第33話 エリオットの帰宅

 リリアナが迷子になって三日後の夕刻、グランツ邸が騒然となった。グランツ家の長男、エリオットが五年ぶりに戻ってきたのだ。


 予告のなかったことに、使用人達は大慌てだった。


 その報を聞いて、リリアナは部屋を飛び出す。


 廊下を走っている途中で不機嫌なエリオットにぶつかった。


「いた」

「邪魔」


 リリアナが額を押さえて、顔を上げると、冷たい言葉が降ってきた。回りには大きな荷物を持った使用人達がいる。「大丈夫ですか?」と声をかけられたけれど、リリアナは気にせずエリオットを見上げていた。


「おかえりなさい」


 エリオットはリリアナに返事はしない。リリアナを避けて廊下を進んだ。


(なかなかに手強いわね)


 リリアナは腕を組んだ。侍女の一人がリリアナの目線に合わせて床に膝をつく。リリアナの頭を撫で笑みを浮かべた。


「坊ちゃまはきっと、照れているのですよ」


 彼女の言葉を受けて、エリオットが足をピタリと止めた。振り返ると、キッとリリアナと侍女を睨む。


(照れているようには見えないけどね)


 侍女も同じことを思ったのだろう。浮かべていた笑みが困ったような、そんな顔に変化する。


 しかし、リリアナは気にしていなかった。エリオットは数日グランツ邸で生活をすることになった筈だからだ。


 リリアナは昨日のことを思いだしながら悪い笑みを浮かべながら、自分の部屋へと戻った。部屋に入ると、ロフがいつもの穏やかな笑みを浮かべて立っている。


 魔王だと言っても誰も信じないだろうが、魔王なのだ。こうして毎日思い出さないと、リリアナもすっかり忘れそうになる。なぜ、リリアナの元にいるのかはよく分からない。分かっているのは、ただ、彼はリリアナの側にいることを希望していることだけだ。


 前世で倒していたと思った魔王が世に現われるのは不都合なので、こうして側で監視するためにも側に置いている。


 リリアナはロフに向かって満面に笑みを見せた。


「ロフのお陰でお兄様が帰って来たわ」

「それは、ようございました」

「もちろん、他に迷惑はかけてないわよね?」

「はい。リリアナお嬢様のお望みどおり、エリオット様の部屋と空き部屋のみ、設備に不良が起きるように水道管をちょっといじらせていただきました」

「水道管もいじれるなんてさすが魔王」

「先日読んだ『アパートメント設備の全て 水道管編』の知識が役に立ちました」

「さすが魔王というより……さすが多読家ね。この調子で知識を蓄えて役に立ってちょうだい」

「かしこまりました」


 ロフは満更でもないという表情で、恭しく頭を下げた。


 魔王の力に人間のあらゆる知識を足したら、どんな化け者になるのだろうか。リリアナは少し考えて頭を横に振った。


(敵に回したくないのは確かだわ)


「この後はいかがなさる予定ですか?」

「とりあえず、お兄様と普通の会話ができる程度には、仲良くなりたい」


 今、エリオットがリリアナに向けて放つ言葉は、「邪魔」か「うるさい」かのどちらかだろう。


(相手が私でよかった。普通の子どもだったら傷ついてるわ)


 リリアナは五才ではあるが、前世二十五年分の知識がある。人間の少年期には「反抗期」というものがあるのだ。その反応に近いと思えば、母の気持ち――……いや、叔母の気持ちを持って広い心で接することができるというもの。


(義姉様、絶対にエリオットを昔のいい子に戻すから、任せて)


 今は亡き義姉が見ているかはわからないが、この現状を見たら悲しむに違いない。義姉はルーカスとエリオットの笑顔が何よりの生きがいだと言っていたことがある。


 この状況のままエリオットを放っておいたら、死後の世界で合わせる顔がないというものだ。


「仲良くなるためにはどんな方法がいいかしら。『本を読んで』作戦は無謀だし」


 父親であるルーカスに使おうとした作戦の一つ目だ。「本を読んで」と声をかけたところで「うるさい」の一言が返ってくるのは想像に容易い。


「では、また手紙をご用意しては?」

「情に訴える作戦ね。でも、大きいといってもお兄様もまだ子どもよ。大人のようにうまくはいかないと思う」


 大人のように、と言ったが、結局ルーカスに手紙は届けていない。届ける前になぜかリリアナと接するようになってくれたので、情に訴える作戦がうまくいくのかは不明だ。


「子ども同士でわかり合えることもある……はず」


 十五、六くらいの年のころの気持ちを思い出せば、エリオットに近づけるかもしれない。リリアナはベッドにごろんと寝転がり、天井の模様を目で覆いながら考えた。


(十五、六って言っても、前世は普通じゃなかったからなぁ)


 魔王の『穢れ』で平和とは言えない世界になっていたし、聖女として右も左も分からないまま姿の見えない敵と戦う恐怖と戦っていたころだ。


 あのころは、恐怖も不安も誰にも言えず、必死に『穢れ』から人を助ける方法を模索していた。まだ聖女の力に目覚めたばかりで、『聖女の雫』は沢山作れない。そのあいだにも『穢れ』によって苦しみ、死んでいく人々を見送っていた。


(私は一人、世界に取り残されたような気持ちになったけど、お兄様はどうだろう?)


 今のエリオットは独りで何かと戦っているのではないだろうか。誰も入ってこれないように、扉にしっかりと鍵を閉めて。


 リリアナはベッドから勢いよく起き上がる。


「こうしてはいられないわ!」

「いかがなさいましたか?」

「お兄様に会いに行くの。一日だって、ううん、一分だってもったいない!」


 リリアナは、ベッドから飛び降りると走った。兄の部屋へと。

 

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