第37話 素直じゃない兄

 リリアナを追い払ったその日から、エリオットに平和が戻った。


 リリアナからの接触がなくなったのだ。リリアナは毎日適当な理由をつけて、朝食の席には現われない。三日目もリリアナは現われなかった。


 平和な気分を堪能しながら、朝食の席で、エリオットは父の顔を見る。五年前から変わらず、感情の読み取れない人形になってしまった。


 まだ母が健在だったころは、とてもにこやかに笑う人だったのだ。エリオットは目の前の空いた席を見る。


 そこには子ども用の食器が並んでいた。


 元は母の席だ。その思い出の席すら奪おうとしている。エリオットは奥歯を噛みしめた。


 父は母が死んでから、この屋敷には寄りつかなくなった。父の気持ちも理解できる。エリオットも、母との思い出の多いこの屋敷にいることがつらかったからだ。


 けれど、今はまた屋敷に戻り、仕事をしている。三食この屋敷で摂っていると、新しい執事が言っていた。


 食堂の時計がボーンと低い音で七時を知らせた時、父が顔を上げ、侍女に向かって聞いた。


「……リリアナは?」

「も、申し訳ございませんっ。本日はお腹が痛いらしく……」


 侍女が声を震わせながら説明をしている。それが嘘で、理由は自分にあることはわかっていた。一昨日は寝坊で、昨日は前日の食べ過ぎだった。三日目にもなれば、父が訝しがるのも無理はない。


 あれだけ罵ったのだ。リリアナはもうエリオットに近づこうとはしないだろう。エリオットの吐いた毒に侵されたのだから。


 父は立ち上がる。その様子をエリオットは呆然と見上げた。


「様子を見に行く」

「父上? 腹痛なら、医師を呼べば済むことではありませんか?」


 どうせ仮病だ。医師すら必要ない。本当に腹痛だったとしても、父が行ったところで治るものでもない。「冷淡だ」とか「冷酷だ」と言われるようになった父ならば、そのように判断するはずである。


 父はエリオットを一瞥したあと、すぐに歩き出した。


「父上!?」


 表情はない。冷たい人形のように冷酷なのに、この五年間とは明らかに違う。そう、直感した。思わず、エリオットは彼のあとを追いかけた。


 リリアナの顔なんて見たくないはずなのに、そうしなればならないような気がしたのだ。


 大股で歩く父を追いかける。


 たかが腹痛で、何を焦る必要があるのか。エリオットは首を傾げた。仮病だと知らなくとも、侍女の様子からその腹痛がたいしたことがないことはわかる。


(そういえば、あの日も父上が迎えに来ていたな)


 リリアナが迷子になった日だ。使用人が迎えに来るかと思っていたら、父が来たことを聞いて驚いたのを覚えている。


 エリオットの部屋の前が騒がしくなったので、本を読むどころではなくなっていた。


 リリアナの部屋についたところで、父は焦った様子で部屋の中に入って行った。エリオットは一緒に行くことができず、リリアナたちから見えない扉の入り口で立ち止まる。


「リリアナ」

「お、お父様。どうしたの?」

「体調が悪いと聞いた」


 父の端的な質問に、リリアナがたじろぐ。よく聞こえない小さな声で何やら言い訳を述べていた。


「医師を呼ぼう」

「だ、大丈夫! ただ朝ご飯は後で食べたいというか……なんというか」


 嘘が下手だ。エリオットは小さくため息を吐き出した。父はただ、リリアナのことが心配なのだろう。まるで、娘の体調を心配する普通の父親のようで苛立った。


 母の死で父は変わった。しかし、それは裏を返せば、母への深い愛情ゆえだ。皆が父の変貌に不安し、恐怖した。けれど、エリオットは父がそれほど母を思っているのだという指標にもなってもいたのだ。


 世間が聖女の死を悲しみ、母を「魔女」と罵る中、父もエリオットと同じように母を想ってくるしんでいる。自分は独りではないとある種の安らぎすら感じていた。


 だが、リリアナのせいで父はまた、変わってしまった。聖女の追悼式の時、父は変わった様子はなかったというのに。


 冷たい瞳も、人形のように動かない表情も、母が処刑された日から変わらない。なのに、屋敷に戻ったという父の纏う空気は別物だった。


 昔に戻ったわけではない。冷たい氷でできた人形のようであるのに、温もりを感じる。そうさせているのが、リリアナであるという事実を認めたくないのだ。


「お父様、あのね!」


 エリオットの思考を遮るようにリリアナの声が部屋に響いた。


「私、これからは一人でご飯食べるから、大丈夫。だから、お兄様がおうちに戻れるようにしてほしいの」


 父の声は聞こえない。何も言っていないのかもしれないし、小さな声で「なぜ」と聞いたのかもしれない。


 なぜ、そんなことをリリアナが言い出したのか。その理由がエリオットにはわかった。リリアナに言ったからだ。「僕だってこの屋敷を出ることなんて考えなかった」そう、言ったのだ。


「ここは、お兄様のおうちでもあるし……。お兄様もお父様と一緒にいたいと思うから」

「三人で一緒にいればいい」

「そうだけど……」

「エリオットのことは嫌いか?」

「嫌いじゃないよ。だって、家族だもん。私も一緒にご飯食べたい。でも……」


 リリアナは、少し言いよどんだ。どんな顔をしているのか、エリオットの立つ場所からでは見えない。けれど、安易に想像はできた。母のように眉尻を下げ、悲しげな表情をしているだろう。


「でも、私の髪も目も、お母様に似ているでしょ?」

「……ああ、よく似ている」

「だから。お兄様はお母様を思い出してつらくなるの。お母様はお兄様のことが大好きだったから、悲しませたくないし」

「まるで母のことを知っているみたいに言う」

「えっと……。それはその……。ずっと、お母様のお腹にいたから知ってるもん」


 二人はまだ会話を続けていたが、エリオットは彼女の部屋を後にした。


「坊ちゃま?」


 侍女の一人が困惑顔で、エリオットを追いかけて来た。


「学院に行く」

「お食事は?」

「遅れるからいい。父上にはリリアナと二人で食べてと伝えて」

「かしこまりました。本日から寮に戻られるとお聞きしておりますが、旦那様にご挨拶はしなくてもよろしいでしょうか?」


 侍女が不安そうな顔で質問する。今までならば、そんな質問はしなかったはずだ。エリオットが父に挨拶しようがしまいが構わない。それが、父の用意した新しい使用人のやり方だった。


 屋敷の全員が、エリオットとリリアナの関係を心配しているのが分かる。みんな、リリアナに感化されているのだ。


 父も使用人達もみんな。


「部屋」

「へっ?」


 エリオットは歩きながら、侍女に言った。侍女は素っ頓狂な声を上げる。エリオットは大きなため息をこれ見よがしに吐くと、足を止める。


「部屋、昼間にちゃんと掃除しておいて。寮から荷物全部移動させるから」

「えっ!?」


 侍女は目を丸くした。


(別に僕はみんなみたいにあいつに感化されたわけじゃない。ただ、少しだけ思い出しただけだ)


 エリオットはゆっくりと目を閉じる。五年前、エリオットは母のお腹――リリアナに向けて何度も語りかけた。「早く出ておいで。お兄様が色んなことを教えてあげる」と。あのとき、母は嬉しそうに笑みを浮かべていた。


 父も母もエリオット自身も、お腹の子が無事に生まれ、四人で笑い合う日を夢見ていたのだ。母が現状を見たら嘆くに違いない。


(それに、あいつは一度も母に抱きしめられたこともない……)


 小さな手だった。必死に父やエリオットの後を追う、小さな存在だ。


 エリオットは腕を組んで、リリアナの部屋のほうを凝視した。


(違う。ただ、前にみたいに寮に突撃されても困るから戻るだけだし。これ以上父上を惑わせないように監視するだけだ)

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