あたたかい

 トンネルを抜け、車窓から差し込む太陽の光に思わず目をつむる。

 私の体に光が当たって、ほのかに熱を持つ。あたたかい。

 二人掛けのボックスシート、車窓の手前で眠るあなたを見た。私の肩に頭を預けて、この世界のすべてを忘れたように口を半分だけ開けて、夕陽に照らされながらちょっとまぬけな寝顔を晒している。

 あたりを見渡す。私たちの家の最寄り駅に近づくにつれて、乗っている人は減っていく。立っている人も座っている人も、みんな手元の小さなスマートフォンに視線を落としていて、窓の外の世界はもちろん、私たちのことなんて誰も見ていない。

 このボックスシートは、ちょっとした私たちだけの世界。誰も見ていないし、誰も私たちに興味なんてない。それでも、私たちはここに座って、あなたは安心しきった様子で眠っていて、あたたかい光に照らされている。膝の上では、あなたと一緒に買った服と雑貨が入ったいくつもの紙袋が、電車の揺れに合わせて小さく音を立てている。

 次の駅に到着する旨のアナウンスが耳に届いて、電車が減速し始めた。みんなイヤホンをしているから、誰もこのアナウンスを聞いていないと思うけど。私だけはこのアナウンスを合図に、もう一度、隣のあなたを見る。

 そろそろ起こしてあげようかな。

 そう思った瞬間、さくらんぼ色に彩られた唇と桃色の頬が瞳に焼き付いて、なんとなく、魔が差した。太陽の光に照らされたあなたの顔が、あまりにも眩しかった。

 もう一度、さっとあたりを見回す。相変わらず、誰も私たちなんて見ていない。

 前かがみになって、あなたの顔に近づく。胸元で押しつぶされた紙袋が、がさごそと抗議の音をあげる。

 そっと、さりげなく、でも素早く、無防備なあなたの唇を奪ってみた。

 ほんの少し触れただけ。あたたかくて、やわらかい。たぶん、半開きで、ちょうどキスする時みたいな唇になっていたから。さっき貸してあげたリップがわずかに私の唇に移って余韻を残す。

「ん、ぅ」

 あなたが声をあげて顔を動かすと、急に電車の音が大きくなったように感じた。

 キスなんてもう何度もしたはずなのに、なぜか、急に胸にこみ上げる恥ずかしさのような感情に、頬が熱くなった。何度もまわりを見る。もちろん、誰にも見られていない。大丈夫。きっと。いや、見られていても別にいいけど。でも、なんか恥ずかしい。

 まだ眠たげな眼をこすりながら、あなたが言う。

「ねぇ、今キスした?」

「はっ、なんで?」

 まさかあなたにまでバレていないとは思わなくて、咄嗟に出した声が裏返る。

「夢かなあ、なんかすごい柔らかくて、いい匂いがして、ふぁ」

 大きな伸びをしてから、ふにゃりと顔をほころばせる。

「あたたかくて、幸せだった、えへ」

「なにそれ」

 電車がホームに滑り込んでいく。夕陽は建物の向こうに沈んで、世界が少しずつ紺色に染まっていく。

 私は膝の上で崩れかけていた紙袋を持ち直して立ち上がった。

「さ、スーパー寄ってさっさと帰ろ」

 言いながら手を差し出す。私の手を取ったあなたも立ち上がり、二人だけの世界だったボックスシートを後にする。すぐ近くに立っていたスーツ姿の人が何も無かったかのように私たちの後に座り、束の間の空間にさよならを告げる。

「私シチュ―食べたい」

「えっ、おととい食べたじゃん」

「いいじゃん、シチュー」

「ん-、じゃあ今日はビーフシチューかな」

 ドアが開いて、冬の空気に体が晒される。

 それでも、左手につないだあなたの手は、あたたかい。

「ね」

 ホームの階段まで歩いている途中、不意にあなたが私を呼ぶ。私がその声の元へ顔を向けた一瞬を、あなたは見逃さなかった。

 私の腕をぐいと引いて、ちょっとだけ背伸びをして、それでも確実に、私の唇が奪われる。さっきよりもずっと深いキスで、あなたの心の中にひっそりと眠っていたものが、私の心の奥の深いところまで瞬く間に染み込んでいく。

 唇が離れる瞬間の湿った音が微かに、多分私たちの耳にだけ聞こえた。一秒も触れ合っていなかったはずなのに、これ以上受け取りきれないくらいの幸福と、飲み込みきれないくらいの甘い愛情が溢れて息が詰まる。心臓がどくどくと脈を打って、耳が熱くなった。

「さっきの仕返し」

 いたずらっぽく笑うあなたの顔も赤くなっている。

「バカ」

 私が言うと、あなたは勝ち誇ったように鼻歌を歌いながらつないだ手を振った。

 あたたかい。つないだあなたの手のひらも、あなたと一緒に買った服も雑貨も、唇も。全部、あたたかい。

 二人の世界は、いつでもきっと、ここにある。

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