第1話 乙女を誘うはいつも兎

 そもそもの始まりもお姫先輩だった。きっと彼女にとっては日常の一欠片。だけど、ボクにとっては非日常の始まりだった。


 ――――――――――――――――――――

 部屋を満たす、仄かに苦い香り。僕はドキドキしながら、それを胸いっぱいに吸い込み、目を閉じる。穏やかな朝。きっと今日も素敵な――。


「おはようキツネさん!失恋したって聴きましたけど大丈夫ですか?元気出して!」」

 目を開けると、こちらを覗き込む同級生の本影もとかげヤチ、通称トカゲちゃん。

 心配そうな口調とは裏腹に丸眼鏡の奥の瞳は楽しそうにキラキラしていた。

「心配するふりして面白がってるじゃん!まだ失恋はしてないっ!……デートに失敗しただけ」


「またそんな強がり言って。『失恋の痛みをコーヒーの苦みで誤魔化す』とか何とか騒いでたくせに」

 冷めた声に振り向くと、水卜みうらみつるさんがさっぱりした顔で立っていた。顔を洗ってきたのか、前髪が少し濡れている。

「おはようございます、ミツルさん。また研究室で寝てたんですか?眼鏡つけたままで。赤く跡がついてますよ」

「おはよ、トカゲちゃん。ついついね。また教授に怒られちゃうな、内緒にしといて」

「えー、教授なら眼鏡を見てすぐ気づきますよ」


「そうですね。トカゲちゃんの言う通り、すぐにわかります。眼鏡は人を映しますから」

 扉が開き、ふわっと風が流れ込む。サッと眼鏡をただすトカゲちゃんにつられて、ボクも伊達眼鏡をかけ直す。

「おはようございます。みなさん、本日も素敵な眼鏡ですね」

「げっ、教授」

「何が『げ』ですか。眼鏡をないがしろにしているようでは今年も単位あげませんよ」


 灰崎知尋。ボクらの所属するゼミの担当教授。この大学最年少の教授というエリートでかつ、この大学一の眼鏡好き。きっと眼鏡フェチではなくて、眼鏡オタクもとい、眼鏡“Geek”なのだと思う。好きが極まって知識がすごい。彼女ほど眼鏡愛の深い人をボクは知らないし、彼女の前では誰も眼鏡をぞんざいに扱うことは赦されない。


「ミツルさん、また留年しちゃいますね」

「えぇ、今年卒業できないと退学なんだよ。ご慈悲を、教授ーー」


「うひひひ、ミツルさん変わんないね」

 聴き慣れない明るい声。パッと目が覚めたような気がした。

「お久しぶり〜!みんなのお姫だよー」

 教授の後ろから見慣れない女性がぴょこっと顔をのぞかせる。肩の上くらいで切り揃えられた艶のある黒髪。左右のこめかみ辺りから伸びるひと房は、ピンクでパンクなポイントカラー。目元にもピンクのハートが派手に入っている。……たぶんタトゥーシール。本物のタトゥーということはないだろう。

 そして、何より目を引くのが、ウサ耳カチューシャ。……ウサ耳カチューシャ?!どう考えても、日本人成人女性が日常的に被るものではないと思う。それとも、この人だけ毎日ハロウィンでもやってんのか?


「あー、初めましての人もいるっぽいな。

 えぇっと、ここの卒業生の卯ノ花美月です!お姫って呼ばれてます、可愛いので。よろしくね☆」

 ヤバイ女の人だった。ただ、明るく話す彼女の姿を見ていると、胸の奥で鈴が揺れるような気持ちになった。

「何?キミ、オレのこと見過ぎじゃない?」

 ガンつけられた!というか、一人称「オレ」なの?!ロックすぎる。

「何とかいいなよ。……あ、ひょっとして、オレのこと好きになっちゃった?」

「えっ、あっ、いやっ、別にそんなんじゃないっす!」

 そんなつもりなかったのに、なぜか声が裏返った。頬がポッと染まるのが分かった。別に惚れたわけじゃなかったのに。一目惚れなんてしてないのに。


「ひひひ、しょうがないにゃあ。今度デートしてやるから、今日はこれで満足してな☆」

 教科書みたいな投げキッスをする彼女。漫画なら間違いなくハートがついてるヤツ。でも、わざとらしくないスマートな投げキッス。

「いや、その、へへへ、ホントに、別に……」

 生暖かい視線を向ける周りのゼミ生。灰崎教授の小さなため息も聴こえた気がした。それでも、ボクは愛想笑いをしながら、モゴモゴつぶやくことしかできなかった。

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