第27話 ルーカスの決意

 ルーカス・グランツは困惑していた。


 亡き妻が残した娘の真っ直ぐな瞳に。


 妹が聖女という役割を努めて八年後、ルーカスは伯爵から聖公爵になった。それは、異例のことだ。


 混沌の時代、聖女と共にルーカスが多くの功績を残した。というのが理由らしい。しかし、本当の理由を知っている。聖女の生家が伯爵ではかっこうがつかない。ただ、それだけだ。


 領地が増えたことと、周りの態度以外は何も変わらなかった。優しい妻と、可愛い息子。そして、妻のお腹には新しい命が宿っている。妹は聖女としての役割を終えたら、屋敷に戻ってくるだろうと、妻が準備をしていたころだった。


 妹が死んだ。そして、その犯人は妻だという。魔族に操られているのだと、王宮の者たちは口々に言った。


 聖公爵という身分を使い、妻を助けようと多くの者に救いを求めたが、誰もが「聖女を殺めた魔女に手を貸すことはできない」と言う。


 娘が生まれたのは、王宮の地下牢の中だったらしい。妻に頼まれたと言った女は、生まれたばかりの娘をルーカスに手渡した。妻が処刑された日の早朝のことだ。


 その後のことはよく覚えていない。


 妹の亡骸も、妻のものも、全て王宮が埋葬したのだという。


 そのとき、ルーカスは悟ったのだ。優しさは人に付けいる隙を与えるだけだと。ルーカスの両親はその優しい性格ゆえに、自分に用意されていた『聖女の雫』を他人に譲り、死んでいった。


 妹はその優しさゆえ、聖女という役割を全うし、世界の平和などという大きいものを背負った。そんな彼女に与えられたのは早すぎる死だ。


 優しすぎる妻は、冤罪で処刑された。


 その日から、ルーカス・グランツは笑うのをやめた。妻を少しでも疑う使用人たちに暇を出し、新しい使用人を入れた。


 娘の世話は一人の侍女に任せた。彼女は未婚の女性ではあったが、子だくさんの家の長女として生まれ、小さなころからずっと子どもの世話をしていたのだという。家にたくさん仕送りをしたいという彼女とは利害が一致したと思えたのだ。


 亡き妻が残した最後の忘れ形見。娘はグランツ家の血を色濃く受け継いだようだ。幼いころの妹にそっくりな顔立ち。妻の淡い茶色の髪とエメラルドグリーンの瞳を合わせた、正真正銘、グランツ家の娘だ。


 娘は成長したら苦労するだろう。聖女にそっくりな容姿。そして、魔女と言われ殺された妻が産んだ子。人々は新たな聖女として持ち上げるか、魔女の娘として蔑むか。どちらにせよ、幸せとは言えない未来だ。


 そんな苦しい人生は、妻の望むところではないと思った。だから、あと数年もしたら遠くの親戚に養子に出す予定だったのだ。


 笑わなくなって数ヶ月もすれば、誰もがルーカスを怖がった。息子のエリオットすらほとんど屋敷には近寄らなくなったのだから、娘も怖がるだろう。そう思っていた。


 足に抱きつく娘の後頭部を見下ろしながら、ルーカスは困惑していた。


 あと数年経てば、手放す存在だというのに。温もりが足から全身に広がっていく。


(なぜ、あんなことを言った?)


『明日の朝はいる』


 そんな予定はない。仕事に追われているときは何もかも忘れることができる。財産が増えれば、家族を守る力になる。だから、今日から眠気が訪れるまで、外に建てた事務所で働くつもりだった。


 娘の小さな体はまだ軽く、振りほどいてしまうのは簡単だ。それなに、体は動かなかった。


「明日はお屋敷にどのくらいいるの?」


 娘はキラキラとした目で見上げていた。無垢な笑顔が眩しい。この子もまた、グランツ家の娘なのだ。きっと、妻のように優しく育つだろう。そうなれば、この子は妻のような辛い思いをすることになるかもしれない。


 たとえグランツ家から離れても、優しい少女に付けいる悪い者は多く存在する。養父や養母になる人は、そこからこの娘を守れるだろうか。


「お父様?」


 純真無垢な瞳が不思議そうにルーカスを見る。小首を傾げた。


 ルーカスの弱さゆえに両親も、妹も妻も亡くした。妻が残した二人の子を守ることができるのは自分しかいない。


(大切なことを忘れるところだった)


 笑うことをやめたのは、人と関わり合いたくないからではない。人に付けいられないためだ。それは、これ以上家族を苦しめないためだった。


 ルーカスはゆっくりと娘の頭に手を乗せる。手から伝わる温もりは優しい。


 守るために昔の自分を捨てたのだ。家族に善を押しつける全ての者から。


 まだ小さな大切な存在を守るために。


「リリアナ」


 ルーカスの口が名を呼んだ。娘は嬉しそうに目を細める。


 まだ妻のお腹の中にいるときに、「娘なら、リリアナにしたい」と妻が言った。


「これからは毎日、一緒だ」


 ルーカスの言葉にリリアナは目を大きく見開き、そして嬉しそうに細めた。


「本当っ?」


 小さく頷くと、リリアナは足から手を離す。


 温もりが消えたとたん、冷たい空気がまとわりつくようで寒い。


 リリアナが「やった!」と叫ぶと、再び足に抱きついた。


 その日の午後、使用人を総動員し事務所から全ての物を屋敷に移したことは言うまでもない。

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