第2話 結婚の噂
義姉は少し困ったような顔を見せながら、頷いた。聖女が魔王を倒し、帰還したのは五ヶ月前。国王は聖女に王宮の一室を与えた。王都内に実家であるグランツ家の屋敷はあったので、すぐにでも帰りたかったのだが、民が殺到すれば大変なことになると諭され、王宮の一室に残った。
それから、帰る機会を探しているのだが、何かと理由をつけては帰ることを阻止される。残処理が多くあるからと、意味の分からない書類に目を通させられたこともあった。
そんな日々が続いたある日。いや、つい数日前。国王は皺を刻んだ頬を撫で擦りながら、聖女に言ったのだ。
『我が息子と結婚を』
聖女はあの日のことを思いだしながら、肩を揺らして笑った。
「しないわよ、結婚なんて」
聖女はきっぱりと言って、フルーツジュースを一気に喉へと流し込んだ。
「そう……、なの? もう、町中、みんなが決まったことのように言うのよ? 昨日だって『おめでとう』って言われて、なんて返して良いかわからなかったわ」
「結婚するつもりがあるなら、兄様や義姉様にすぐに相談するもの。相談する必要もないと思ったから言わなかったの。だって、相手はまだ十八才よ?」
「王族なら、早くはない年齢よ。隣国の第三王子は十二才で正妻を迎えたと聞いたわ」
「それは、国としてそうするしかなかったのよ。でも、ここは違う。そもそも、七才も年下の子と結婚なんて考えられないし、何より私が王族の一員になるなんて想像もできないわ」
世界は広い。七才年上の女を妻にもらう王子など、探せば一人や二人みつかるだろう。しかし、当事者になれば別だ。
現在の肩書きは“聖女”であり、“グランツ聖公爵家の令嬢”だ。しかし、この肩書きは生まれてすぐに得たものではない。数年前まではただの伯爵令嬢だったのだ。誇りも責任も持つ程の時間は経っていなかった。
「あなたなら、王妃だって簡単にこなしてしまいそうだけれど」
「いやよ。私には荷が重いし、聖女としての役割は終えたわけでしょう? 私は世界のために身を粉にして頑張ったわ。世界が平和な今、ゆっくりしたいの。王妃と名を変えて表舞台に立ったらずっと聖女をやるようなものでしょう? 目立ちたがりやでもないしね」
聖女は肩を竦めた。義姉はクスクスと小さく肩を揺らして笑う。
「あなたの好きなようにすればいいと思う。だって、あなたは頑張ったもの。休暇は必要よね。それに、姉としても、妹には好きな人と結婚してもらいたいわ」
「私は結婚なんて別にいいけどね。もう二十五才だし」
二十五才と言えば、この国では今期を少しばかり逃した頃合いだ。みな、二十前後で結婚ないし、婚約者ができる。『売れ残り』というラベルをつけられるのは少しばかり不服だが、世間一般で言うところの『売れ残り』だった。聖女として世界を救うためだという言い訳をすれば誰もが理解を示してくれるため、今のところ派手なラベルはつけられずに済んではいるが、一年もすれば、『売れ残り』のラベルは容赦なく貼られるだろう。
結婚に焦っているならば、七才年下の王子との結婚も二つ返事で承知したかもしれない。しかし、聖女は達観していた。多くの苦しみを乗り越えてきたのだ。『売れ残り』のラベルなど、ただの符号に過ぎない。聖女にとってあまり重要な事案ではなかった。
「王族の皆様が納得してくれるといいのだけれど……」
義姉は自分のことのように眉を寄せ悩む。彼女の心配は聖女も考えたことだ。世界を救った聖女の名声を利用したい者は多い。王妃にしてしまうのが手っ取り早いと考えること自体、おかしくはなかった。
そうでなければ、七つも年上の女を第一王子の妃にはしないだろう。
「だから、ほとぼりが冷めるまで逃げようと思って」
聖女は悪びれもせず言った。義姉は目を丸くする。綺麗なエメラルドの瞳が少し、寂しさの色を帯びる。
「まだしっかりとは考えてないけど、この子の顔を拝んだら旅に出ようと思ってるよ。……そんな顔しないで。そのうち帰って来るつもりよ? ここ数年で色んな人に世話になったわ。そのお礼行脚でもしようかと思ってるの。面倒な結婚からも逃げられるし、悪くない計画でしょう?」
「ルーカスもエリオットもきっとさみしがるわ。でも、それが一番よね。それなら……今すぐにでも雲隠れしたほうがいいのではないの?」
「それはそうなんだけど、やっぱり新しく生まれる可愛い甥っ子か姪っ子の姿を数年間お預けなんて絶対無理よ! あと数ヶ月はのらりくらりとはぐらかしていくから大丈夫」
聖女にとって、義姉の子の顔を拝むことは何よりも重要だった。たとえ、面倒なことが降りかかっても、それだけは譲れない。
「この子もきっと早くあなたに会いたがっているわ」
「楽しみ。男の子かな。女の子かな。どっちでも絶対可愛いよね。ねぇ、名前は考えているの?」
「ええ、女の子ならね、『リリアナ』にしようと思っているのよ」
「百合?」
「そう、百合の花のように素敵な女性になってほしいの」
「素敵な名前。兄様に似ても義姉様に似ても絶対美人になると思う」
兄は優しい性格をそのまま写したように、穏やかで優しい顔立ちだ。整った容姿はどこか冷たさを感じる場合もたるのだが、彼は違った。春の日差しのようなあたたかさを感じるのだ。
義姉もまた、人柄通りの見た目だった。真っ白な肌と、優しげな目尻。儚げな見た目は、庇護欲をそそるという言葉がよく似合う。
そんな二人は誰が見てもお似合いの夫婦だ。
聖女にとって、兄夫婦は自慢だった。聖女は頷きながら、パウンドケーキに手を伸ばす。しかし、掴む前に目の前が揺れた。
「じゃあ、おと――」
口から出た言葉は言葉として口から出ただろうか。「男の子だったら?」と聞きたかったのだ。しかし、腹の中から熱が這い上がってくるような感覚に声がでない。義姉の叫び声が耳に届いた。
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