第51話 聖女の雫
正門に立つ人たちは決して生活に余裕がありそうな人ではない。そして、金貨十枚を準備して来たとは思えない形相だった。
リリアナは呆然と窓の外を眺めるほかない。人の声は言葉としては届かない。窓を打ちつける声。それは夏の日に降る豪雨のような怒号だった。
鉄柵の奥にいるのが本当に人なのか。首を捻るほど
「理由はわからないけど、すごく怒ってるね」
「さすがあの場にお嬢様をお連れすることはできませんよ?」
「今回ばかりは私もお断りよ。石よりすごいのが飛んできそうだもん」
ロフならば、そのすべてを避けながらリリアナを連れ出すことは可能だろう。しかし、そんな神技……いや、魔王技を見せていいわけがない。
固く閉ざされた鉄柵の正門を隔てて、煉瓦造りの大きな屋敷に守られていても、彼らの怒りは肌に突き刺さるように感じる。
その原因がなにかはわからない。なぜ、怒っているのか。リリアナは誰かを救ってはいないが、苦しめてもいないはずだ。
ルーカスが提示した料金設定に怒っているようには思えなかった。
「いかがなさいますか?」
「ん〜。今のところ、実害は外に出られないくらいだから、ほうっておいていいんじゃない? うるさいからって何かしちゃだめだからね」
リリアナが釘を差す。そうでもしないとすぐに力を使ってしまいそうなのだ。ロフはしばし考えたあと、頭を下げた。
「かしこまりました」
「それに、今日はオッターがシュークリームを作ってるの! そっちのほうが重要だもん!」
聖女の力があると知られてから数日経つが、リリアナはおとなしく生活している。鉄柵の向こう側で何が起こり、みんなが集まっているのかは想像がつかなかった。
想像もできないことに気を揉む必要はない。
なにせ今はまだ五歳。子どもらしく、今日のおやつに一喜一憂したいというもの。大人の面倒なあれやこれやは、あと十年、いや、二十年はご遠慮したい。
気を揉むのは家族のことだけで十分だ。
リリアナはロフとミミックを連れて部屋を出た。あれからミミックは屋敷の者たちからの人気を独り占めしている。元々人見知りでリリアナ以外には懐かない。しかし、使用人たちには、一度触れてみたいという熱い思いがあるらしく、隙あらば声をかけている姿を見る。
精霊なので食事は必要としない。餌付けができない以上、声をかけるくらいしかできないのだろう。
ミミックは人見知りのくせに、好奇心は人一倍あるから、色んなところに出没しているようだ。
すでに食堂には甘い香りが充満していた。
こんなふうに毎日のスイーツを楽しみにする生活は、いつぶりだろうか。リリアナは思いっきり甘い香りを吸い込んだ。
オッター力作のシュークリームは初めて食べる。パンケーキが美味しいのだから、シュークリームはもっと美味しいに決まっている。
リリアナは我慢できずに食堂の先にある調理場の扉を押し開いた。
「オッター、シュークリー――」
「聖女様っ!!」
切羽詰まった声は、リリアナの言葉をかき消しす。扉を開いてすぐに現れたのは、オッターではなく、見知らぬ女だった。
女は必死にリリアナの手を握りしめる。リリアナの手を握る女の手のひらは熱した石のように熱い。
思わず目をつぶり、力いっぱいに両手を引く。しっかりと捕まえられて、小さな体では離れることができなかった。
しかし、次の瞬間には女は手から離れ、床に転がっていた。
ふわり、と体が浮いて、リリアナは目を瞬かせた。
「へ?」
「大丈夫ですか? お嬢様」
「ロフ!」
床に転がった女は何がなんだかわからない様子で、あたりを見回していた。おそらく、ロフが何らかの力を使ったのは間違いない。
それを咎められないのは、今安堵しているからだ。五歳の体は思った以上に小さく、力が弱い。聖女の力は万能ではないので、力があることが安全を保証されているわけではないことを自覚している。
ロフに抱き上げられ、守られているという事実は、リリアナを安堵させた。
リリアナはロフの服をぎゅっと握る。
「そこのご婦人、お嬢様にご用でしたら、当主を通していただかなければ困ります」
「聖女様っ! どうかお助けください!」
女はロフの言葉など耳にも入れていない様子だった。彼女はロフの足元に縋りつき、リリアナを見上げる。瞳にはリリアナしか映っていない。他の人間など目に入っていないのだ。
しかし、ロフは至って冷静だった。
「ご相談をお受けるにも、手順がございます」
「どうか! どうか、私の娘を助けてください……。このままじゃ……」
救いを求める姿に困惑した。しかし、リリアナはただの病に対抗する力を持ち合わせてはいない。だから、優しさの片鱗を見せてはいけないのだ。勝手に助けてくれると勘違いしてしまうと、後に悲しむのはこの女なのだから。
リリアナは口を閉じたま、何も言わない。言葉を掛けることが救いになる可能性だってある。
その意図を組んだのかはわからない。ロフがリリアナに向かって笑みを浮かべた。
「お嬢様、騒がしい場所はお嫌いでしょう。お部屋に戻りましょう」
「シュークリームは?」
「あとで私が取ってまいります」
「お父様にも持っていってあげようかな」
まるで何もなかったかのように振る舞った。少しだけ胸は締め付けられたけど。
女は調理場を後にするロフの足に縋りつく。涙を流しながら、叫んだ。
「うちの子は、聖女の雫を飲んでから病が酷くなったんです……! どうか、助けてくださいっ!」
女の叫び声は、調理場の扉が遮った。叫び声と扉を叩く音はするものの、無理やり開かれることはなかった。まるで、鍵を締めたようにしっかりと。ロフが力を使ったのかもしれない。
「ねぇ、ロフ。今、あの人『聖女の雫』って言ったよね?」
「そうですね」
「どういうこと? 『聖女の雫』はもうないはずなのに……」
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