第6話 お転婆
聖女がまだ伯爵令嬢だったころ、カーテンとシーツをつなげたロープで二階の部屋の窓から降りたことがある。あのときは、読んでいた本の主人公がその方法で逃げていて、試したくなったからだ。
家族仲は良く、外から鍵が締められることなどなかった。あのときは本当に好奇心からの行いだったが、今は違う。
けれど、わくわくしていた。
まだ小さな手でシーツを剥がし、カーテンの先に結んだ。
長さが足りない。
窓の外に垂れる布のロープを見下ろしながら、唸った。
一階の窓の上枠くらいまでしか届いていない。そこからなら飛んでも支障はなさそうだったが、この身体はまだ五才。痛い思いは極力避けたいと思った。
考えた末に天蓋を破いてつなげる。薄手の生地なので少々強度に不安はあったが、ないよりはましだろう。窓の下は土だから、途中で落ちても痛いだけで済みそうだ。
と、言うのも、前世で試したとき、見事に途中で落ちたのだ。そのときは近くにいた兄が大慌てで駆け寄り、大事になったのを覚えている。打ったのはお尻だったのに、医師に全身くまなく調べられた。
大した怪我ではなかったのに、三日ほどベッドから出してもらえなかったのは今となってはいい思い出だ。
家族からは「窓からこっそり逃げたいようなことがあったのか」と、心配された。ただの好奇心だったことを知ると、彼らは懇々とそれが危ないことだと叱るのだ。
(あのときは兄様が一番怖かった)
穏やかで優しい兄が、ただ静かに怒っていた。怒鳴られたわけではない。しかし、ぶつける先がない怒りをまとう兄は本当に怖かったのだ。
(もうしないと約束したけど、生まれ変わったなら時効だよね)
今回は叱るような人も見当たらないので大丈夫だろう。生まれて五年、家族にあたる人物を見たことはない。
地面まで届いたロープを見下ろしながら笑った。
(とりあえず、父親を探すところからね)
自身が何者かを知るためには、父親を知る必要がある。毎日世話をしてくれる侍女は多くを語らない。時々見かける使用人たちも極めて勤勉で、無駄口が少ないのだ。彼らの会話から手に入られる情報は少ない。
彼らの雇用主は父親だろう。娘がどんなに会いたいとわがままを言っても、父親が首を横に振れば、使用人たちはどんな手を使ってでも小さな子どもを部屋という檻の中に閉じ込めておくに違いない。
もっと気長に調べることも考えなくはなかった。けれど、せっかくの人生がこの小さな箱の中で過ぎていくのはなんだか悔しくて。
布でできたロープにしがみつく。
カーテンを止めていた枠がミシッと音を立てた。
外壁で足を支え、両手はロープを握りしめる。部屋にこもってばかりの腕は、すぐにプルプルと震えた。
重力を感じる。遠い遠い地面が、早く来いと引っ張っているようだ。
少しずつ、確実に。
ロープはゆらゆらと揺れて邪魔をする。息をするのも忘れていた。
しかし、予期せぬ事態が起きた。窓の奥、部屋の中から扉を叩く音が響く。規則正しく三回。コンコンコンと鳴った。続いて扉が開く音が聞こえる。
「お嬢様……? お嬢様っ!?」
聞き慣れた声よりも僅かに高くて大きな声が降ってきた。
一階の窓の上枠に足がつくかつかないかというところに声をかけられ、バランスを崩す。左右に体が大きく揺れた。
見つかるのが早すぎた。言い訳が思いつかず、ゆっくりと見上げる。
「大丈夫ですからね。そのまま手を離してはなりませんよ。すぐに人を呼びますから」
侍女はそう叫ぶと、部屋を飛び出した。遠くで「誰かー!」と叫ぶ声が聞こえる。
(まずいなぁ……)
こっそり父親を探すつもりだったのだ。それどころではなくなってしまった。
ふわりと風が吹く。前髪が揺れた。気持ちのいい風だと目を細めると同時に、布でできたロープが風に煽られる。
「わっ!」
風はそれほど強いわけではない。しかし、五才の子どもの体は軽く、風の影響も受けやすいのだろうか。
壁で支えていた足が離れる。
重力が一気に手のひらに集中した。
引きこもりの子どもに腕力があるわけがない。そう、そのことに気づいたのは、ロープから手が離れた後だった。
耳の奥に「キャー」という甲高い声を聞き、思わず目をかたく瞑った。条件反射だったように思う。
地面は柔らかい土。受け身を取れば、大怪我はしないはずだ。思ったよりも長い滞空時間の中で考える。
背中に小さな衝撃を感じた。しかし、それは想像よりも遥かに弱い。
驚いて目を見開いた。
「間一髪だったね」
目の前で、美しい黒の髪がゆらり、と風に靡いた。深い紫の瞳に幼い子どもの姿が映る。
二度、三度目を瞬かせた。
思ったよりも衝撃が小さかったのは、想像以上に土が柔らかかったからではない。黒髪の男が、抱き止めたからだ。
黒の執事服を見に纏った男は、やわらかな笑みを浮かべた。
「会いたかったよ、聖女」
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