第9話 料理長
魔王と聖女の奇妙な関係が始まった。
彼は本当に数年前からこの屋敷に存在していたかのように振る舞う。周りの使用人たちもそれに関して全く不思議には思わないみたいだった。
聖女にとっては大きな誤算ではあったが、今のところ悪いことばかりではない。
第一に、関わる人の数が増えたことだ。
今まで幼いころから世話をしてくれていた侍女とほとんどの時間を過ごしていた。親子の如く。他の使用人の存在は感じるものの、積極的な接触はなかったのだ。
触れないように、関わらないようにと、みなが常に意識しているようでもあった。
唯一関わりのある侍女ですら、深くは介入しようとしない。どこか、重たい雰囲気がこの屋敷には立ちこめていた。
しかし、ロフが執事となってから、その雰囲気が少しだけ変わった気がする。
(まずは現状把握、それに尽きるよね)
聖女は固いクッキーを歯と手で半分に割った。パキンッと小気味良い音が響く。ロフは慣れた手つきで紅茶を入れていた。
「ねえ」
「いかがなさいましたか?」
「その知識はどこで身につけたの?」
ロフは首を傾げた。
「紅茶、ですか?」
「それもだけど、人間らしいというか、執事らしい振る舞いというか」
彼は完璧な執事だった。人間らしいかと言われれば、そうではない。どこか洗礼された身のこなしで、隙もない。どちらかといえば、人間離れしているように思う。
「それでしたら、『執事』と名のつく書籍を全部読みましたから」
さらりと言ってのける。印刷技術が発展した昨今、出版業界は活発になった。大衆小説から専門書まで数多くの書籍が並んでいる。知識も娯楽も本が教えてくれるのだ。
その中でも執事という題材はとりわけ人気があった。職業としても人気であり、娯楽としても需要があった。貴族の生活に憧れる庶民にとって、執事との生活を描く小説は夢の世界のようなのだ。
『執事』と名のつく小説を読む。それは途方もない作業のように思えた。
ロフの入れた紅茶を一口飲む。
「それで、何かわかった?」
ロフが来てから数日、聖女は医師にいわれたとおりおとなしく過ごしていた。その間に他の使用人に探りを入れてほしいと頼んでいたのだ。
ロフは少し考えながら言った。
「旦那様の情報を得るべく、色々な方に聞きましたが、屋敷のほとんどの方はここ数年で入れ替わっているようで、あまり詳しいことは聞けませんでした。屋敷に戻るのは数日に一回、時間は深夜で、決まった使用人が対応しているのだそうです」
「つまり、普段は外で仕事をしているのね」
「ええ、領地を回る以外にも、色々手広く商売もされているようで、お忙しいようですね」
(それじゃあ、簡単には会えないじゃない)
クッキーの端を前歯で囓る。
「旦那様にはお嬢様の他に一人息子がいらっしゃるようですよ。御年は十六才。学院の寮で暮しているようです」
「そう。じゃあ、会えるのは帰って来たときね」
父親よりも兄のほうが会いやすいし、事情を聞きやすいのではないか。そう、考えた。しかし、そんな心の内を見透かすように、ロフが続けて言う。
「お坊ちゃまは寮に入って以来、一度も屋敷に帰ってきてはいないようですね」
「嘘……! 長期休暇もわざわざ規律の厳しい寮で暮しているっていこと?」
「そういうことになりますね」
思わず、手に持っていたクッキーを落とす。食べかけのクッキーはテーブルで跳ね、床に転がった。柔らかな絨毯がクッキーを包み込む。すかさず拾い上げるロフの黒髪を呆然と見た。
「帰って来ないんじゃ仕方ないわね。でも、少しだけ見えてきたわ。お父様は忙しくてほとんど家にいない。お兄様は勉強で帰ってこない。あんまり、家族仲はよくなさそうね」
はぁ、とため息を吐く。
前世はとても家族仲の良い家庭に生まれ育った。両親は仲睦まじく、兄はとても優しかった。貴族階級の中では中程度の地位にいたが、彼らとの生活は穏やかだったのだ。
両親が他界し、兄夫婦が家督を継いだ。彼らもまた両親のように仲睦まじく穏やかで、二つの夫婦の形、家族の形は理想そのものだった。
貴族の家全てがそうではないことは知っている。政略結婚で夫婦になることが多く、家と家の繋がりが重要視され、人と人の相性は軽視されていたからだ。
前世で生きたグランツ家が特殊だったのだと、今なら分かる。
「オッター料理長曰く、『旦那様は疲れちまったのさ』だそうです」
「オッター? 今、オッターって言った!?」
聖女は叫んだ。その名はよく知っている。彼はまだ聖女が伯爵令嬢だったころから、グランツ家の料理人だった。包丁も握ったことのない少年だった彼は、皿洗いから初めて料理長になったのだ。
「ええ、オッター料理長はこの屋敷で数少ない古株だそうですよ」
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