第10話 パンケーキ
ロフが言い終える前に、聖女は走り出した。
ロフが執事となってからというもの、外から部屋の鍵は閉められなくなった。常に彼が側を離れないからだろうか。思えば、侍女が部屋にいたときも鍵は空いていた。
重い扉を押し開け、廊下に出る。臙脂色の絨毯が伸びる。記憶を辿って走り出した。厨房は一階の奥だ。階段を降りると大きな広間に出る。客を迎え入れるために他よりも少しばかり豪勢な作りになっている場所だ。
扉を一つあけると、使用人の女性が驚きの声を上げる。その声を無視して、真っ直ぐ走った。大きな食堂は客が来てもいいように長いテーブルが備え付けられている。中央には燭台が並んでいるところは昔と変わらない。
上座は父の席で、斜め右に兄が、その向かいに母が座った。母の隣が聖女の席だ。長い長い机なのに、なぜかその三分の一も使わない。それがおかしくて、一度だけ遠くの席に座った。しかし、会話をするたびに声を張り上げなくてはならなくて、結局元の位置に戻ったのだ。
一度ナイフを落として傷つけた床。その傷がうっすらと残っている。
(ここは、グランツ家だ)
なぜ、今まで気づかなかったのだろう。聖女になってすぐ屋敷を出た。各地を回っているあいだにすっかり忘れてしまったのだろうか。
五年間暮した部屋だって、昔とほとんど変わっていなかった。
食堂の奥にある厨房の扉を押し開ける。
扉の開く音に気づいて、仕込み途中の男が顔を上げた。
「へっ!? お、お嬢様……!?」
オッターが抜けた声で言った。聖女の記憶の中のオッターは少年だ。しかし、聖女が屋敷を出てもう十数年が経つ。彼はもう立派な大人になっていた。少し伸びた無精髭と清潔感のある白い制服の相性は悪い。
聖女はただ、オッターを見つめた。
「ど、どういたしました?」
彼は困ったように言った。
「どうして私がお嬢様だってわかるの?」
「そりゃあ……。よく、似ていらっしゃいますから」
ガラス戸に映し出された自身の姿を見る。そう、よく似ている。聖女に。
それは、魂の記憶がどうとか、そういう理由を小難しく考えていた。そうではないのだろう。
(私は兄様と義姉様の娘に生まれ変わったということか)
生前、義姉が撫でていた腹を思い出す。
「ねえ、他には人はいないの?」
「仕事がありませんしね」
聖女は厨房の端に置いてあった椅子に座った。
「ねえ、お腹が空いたの」
「朝食は足りませんでしたか?」
聖女は彼の質問には答えない。
「パンケーキが食べたいわ」
「……わかりました。お部屋でお待ちください」
オッターの言葉に聖女は頷かなかった。ただ、厨房の端で彼の作業を見つめる。最初は彼もやりにくそうに準備をしていた。しかし、次第に料理に集中する。
姿形はだいぶ変わったが、料理と向き合うときの彼は昔と変わらない。彼は聖女の知るオッターだ。
目の前に差し出されたパンケーキは甘くて優しい香りが漂っていた。溶けたバターが白い皿に滑っていく。
義姉と食べたパンケーキとほとんど変わらない。聖女は顔を上げた。
「私、似ているかしら?」
「何がですか?」
「さっき言ってたでしょ。似てるって」
「ああ……。そうですね、そっくりです。聖女様と奥様に」
「どこらへんが?」
「顔形は聖女様によく似ていらっしゃる。旦那様に似たんでしょう。でも、目の色とほら、髪の色。お嬢様は記憶がないかもしれませんが、よぉく似ていらっしゃる」
聖女はよく磨かれたナイフに自身の瞳の色を映し出した。
綺麗なエメラルドグリーンだ。大好きな色だった。
パンケーキを一切れ、口に入れる。まだ熱を十分に含んだパンケーキが口の中に溶けていく。バターと一緒に舌の上を流れていった。
「……お嬢様は旦那様に会いたいんでしょう」
オッターは感傷的だ。彼は長くグランツ家に仕えている。聖女が知らない空白の五年間を彼は知っているのだ。
かわいそうにと言いたげに頭を撫でる。
聖女はパンケーキを綺麗に半分食べると、ナイフとフォークを置いた。
「おいしかった。ありがとう」
オッターに笑顔を向け、聖女は小さな体を使って厨房の扉を押し開き、食堂へと戻る。
両親の姿はもうない。
唇につくバターを舌で舐めとった。
「こちらにおいででしたか、お嬢様」
食堂を出ると、ロフが静かに立っている。邪魔をしないようにずっと、出てくるのを待っていたのだろう。
「お腹がいっぱいになったら、なんだか眠くなっちゃった」
両腕を天高く伸ばす。
分かったことがある。
(私は兄様と義姉様の娘として生まれ変わった。そして、義姉はおそらくこの世にはもういない)
ふう、と息を吐き出す。
(この五年間で何かあったに違いないわ。家族が大好きな兄様が娘の顔を見に来ないなんておかしいもの。それに、エリオットだってそう。色々調べなくちゃ)
ぎゅっと、小さな手を握り絞めた。
「お嬢様? いかがなさいましたか?」
ロフが後ろから声をかけた。聖女はくるりと振り返り、彼を見上げる。
「お嬢様じゃないわ。私は、リリアナ」
義姉が言っていた。『娘ならリリアナという名前にする』と。なら、私はリリアナだ。聖女ではなく、グランツ家の末娘であるリリアナ・グランツである。
「承知しました。リリアナお嬢様」
ロフは立ち止まると、臙脂色の絨毯に片膝をついて、深々と頭を下げた。
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