第7話 聖女を知る男
自身を抱きかかえる男の紫の瞳を呆然と見つめる。不意を突かれた言葉に、取り繕う余裕もない。
無言は肯定を意味すると誰かが言っていた。
否定しなくてはならない。しかし、なぜか「違う」というたった数文字の言葉が喉の奥にへばりついて出てこなかった。
(誰?)
若い男だ。年のころは二十五そこそこ。年齢的に父親である可能性も否めないが、妙に友好的な態度と、『会いたかったよ、聖女』という言葉から、親子関係の確率は一割にも満たないだろう。
あまりの驚きに、思考ばかりが回る。
「大丈夫でございますか!? お嬢様!」
思考を止めたのは、慌てた様子の侍女の言葉だった。
(すっかり忘れてた。次から次へと問題ばかりだ)
頭が痛いとばかりに、小さな手を頭に当てた。
「まあっ! 頭を打ってしまわれたのでしょうか!?」
返事など聞かず早合点した侍女は、医師を呼ぶために走って行ってしまった。結局、名前も知らない男と二人、外へと取り残される。
にこにこと笑うばかりで動こうとしない男を見上げて言った。
「あなたは、誰?」
「私のことを覚えていない?」
「さっぱり」
「残念だなぁ。でも、きっとすぐに思い出せるよ。私は君の特別で、唯一無二の存在だからね」
紫の瞳の奥が笑った。
古今東西、瞳を宝石に例えることは多くあるだろう。しかし、この紫の瞳をなんと表現していいか分からない。アメジストと言ってしまうのは簡単だが、それよりも深い。
まるで、海の底にでも落とされたような感覚に、目を細めた。
「なんで私のこと、聖女なんていうの?」
「それは、君が纏う光の力がそう言っているからだよ」
「光の力?」
そんなもの、どこにもない。腕や足を見てみても、他の人間と何ら変わりはなかった。
「人間は目が悪いから見えないよ」
男はクツクツと笑う。肩が揺れ、抱きかかえられている自分の体も上下に揺れた。
まるで彼自身は人間ではないような言い方だ。
「まさか、君がこんなにちんちくりんになっているとは思わなかったよ。お陰で見つけるのに数年もかかってしまった」
長い指が愛おしそうに幼い子の頬を撫でる。
「私はあなたのこと知らないけど」
「そんなことはない。君がもう少し大きかったとき、私たちは二人きりで楽しいときを過ごしただろう? あんなに甘美な時間を忘れてしまったの?」
まるで恋人を叱るような言葉に眉を潜めた。
「いやいや。そんな甘い時間の記憶なんてないよ。覚えてない。だから教えて。あなたは誰?」
前世、聖女であったとき多くの街を旅して回った。それは街を襲った魔王の穢れを払うため。だから、多くの人に会っている。その中の一人だと言われても思い出せる気がしなかった。
唯一無二などと言うが、恋人の一人もいたことがないし、恋の一つもした覚えがないのだ。
目の前の男の妄想だろうか。
男は少し考えたあと、ゆっくり息を吐き出して笑った。
「私はロフ。わかりやすく言うのなら、君に倒された魔王……と、いったところかな」
彼の言葉を頭の中で反芻する。魔王。君に倒された魔王。魔王?
「……は?」
「あれ? わからない? 北の深い深い森の中、君は一人で私の前に現れたじゃないか。あのとき私は確信したよ。君が私の唯一無二だってことを。三日三晩続いたパーティー、二人で踊ったダンス。瞼を閉じれば今でも鮮明に思い出せるよ」
「あれはパーティじゃないし、ダンスも踊ってなんていない!」
魔王との戦いは確かに三日程続いた。深い深い闇から踊るように逃れ、彼の穢れを削り取るのに三日かかったのだ。
「よかった。覚えていたみたいだね」
顰めっ面をする聖女とは反対に、ロフは笑みを深めた。
魔王なら前世で倒したはずだ。戦いの最中、顔をしっかりと見る暇はなかった。深い闇と戦っているような感覚だったからだ。
(こんな顔だっけ?)
「それで、魔王さんは私に何のご用? 恨みを晴らしたかったのならご愁傷様。聖女はもう死んだと思うよ」
「それは、肉体の話だろう? 今はここにいる」
ロフは胸の辺りを指差す。聖女の生まれ変わりだと言いたいのだろう。
「私は感謝こそすれ、恨みなんてないよ」
「なら、何の用? 転生先まで追いかけてくるなんて、よほどのことよ」
魔王は人の世界を混沌へと落とそうとした悪人だ。聖女が彼を倒すのは道理というもの。しかし、倒された者が倒した者を恨むのもまた、道理であろう。
しかし、彼は恨んではいないと言う。
(意味わかんない)
「私の人生はつまらなかった。生涯、ただただつまらない日々を過ごすものだと思っていたんだ。けれど、君と出会ってそうではないことを知った。君と過ごした日から私に希望が満ち溢れたんだ」
「……つまり?」
「君と一緒にいれば楽しいと思った」
「まさか」
「そう、そのまさか。君と一緒にいるために、この数年で人間のことをたくさん勉強したよ。この服を着ていれば君の側にいられる。そうだろう?」
ロフは屈託のない笑顔で言う。彼が身に纏うのは、執事服だった。
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