナの両手が淡く光る。暖かな春の日差しのようなぬくもりを両の手に感じた。その光にミミックが嬉しそうにくるくると回る。精霊であるミミックは、聖女の力との親和性が高いようだ。


 再び静寂が戻っても、カップの中の水は何の変化もなかった。無味無臭。無色透明である。しかし、ロフは興味深げにそれ見て、嬉しそうに笑った。


「美しい」


 彼はうっとりとなんの変哲もない水を見る。他の人が見たのであれば、ティーカップを賞賛しているようにしか見えない。


 彼はためらいもなくそのカップの水を口に含んだ。


「ちょっと!!」


 ロフの喉が上下し、『聖女の雫』が彼の中に落ちていく。カップの水に作った妙薬は五人分は入っている。


「素晴らしい。やはり、あなたは唯一無二の存在です。身体の中に渦巻く闇が壊されていきます」

「待ってよ。大丈夫なの!?」


 闇を扱う魔王と光を扱う聖女は正反対の存在だ。リリアナの力は彼の闇を喰らうし、彼の力は聖女の光を消すことができる。


 つまるところ、二人は相反する力を持つ。同じ屋敷でお嬢様と執事をやっているほうがおかしいのだ。


 そんな聖女の力を落とし込んだ水を、彼は一気に煽った。今、体内では彼のもつ闇と聖女の光が殴り合いをしているに違いない。


 ロフが嬉しそうに笑い、しかし少しばかり苦しそうに顔を歪める。


「ええ、この程度でしたら数日力が使えないくらいですよ。この『聖女の雫』がどのようなものかは十分理解できましたし」

「飲まなくてもそれなりに理解できていたでしょ? そういうのは慎重に試したほうがいいと思うけど」

「誰にも飲まれず捨てられるのはもったいないでしょう?」

「もったいないからって、腐った食べ物を食べないでしょ」

「お嬢様のお作りした物ならば、腐っていても口にしましょう」

「そういう気遣いはいらないんだけど……」


 そもそも執事は腐った物など食べないと思うのだ。しかし、ロフならば腐った物でも平気で食べそうなので、料理はしないようにしようと心に決めた。


 魔王がお腹を壊すのかはさておき、世話をしてくれる執事に寝込まれては困る。


「それで、突然なんで『聖女の雫』を飲んで確認したわけ?」

「百聞は一見にしかずと申しますから」

「見るだけじゃなくて、飲んじゃったけどね」

「ええ、でもよく分かりました。『聖女の雫』は確かに闇を打ち消す力を持っております。過去に蔓延したという『穢れ』に対抗したのも頷けます」


 ロフはまじまじと空になったティーカップを見つめた。


「『穢れ』にはよく効くけど病気は治せないから、平和な世ではただの水と変りないけどね」

「いいえ、平和な世では『聖女の雫』は劇薬と言っても過言ではありません。喰らう闇がなければ、人を喰らう毒になるのですから」

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