第42話 ルーカスの困惑1

 ルーカス・グランツは謁見の間を出ると、音もなくため息を吐き出した。それは誰もが気づかないほどの小さなもので、前を歩く案内を任された名も知らぬ従者も、ため息に湿った空気を感じてはいない様子だ。


 仰々しい手紙によって呼び出されたが、大した話はない。国王も、五年前から無口になったルーカスとの距離を測りかねていた。それでも、彼がたびたび手紙を送りルーカスを呼び出すのは、保身のためだと想定してる。


 話の内容などなくてよい。聖女の実兄であるルーカスが国王を気にかけ、定期的に会いに来ているという事実が重要なのだ。


 いまだ国内外で聖女の人気は高い。それは、非業の死を遂げて五年経ってもなお。いや、亡くなってから一段と高くなったと言わざるを得ない。聖女がいない今、グランツ聖公爵家だけが「平和」の象徴だと考える者も多かった。


 ルーカスにとっては迷惑な話ではあるが。妹の死に寄ってもたらされた名声など、何の価値もないのだから。


 前を歩く従者は何も話さない。ルーカスが返事をしないと理解しているのだ。たとえそれが国家にとって重要な話だったとしても、ルーカスは眉一つ動かさないだろう。ここには関心事など何もない。


「ルーカス郷、こちらです。あれ? お嬢様が見当たりませんね」


 従者が困ったように辺りを見回した。謁見の前にリリアナと別れた場所だ。ルーカスはわずかに眉根を寄せる。


「冒険にでかけたのでしょうか」


 従者は苦笑を浮かべた。ルーカスは答えない。従者の存在などとうに意識から消していたからだ。表情一つ変えずにリリアナが立っていた一点を見つめる。「おとなしく待っている」という約束だった。しかし、その場で動かないという約束はしていない。


 後ろで従者が色々と声をかけて来ている様子だったが、言葉は耳に入る前で遮断していた。今の関心事は、リリアナがどこへ向かったかだ。五才の子どもに「おとなしく」が通じないこと。そして、リリアナにとって王宮は慣れない場所で、どの場所も興味をそそる場所だろう。


 屋内か、それとも、庭園か。ルーカスは廊下の先、目映い光の集まるほうを見た。リリアナが駆けて行く様子がありありと想像できる。


「グランツ郷、人を集めてお嬢様を探しますのでご安心ください」


 従者の言葉を制し、ルーカスが庭園に向かって歩こうとしたとき、廊下の奥から叫び声が届いた。


「聖女様がっ! 聖女様がお戻りになられたっ!」


 叫び声が廊下に響く。同じ言葉を何度も何度も繰り返す。荒々しい足音と共に次第に近づいてくる。前に立つ従者が目を皿のように見開く。


 背筋が凍った。


 聖女が戻った。


 それは、まさしく妹のことを示している。本来ならば喜ぶべきところなのだろう。しかし、胸の奥に渦巻く感情は一言では表せない。それは、妹が初めて聖女の力に目覚めた瞬間に感じた言い知れない不安に似ている。


 喜びよりも大切なものが奪われていくような、心もとない感覚。


 気づけばルーカスは走っていた。聖女の帰還を叫ぶ男の肩をわしづかむ。


「どこだ」

「へっ!?」

「どこにいる」

「せ、聖女様の庭園に……」


 それだけ聞くと、すぐさま走った。聖女の庭園はルーカスも一度だけ招待されたことがある。と、言っても他の空間とは違い、洒落たものではなかった。大きな木と柴があるだけ。花はおまけのように端のほうに並んでいた。当時の貴族たちはこの庭に招かれたい一心で、妹に媚びへつらっていたようだが、家族以外は誰も招待されることはなかった。


 生前、妹は「昼寝用」だと笑っていたのだ。『兄様も、一人になりたい時は使っていいよ』と笑っていた。


 彼女しか開けることのできない鍵でしっかりと扉は閉じられていたため、五年間、誰も入ることがなかったという。


 聖女が戻った。それは世界にとっても、ルーカスにとっても喜ばしいことのはずだ。死んだはずの大切な妹が戻ってくる。しかし、そんな単純なことではない。


 妹は特別な力はあったがただの人間だ。人間は一度死ねば生き返ることはない。


 筆舌に尽くしがたい感情を振り払うように、ルーカスは頭を横に振った。


 背の高い鉄の柵。それを覆うように伸びた蔦。普段しまっている扉が開いている。長い昼寝から覚めたというのか。


 聖女の庭園からは複数の声が聞こえた。「聖女様」「聖女様」と仕切りに言う。


 紺の服を着た男たちが大きな木を囲む。彼らの隙間からリリアナの姿を見つけて、ルーカスの心臓が凍りついた。


 腕に抱く小さな白の塊。それは妹が友達になったという精霊だ。リリアナは淡い光を纏ったまま、呆然と男たちを見上げていた。


 まとう光の正体をルーカスは知っている。聖女が使う、癒しの輝きだ。ぐっと奥歯を噛み締めた。


 大股でリリアナの元まで歩き、無言で抱き上げる。騒めく周囲のことなど気には止めなかった。

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