第4話 聖女の力
侍女は柔やかに笑う。笑うだけだ。まるでそういう人形のように、頬の肉を持ち上げ、上瞼と下瞼を可能な限り近づけている。そんな彼女に事情を聞こうと思ったが、口からは「あ」や「う」としか言葉が紡げなかった。
侍女は時間をかけてあやすと、聖女の身体をベッドに戻し去って行った。
(困ったな……)
それでも冷静でいられたのは、今までの経験ゆえかもしれない。聖女として各地を一人で廻り、聖女として魔王と対峙することになった過去。世界の人の命を背負った経験は何よりも大きい。
(まず、考えるべきは、私が何者かってことよね)
自身が今は聖女であるのか、それとも聖女ではないのか。それがわからない。今の固有名詞はなんだろうかと、考える。
あらゆる事柄を洗い出した結果、三つの可能性に至った。
(一つは、なんらかの力が加わって、私の体だけが赤子に戻った)
魔王の『穢れ』の力、聖女には『癒し』の力があるように、体の成長を逆行させる力を持つ者が存在してもおかしくはない。
毒だと思った物が引き金になっている可能性もある。
しかし、そうならば、目を覚ましても家族が顔を見せないのはおかしいようにも思う。兄や義姉ならば、目を覚ました途端に飛んでくるだろう。
(もう一つは、記憶を持ったまま生まれ変わった……とかね)
聖女という特異な体質のため、前世の記憶を残して生まれてもおかしくはないと考えた。そういう不思議な現象は稀に、物語として聞くことがある。子どもが知るはずのない記憶を持っているというものだ。その場合、幼少期のうちに記憶がなくなることも多いのだとか。
(最後の一つは、人生をやり直している)
同じ生をやり直している可能性である。昔、聞いたことがあった。母は産後の巣立ちが悪く、
数年寝たきりで、父はそのころ伯爵の地位を継いだばかりで色々なところに走り回り、生まれた娘の世話のほとんどを侍女にまかせていたと。
なんとなく、この部屋は懐かしさを感じる。
目を凝らしながら、まだ視力の戻らない目で天井の模様を追った。
もしも、人生をやり直しているのならば、またあの悪夢が始まるのだろうか。――魔王の『穢れ』が産んだ奇病、聖女として駆け回った日々、両親の死。
ただ、目を瞑った。期待しているわけではないが、期待してしまう。やり直せるならば、次は失敗などしないと、強く思えるからだ。
(とにかく今は早く成長しないと。だって……)
赤子ゆえか、考えているだけで眠くなる。大きなあくびが溢れた。
言葉も話せない、行動も難しい赤子では現状把握もできやしない。聖女は侍女に迷惑をかけないように、穏やかな赤子を演じ続けた。
時は流れ、五才にまで成長した聖女は、鏡に映る自身の姿をまじまじと見つめる。
「正しく……。昔の私そっくり」
まとまりの悪い巻き毛といい、よく「生意気そうだ」と形容された吊り気味の目。鼻は少し低く感じるが、それはまだ幼い子どもだからだろう。
侍女にわがままを言って用意してもらった大きな鏡に写る姿は、記憶に近いものだった。少しばかり違う気もするが、幼いころの自分の姿など、そうまじまじと見てきたわけでもない。
おそらく、聖女のものだと思われた。
聖女はそれを確かめるべく鏡から数歩離れ、右手をまっすぐ伸ばす。ゆっくりと息を吸った。
鏡の中の幼子と見つめ合う。
「癒しの光よ、我に力を与え給え」
呪文が身体を巡っていく感覚。身体中に光が満ちる。伸ばした手に小さな光が宿った。
懐かしく、暖かい光だ。
「聖女(わたし)だ」
しかし、どこか違和感を覚える。聖女であって、聖女ではないような。その違和感の正体がわからず、呼吸を忘れて鏡の中の自身を見つめた。
ふうと、息を吐きき切る前に、コンコンコンと扉が叩かれた。慌てて、手の中の光を払い鏡についた、手の跡をスカートの裾で乱暴に拭う。
「お嬢様、朝食のお時間ですよ」
入ってきたのは、侍女だった。赤子のころから世話をしてくれている彼女は、食事を乗せたトレイを見せた。
「はーい」
聖女は子どもらしい返事で返すと、テーブルに走る。
なぜか、食事は部屋で摂る。食堂には行ったことがなかった。いつも一人で食べる食事は味気ない。
一日の行動はいつも同じ。朝食を摂り、少しの勉強と本を読んで過ごしたのちに、昼食を摂る。庭で遊んだ後はすぐに部屋に戻り、昼寝をする。起きて暇を持て余しているころに、夕食が運ばれる。
その間、会うのは数名の使用人のみ。家族は誰も会いにはこないのだ。
(なんか、おかしい)
だから、そろそろ行動に移してもいいと思った。大人には程遠いが、自分の足で歩くこともできる。こちらには、二十五年とプラス五年分の経験もあるのだ。
大人は子どものおねだりに弱い。ウルウルとした瞳で見上げられたら、どんなに固い意志もふにゃふにゃになるだろう。
聖女は小さな手で侍女のスカートの布を引いた。
「あのね……。私、お母様に会いたいの」
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