第38話 お兄様とくま
朝、目を覚まして、リリアナは困惑していた。
(くま……?)
目覚めて一番に目に飛び込んできたのは、緑の目をしたくまのぬいぐるみだった。柔らかなさわり心地で、一目で高級だと分かる物だ。
リリアナの身長の半分ほどはある大きなくまである。繁華街にもぬいぐるみを扱う店があった。くま以外にもうさぎや猫など、子どもに人気がある動物をデフォルメしてぬいぐるみにしているのだ。
「おはようございます」
リリアナが首を傾げていると、同じように僅かに首を傾げたロフが歩み寄ってきた。
「おはよう」
「おや、可愛らしいぬいぐるみですね。とてもよくお似合いです」
「似合うって言われても全然嬉しくないんだけど」
見た目は五才の子どもだが、中身は成人している。くまのぬいぐるみを抱いて喜ぶ精神年齢ではなかった。
「ロフがこれを?」
「いいえ、私ではございませんよ」
「まあ、そうよね」
ロフの趣味ではなさそうだ。仮に読んだ本の中に「くまのぬいぐるみと寝ると安眠効果が五割増しになる」という記述さえあれば、彼が用意する可能性は格段に上がる。おそらく彼は意味のない行動はしない。
(じゃあ、誰が?)
この屋敷に住むのは、リリアナはとロフ、そして使用人たち。そして、父のルーカスだ。兄のエリオットは昨日から寮に戻ったはずである。昼間、彼の部屋を丹念に掃除している使用人たちを見た。当分帰ってこないから、部屋を掃除していたに違いない。
リリアナがくまとにらめっこをしていると、侍女が部屋に入ってくる。朝の着替えや準備は彼女の仕事だった。
「リリアナお嬢様、おはようございます。まあ、可愛らしいぬいぐるみですね」
「これ、誰が置いたか知っている?」
「あら。ロフ様ではないのですか?」
侍女は少し下がり気味の眉尻を更に下げた。ロフは何も言わず、ただ頭を横に振る。
(じゃあお父様が?)
リリアナはルーカスがくまのぬいぐるみを買うところを想像した。氷でできた人形のように表情を崩さず、「これを」と短く店主に注文する姿は想像に容易い。しかし、店先で対応したほうはたまったものではないだろう。
リリアナは侍女が着替えを手伝ってくれているあいだも、髪を結ってもらっているあいだも、くまを側に置いて考えた。
柔らかな毛は薄茶色。くりくりと丸い緑の目。そこだけが宝石のように輝いている。鼻はつるんと丸く、口元は丁寧に刺繍が施されていた。裸のくまだ。
前世から数えてみれば、ぬいぐるみを喜ぶ年ではない。しかし、可愛いものは可愛い。髪を結い終え、解放されたリリアナは迷わずくまのぬいぐるみに抱きついた。
侍女が笑う。
「お気に召したのですね」
「だって、肌触りが最高なの」
高級だとわかる毛皮だ。頬に当たる感触が柔らかく、優しい。抱きつくと包まれているような安心感がある。
よくよく見てみれば、この緑の瞳は宝石でできているのではないだろうか。
リリアナはまじまじと見つめる。宝石には詳しくはない。興味もなかった。価値が高い輝く石程度の認識だ。もし、本当に宝石なら、おそろしく高価なくまなのではないか。
(さすが聖公爵家)
ルーカスは事業を軌道に乗せ、当分は安泰だとロフから聞き及んでいる。リリアナが結婚せずにグランツ家の穀潰しになっても、グランツ家は痛くも痒くもないらしい。そんなことをすれば、エリオットが良い顔をしないのは今は置いておく。
リリアナは父に礼を言うべく、くまのぬいぐるみを抱いて食堂へと向かった。
その途中で見覚えのある人影を見つけ、リリアナは足を止めた。――エリオットだ。制服を着た後ろ姿は、昔のルーカスにそっくりだった。廊下の前を歩くエリオットがピタリと足を止める。
リリアナは慌てて隠れようとしたが、廊下に隠れる場所はない。アワアワと右往左往したのち、くまのぬいぐるみでそっと顔を隠した。
(な、なんでいるの!? もう寮に戻ったんじゃないの!?)
ロフの手によって壊された寮の設備は昨日修繕された。彼は今日から寮生活のはずだ。
乱暴な足音が近づく。絨毯に吸収されても、彼の苛立ちは足元から這い上がっていくるようだった。
「なに?」
最近では聞き慣れた、苛立っているときの「なに?」である。リリアナはおそるおそるくまのぬいぐるみの頭から目から、少しだけ顔を出した。機嫌の悪そうなエリオットと目が合う。
(気まずい……!)
エリオットとは絶妙な距離間を保とうと決めた矢先にこれだ。タイミングがいいのか悪いのか。
「……それ」
彼の目線はリリアナよりも少し下、くまのぬいぐるみにそそがれていた。リリアナはくまを強く抱きしめる。奪われては敵わないと思った。
「気に入ったのか?」
エリオットの問いに、リリアナは頷くだけで返した。
誰の贈り物かはわからないが、抱き心地も肌触りもいい。もし、贈り主に「やっぱり返せ」と言われても子どもの特権を使って反抗する。それくらい、気に入っていた。
二人のあいだに沈黙が続く。いたたまれない気持ちにリリアナは何か言おうと口を開いたが、その前にエリオットが踵を返した。側に控えていた使用人たちが慌てている。
「坊っちゃま、朝食は!?」
「いい、学院に行く」
エリオットは短くそう言うと、足早に歩いて行った。
取り残されたリリアナはそんな彼の背をじっと見つめる。
(やっぱり、私と一緒にご飯は食べたくないよね)
リリアナはぎゅっとくまのぬいぐるみを抱きしめた。普通に生きてきた令嬢に比べて、精神的に強い自信はある。聖女として生きた八年はそれほどに苦しかった。けれど、こうもあからさまに避けられると悲しいものがある。それが、甥であり、今は実の兄なのだから尚更だ。
肩を落として食堂へと入った。既にルーカスは席に着き、リリアナの到着を待っている。
「お父様、おはようございます」
「おはよう、リリアナ」
毎日繰り返される挨拶。最初はこの挨拶すらままならなったので、進歩である。ルーカスは口数が少なく、表情も変わらないのだ。
リリアナは彼の側に駆け寄り、見上げた。
すっと、彼の手がリリアナの頭に伸びる。大きな手がゆっくりと頭を撫でた。
言葉は少ないが、彼はいつもリリアナの頭を撫でたがる。先日、朝食の席に着いたリリアナにわざわざ近づいて頭を撫でていることに気づいた。以来、リリアナは猫のように毎朝自ら撫でられに行く。
「懐かしいくまだ」
ルーカスがリリアナの頭を撫で、リリアナの抱いているくまの頭を撫でる。リリアナは彼の言葉に首を傾げた。
「懐かしい?」
「ああ、それは昔エリオットが買った物だ」
「お兄様が?」
(このぬいぐるみを……?)
リリアナはぬいぐるみを凝視した。今では想像できないが、昔は可愛げのある子ではあった。義姉の側から離れず、聖女に会うときはいつも不安そうに見上げている姿を覚えている。叔母である聖女は、そんなエリオットも可愛く見えていたものだ。
「リリアナがまだ母のお腹にいたときだ。『女の子が生まれたらあげる』と」
(半分の確立で男の可能性もあるのに、なんで生まれる前に買ったんだろう?)
「『これは絶対リリアナが気に入るから、売り切れる前に買う』と言ってた。気に入ったか?」
「うん」
「これは、おまえたちの母によく似ている」
「お母様に?」
リリアナはぬいぐるみを高く掲げ、見上げた。柔らかな薄茶色の毛。高価な宝石が嵌められた緑の瞳。実の姉のように聖女に優しかった義姉の笑顔が浮かぶ。
(たしかに、似てるかも)
リリアナはぎゅっとくまのぬいぐるみを抱きしめた。
(お父様は何考えているか読み取れないし、お兄様はもっとわかりにくし)
ルーカスは心などなさそうなほど、いつも表情が変わらない。それに比べてエリオットはいつも不機嫌そうだ。前世のころと全く違って、リリアナは毎日振り回されっぱなしだった。
(お兄様の気持ちはまだよくわからないけど、これをくれるってことは『大嫌い』よりはマシになったってことだよね、義姉様)
ぬいぐるみは応えない。けれど、やわらかな存在が「そうだ」と言っているように気がして嬉しかった。
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