第3話 新しい命
聖女は生まれたころから聖女だったわけではない。普通の伯爵家の末娘だった。魔王が世界を襲い、『穢れ』で人々を苦しめるまでは。
彼女が十五のころ、世界各地で謎の奇病が流行った。少しずつ黒が浸食し、死に至る不治の病だ。その病が魔王によるものだと発表されたのはその病がじわじわと広がっている最中であった。
深い森を隔てた北側には、魔王と呼ばれる者が統治する地がある。そこは、極寒の地で人間の食べる作物は育たない。魔王はそこを縄張りとし、魔族と呼ばれる者たちが暮していた。深い森が境界となり、人間と魔族はけっして交わらなかったのだ。
長い年月、その二つの種族は均衡を保っていた。森に人が入ることは許されず、そして心得たように、魔族は森の外に出ることはない。
しかし、その均衡はいとも簡単に破られた。
魔王は卑劣だった。“病”という形で、世界を侵略しようとしたのだ。
聖女が“聖女”となったのは、その病がもっと広がり、南の国の王都まで浸食したころだ。彼女は十七になっていた。屋敷に住む、使用人の一人が病にかかった。
隔離をしたところで、その病は浸食する。一人、また一人と。死の恐怖に怯えながらも、どうすることもできなかった。名もなき神に祈りを捧げる。しかし、現状は変わらなかった。
死を待つだけの使用人は、ただの伯爵令嬢を幼いころから見守ってきた女だった。令嬢はその病の浸食を恐れず、女の世話を続けた。ある晩のことだ、令嬢の手に優しい光が宿る。
黒く染まっていた女の腕が、人の色を取り戻す。願いが聞き届けられたかのように、それはゆっくりと。しかし、確実に浸食していた絶望が希望に変わっていった。
その日から、令嬢は“聖女”へと変貌したのだ。
自身の過去を反芻しながら、聖女はゆっくりと、両手の感覚を確かめる。開いて、閉じて。ぎこちなくはあるが、できている気がする。
義姉が来てからどのくらい時間が経っただろうか。時間感覚が狂ってしまった。声を上げたが、言葉にはならない。目を開ければ人影がある気はしたが、視界がぼやけている。
――毒。その一文字が頭を過った。聖女を恨む誰かが毒を仕込んだに違いない。恐らく、フルーツジュースだろう。毒を仕込むタイミングは沢山あった。聖女は義姉が一口も口をつけていないことに安堵する。
また家族を失うところだったのだ。それを回避できただけでもよかった。
ならば、現在聖女は王宮にある医院か、実家であるグランツ家の屋敷にいる可能性が高い。身体は動かないし、感覚は鈍いがこうして生きているのだから、犯人は聖女を殺し損ねたのだろう。
(まずは身体を回復することを優先させなきゃ)
それから何日も、何ヶ月も聖女はただ、身体の自由が利くようになるのを静かに待った。
最初はうっすらと感じる光と闇で日を数えてはいたが、途中で飽きてしまい、結局どのくらいの時間が経過したのかはわからない。ただ、途方もない月日をかけてしまったような気がする。
ぼやけた視界が定まってきたころ、聖女はゆっくりと、周囲を見渡した。相変わらず身体は思うように動かない。眼球だけ彷徨わせると、一人の侍女と目が合った。
紺色のメイド服に身を包んだ女性は柔やかな笑みを張り付かせると、ゆっくりと、聖女に向かって手を伸ばす。彼女がずっと毒に侵された聖女の世話をしてくれていたのだろう。時折与えてくれていた甘くて暖かな液体状の食事を思い出す。
感謝の言葉を伝えたいのに、聖女の口からは「あう……」という弱々しい声しか出なかった。
長く声を出せずにいたため、身体が声の出し方を忘れたのだろうか。そう、考えていると、侍女が聖女の身体を起こした。いや、彼女は聖女の身体を抱き上げたのだ。
(えっ!? どういうこと!?)
何が起っているのか分からなかった。聖女は二十五才の大の大人である。同じ大人の身体を簡単に抱き上げられるだろうか。これが屈強な戦士ならばその驚きは半減しただろう。しかし、目の前で聖女を抱き上げているのは腕の細い女なのだ。
驚きに思わず上げた自分の腕を見て、聖女は目を丸くした。その身体が、想像しているものとは違っていた。
小さな紅葉のような手。腕は短い変わりに柔らかそうだった。その見た目には見覚えがある。――甥のエリオットが生まれたころにそっくりなのだ。
「お嬢様、今日は一段とお元気でいらっしゃいますね」
侍女は身体全体を揺らす。不安定な乗り物が左右に揺れるような感覚に、目眩がした。
(つまり、つまりよ……?)
言葉はうまく口からは出ない。しかし、脳は少しずつ聖女の言葉を処理し始めていた。
(赤子になってしまったってことで、あってる?)
ただただ笑みを見せる侍女に心の中で問いかけた。
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