第26話 明日の約束

 ルーカスの瞳が見開かれ、そして僅かに揺れる。綺麗な青の瞳にリリアナが映し出されていた。


(大人は子どもの涙には弱いのよ)


 得意げに笑いたいところだが、リリアナは表情を崩さない。大女優にでもなった気分だ。「食べる」とルーカスが言うまで粘るつもりである。


 今でこそ氷で作った人形のようであるが、昔は春の日差しを練って作ったように優しく温かな人だった。つまり、この氷の奥にはそれが眠っているはずなのだ。


 リリアナはそれを揺さぶり起こしたかった。


 それがたとえ同情で、愛情ではなかったとしても、彼が口に食事を運び健康を取り戻しさえすればいい。聖女の力でできることは限られているからだ。


 魔王が世界を襲った『穢れ』を癒やす力はあるが、ただの病を治す力はない。


 ルーカスが病に倒れれば、医師に頼るしかなくなるのだ。


 ルーカスの手がリリアナの頭をほんの少し撫でる。そして、短く「そんなことはない」と言った。「私と一緒じゃ、ご飯食べたくない?」の返事だろう。


 それが本当だと証明するかのように、ルーカスはパンの一つを手に取ると半分に割る。そのまま湯気が立つパンを口に入れた。


「おいしい?」

「ああ」

「本当?」


 ルーカスは瞼だけで返事をする。返事は端的なものだったが、リリアナは満足だった。


「ね! スープも飲んで! オッターの作るスープは世界一なの!」


 リリアナはスプーンを差し出した。嘘ではない。今まで王宮で食べたどんな豪華な食事よりも家族と食べるオッターの食事がなによりもおいしかった。


 ルーカスがスープを口に運ぶのをじっと見つめる。スープがスプーンの中で波打つ。


 一口食べ終えたルーカスはゆっくりと目を閉じた。味わっているようにも見えるし、何か考え事をしているようにも見える。


(どうにかして、食事の習慣をつけてもらわないと!)


 食事と睡眠、これが健康にとって一番大切だ。屋敷の外にいるあいだ、どこで寝泊まりしているのかもわからない。


(もしかして、外に恋人がいるとか? でも、それならもっと健康そうか)


 恋人がいるのなら、再婚だって難しくはない。たとえ身分に大きな差があっても、反対する者はこの世に残っていないのだから。


 だから、恋人がいるという仮説はかき消えた。


 リリアナは、袖で潤んだ目を拭いながら、自分の席へと戻る。少し冷めたパンを囓った。


 ルーカスは静かに食事を摂った。朝の乾いた体に染みるような優しいスープと柔らかなパン。豪華ではないが、グランツ家が伯爵だったころから変わらない朝食だ。朝からたくさん食べられない母――リリアナにとっての祖母に合わせた食事である。


 その後、二人のあいだに会話はなく、静寂が食堂を包み込む。


(今後のことをどうやって切り出そうかな)


 今日、朝食の席を共にすることになったのは偶然だ。リリアナはまだルーカスに手紙を出していない。結局、納得のいく手紙はまだ書けず、下書きばかりが溜まっていく。


 一度目の作戦、廊下に籠城計画は失敗に終わった。あれから、ルーカスは使用人たちにベッド以外で寝ることを固く禁じたようだ。


 手紙も内容を失敗すれば禁止される恐れがある。失敗が許されないと思うと、なかなかないようを決められないでいた。一度でルーカスの心を落とす何かがないと。


 前世で二十五年間、ルーカスとは家族だったが、兄と妹、父と娘では何か違うような気がした。


 ふいに、ルーカスが席を立つ。空の器。食べ終えたから、終わりということなのだろう。リリアナも慌てて立ち上がる。


「お父様、あのね!」


 部屋を出て行こうとするルーカスを呼び止める。彼は扉に手をかける前に足を止めた。リリアナは椅子から飛び降りて、ルーカスの元に走った。感情の読めない目がリリアナを見下ろす。


(何も考えてなかった……! あ、そうだ! 本だ!)


 手紙に夢中になっていたが、最初の目的はハートフルな本を一緒に読んで仲良くなるという作戦だった。それを思いだし、リリアナは意気揚々とルーカスを見上げる。


「お父様と本が読みたいの」

「仕事がある」

「そっか……」


 短い断りの言葉にリリアナは俯いた。


 今日のこの日が特別だったのだ。どう言う風の吹き回しか、ルーカスはリリアナに会ってくれた。しかし、彼が帰ってくるのは数日に一度でしかも深夜だけだ。


 次、一緒に会えるのは数日後なのか、数ヶ月後なのか。彼の気が向いたときになるだろう。


 ルーカスの手がリリアナの頭をそっと撫でる。先程より長く、そして優しく感じた。


「明日の朝はいる」

「それって、また一緒に朝ご飯食べてくれるの?」


 リリアナの質問にルーカスは瞼を少し動かすことで返事をする。胸にできた感情が頬を喜びの色に染める。


「ほんとう?」


 彼はやはり、言葉ではなく瞼で返事をした。それが肯定であることは間違いなかった。


「嬉しいっ!」


 リリアナは、ルーカスの足に抱きつく。喜びを表現する方法をそれ以上知らなかったのだ。リリアナにはルーカスの表情は見て取れなかったが、きっといきなり抱きつかれて困ったことだろう。


 それでもリリアナは力強く抱きついた。


 理由は分からないが、少しだけルーカスとの距離が近づいた感覚。そして、これから朝食は一人で食べなくて良いという喜びもあった。


 一人で食べる食事は味気ないことこの上ない。使用人と一緒に食事を摂る機会はないため、ずっと一人で食べなければならなかった。


 それは王宮で食事を摂っているときの感覚ににていた。やはり、食事は誰かと一緒のほうがおいしい。そう、思うのだ。

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