第49話 過保護な父
握り拳のような石は弧を描き、リリアナめがけて飛んできた。近づくそれは、少しずつ形を鮮明にしていく。その辺に転がっているただの石。長いあいだ、善意ある聖女として生きたリリアナでは見ることのできない光景だった。
綺麗な弧を描いた石は、ロフの体がわずかに揺れたせいでリリアナの視界から一度消えた。次に視界に現われたのは、ほんの数秒後。けっして軽くはない重さが手のひらに加わったときだ。
リリアナはまじまじと手に転がり落ちた石を見る。ゴツゴツとしていて、投げた人の悪意を感じる形だ。一番鋭利な部分が赤く染まっているのを見つけて、リリアナは目を見開いた。
ゆっくりと顔を上げる。平然と立つロフのこめかみから真っ赤な血が流れている。
「……ロフ?」
思わず彼のこめかみに手を伸ばす。痛々しい傷口からは流れ出た血液は、頬を伝っていた。
(魔王の血も赤いのね)
夏の虫のようにうるさいざわめきすら耳には入らなくなっている。鉄柵の向こう側の世界などどうでもよかった。
「リリアナッ!」
ロフの傷口に触れるよりも早く、屋敷の入り口から叫び声が飛び込んでくる。中途半端に伸びた手は、拳のような石の元へと戻っていった。鬼気迫る勢いで走り寄ってきたのは、ルーカスだ。
相変わらず表情は変わらない。しかし、息を乱した姿を見るに、尋常ではない様子だ。
勝手に屋敷の外に出たことを怒られるのだろうと、身構える。なんと言い訳すればいいかまでは考えていなかったからだ。
リリアナは手の中にある石をそわそわと転がした。ロフの血が両手のひらにつく。汚れた手を服で拭おうとして手を止めた。血がついた服は捨てられてしまう。この服は気に入っている物の一つなので、気をつけなければ。
強い視線を感じて顔を上げた。目を見開いたルーカスが、リリアナの手を凝視している。
「怪我をしたのか?」
「ロフが。私はロフが守ってくれたから大――……」
リリアナが言い終える前にルーカスはロフからリリアナを引き剥がした。リリアナが慌てているあいだに、彼は入念に怪我をしていないか確認する。傷一つついていないことが分かると、小さく息を吐き出した。
「ロフ、何があったかは後で聞こう。まずは治療をしてきなさい」
「かしこまりました」
あとから駆けつけた使用人がロフの怪我を見て声を上げる。頭を切ると想像以上に血が出てしまうせいだろう。呆然と彼の背中を見送っていると、ルーカスの手がリリアナの頭を撫でた。
優しい手つき。しかし、いつもよりも心なしか強ばっている。
「それで、リリアナ」
「は、はい」
ルーカスの低い声にリリアナは身構えた。体を強ばらせる。
(さすがに怒られるよね)
前世で兄妹として過ごしたルーカスは、とても優しい兄だった。いつも笑みを絶やさず、ほとんど怒ることもない。ただ、怒ると本当に怖いのだ。
彼に不思議な力があるわけではない。いつも笑顔の兄が笑みを消した瞬間は、魔王と対峙したときのような恐怖があった。聖女は怒られたことはなかったが、一度だけその瞬間に遭遇したことがある。
その時と同じように、周辺の空気が五度ほど下がったように感じた。吐く息すらも凍らせるような冷たい視線を鉄柵の向こう側にぶつける。
「どれがおまえにこれを投げたのか、わかるか?」
一瞬で、空気が凍りついた。鉄柵の向こう側の人々の騒ぐ声はもうない。氷の中に閉じ込められたかのように、動きを止めた。
(これ、教えたら絶対だめなやつ)
リリアナは確信している。この石を投げた者がわかれば、命は助かったとして五体満足でいられるかどうかはわからない。昔の彼ならば、牢に入れて反省を促しただけかもしれないが。
この五年間で冷酷と評されるようになったのだから、それくらいしてもおかしくはないだろう。
リリアナの評判以上にルーカスの評判が下がるのはいかがなものか。リリアナは考えた。ここで犯人を庇えば、聖女として評価されてしまうかもしれない。せっかく悪者になったのだから、苦労が水の泡になるのだけは避けたいものだ。
しかし、リリアナが庇うか決めかねているあいだに、ルーカスは正解に辿り着いてしまった。誰よりも震える女を、みんなが見つめている。みんな、自分が可愛い。名前も知らない他人を守る余裕があったら、こんなところにわざわざ足を運ばないだろう。
「私は悪くないわ! その子が! その子が聖女の力を独り占めしようとしているからよ!」
ルーカスの眉根に皺が寄った。リリアナは女の言葉よりも、そんな小さな表情の変化ばかりに気を取られる。
(こんなに感情豊かなのは、ここ最近で初めて見たかも)
彼は笑みの一つもこぼさなければ、怒りすら顔に出さなかった。まるで顔の表情が出せない呪いにでも駆けられたかのように。
(私は毎日話をして、努力しても眉一つ動かせなかったのに、たった一言で眉間に皺を寄せるなんて……!)
ルーカスにも感情が残っているということが嬉しい反面、その感情を引き出したのが自分ではないことに悔しさを感じる。
「あの女を捕らえろ」
彼は使用人に指示を出すと、女に視線を向けることなく屋敷へと向かった。女の叫び声が響く。夏の虫の最後の叫びのようだ。
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