第4章『マロと元少年』

第4章『マロと元少年』(1)

 もはや、どこが痛いのか分からない。

 まことはただ、『それ』が終わるのをじっと待っていた。

 腹に蹴りが入り、声が漏れる。そうするとあいつはさらに苛立ちを募らせ、髪を掴まれる。そしてご丁寧にもできるだけ硬そうな家具を選んで、僕の顔を叩きつける。

 今日は本棚か。あれ、凸凹してて痛いんだよな。ぶつかる瞬間、色褪せた育児書が目に入り、笑ってしまいそうになる。どんな本を読んだらこんな教育方針になるんだよ。

 あまり激しく何度もぶつけるので、本が飛び出して降ってくるんじゃないかと心配になった。でも、それも悪くないかも。あいつの頭にでも当たってくれれば傑作だ。

 身体が横に吹っ飛んだ。遅れて肩の痛みに気付き、蹴飛ばされたことを理解する。僕は転がり、壁にぶつかる。飽きたのか、満足したのか、ようやく『それ』は終わり、あいつは食卓についた。

 それを見計らって、母親が夕飯を運んで来る。僕には視線のひとつも寄越さない。

 僕は四つん這いになって、顔を押さえた。生温かいもので手が濡れる感触がした。鼻か? 口か? どっちも痛くてよく分からないけど、早く洗わなくちゃ。制服を汚すと面倒だ。

 僕は立ち上がって、


 あれ? 身体が思うように動かない。

 僕は今、どうなっている?

 早く立たなきゃいけないのに。

 大丈夫、大丈夫、落ち着いて。

 息を吸って、吐いて、深呼吸。

 あれ? 吸ってる? 吐いてる?

 分からない、わからない。


 記憶の閃光が頭の中を駆け巡り、視界を白く染めていく。

 音が、消える。


「令、令!」

 誰かが僕を呼んでいる。冷静な振りをしているが、どこか緊張した声だ。

 次第に視界が鮮明になっていく。目を開けたのか、ずっと開いていたのかはよく分からない。

 二つの頭が被さるように僕を見下ろしている。逆光で顔は見えないが、誰だか察しはつく。父親面した監督と、兄貴面したマネージャーだろう。

「令、大丈夫か」那須が言った。君、そんな優しい声、出せたんだっけ。

「まぶしい」

 掠れた声で神谷が言うと、岩澤監督が後方に向かって怒鳴り声を上げた。「おいふざけんな! 照明落とせ!」

「はは、過保護」スタジオの照明は、少し落ち着いた明るさになった。

 身体を起こしたかったが、まだ上手く力が入らない。だが、少しずつ感覚は戻ってきている。

 呼吸は荒く、胸が上下している。視線を動かす度に頭がグラグラする。落ち着こう思って深く息を吸い込むと、不快な刺激臭が鼻を衝いた。そういえば、喉の奥に酸味が残っている。

「ああ、俺、吐いたね。ごめんなさい。セットとか、衣装とか」その声はか細く震えていて、自分のことなのに動揺する。

「そんなの気にすんな。これを責めたら人間じゃねえ」普段怒鳴ってばかりの監督は、穏やかな声で言った。

「すみません、神谷を少し休ませてもいいですか」那須が監督に尋ねる。

「構いやしねえよ。どうせその衣装じゃ今日はもう撮れねえから、落ち着いたら連れて帰れ」

 ありがとうございます、と監督に礼を言い、那須は神谷の顔を心配そうに覗き込んだ。「令、楽屋で休もう。動けるか?」

「無理。おぶって」

「嫌だよ。おまえ汚いし」

 頭を持ち上げて自分の状態を確認すると、衣装の学ランは、血糊と吐瀉物と、多分誰かが飲ませようとしてくれた水で、べしゃべしゃになっていた。

「この薄情者」

「なんだよ、元気そうじゃん」


 涎が垂れる感触がして、目が覚めた。反射的に吸い込んだが、間に合ったのだろうか。起き上がって顔のあった辺りを確かめてみるが、それらしい跡は見当たらない。

「痛てて」ソファで眠ったせいだろう、全身が凝り固まっている。神谷は座ったまま、両腕をぐっと上に伸ばし、上体を左右に反らした。

 何してたんだっけ。と寝ぼけた頭で周囲を見回すと、見慣れた楽屋の風景があった。

 そうだ、倒れたんだった。意識が朦朧としていたのでよく思い出せないが、随分と迷惑をかけてしまった気がする。

 撮影はどうなったのか。どれくらい眠っていたのか。いつの間に着替えたのか。疑問は尽きないが、吐き気も一緒に思い出しそうな気がして考えるのをやめた。

 とりあえずお茶でも淹れようかと立ち上がった時、入口のドアが音を立てずにゆっくりと開くのが視界に入った。隙間から、黒縁眼鏡の男が顔を出す。

「おっ。なんだ、起きたのか」神谷と目が合い、那須はほっとしたような顔になった。「顔色、良くなったな。もう大丈夫そうか?」

「まあね」神谷は壁際のテーブルに置かれたお茶セットの方に歩き、緑茶のティーバッグに手を伸ばした。

「ああ、俺がやるよ。おまえは座っとけ」

那須がそう言い、神谷はつい笑ってしまう。「今日はみんな過保護だ」

「過保護にもなるだろ。どんだけ心配したと思ってんだ、あんなぶっ倒れ方しやがって」

 那須は神谷をソファまで押し戻し、手際良くお茶を淹れてくれる。急須と湯呑みを乗せたお盆を、側のローテーブルに運んで来た。

「ねえ。オレ、どうなったの?」神谷は恐る恐る尋ねた。

「覚えてないのかよ」

「何がなんだか分からなかった」

「急にガタガタ震え始めたと思ったら、過呼吸起こして、吐いた。それだけ」那須は気を遣わせないためか、事もなげに言う。

「ほんとに?」

「なんで」

「なんか、喉に違和感。顔も浮腫んでるし」

「ああ」那須は、楽屋の隅に置いてある自分の荷物の方に歩いて行った。「おまえ、泣きながら叫んでたから」鞄から何かを取り出し、神谷の方へ戻って来る。「さすがは舞台もこなす俳優の声量だ。五月蝿くて大変だったぞ」

 那須は神谷の隣にどさりと腰を落としながら、手に握っていた物を差し出した。神谷の愛用している喉飴だ。

「やめてよ」神谷はそれを受け取り、袋を開けて口の中に放り込んだ。苦くて甘くて薬臭い、お世辞にも美味しいとは言えない味が口の中に広がる。「やだなあ、恥ずかしい」

「べつに、よくあることだろ」那須は急須を手に取り、湯呑みにお茶を注ぎながら言った。ちゃっかり自分の分も淹れている。

「よくあってたまるもんか。オレはこんなの初めてだよ」

「初めてではないだろ」

「え?」神谷は那須の顔を見た。誰かと勘違いしているのではないか。全く心当たりがない。

「なんだよ本当に覚えてないのか?」那須は眉を顰めた。「朝ドラの時だよ」

「朝ドラって、『ファンファーレ!』?」

「それしかないだろ」

『ファンファーレ!』は神谷が子役時代にヒロインの弟役で出演した、毎平日の朝に十五分の短い枠で放送される連続ドラマで、マーチング部に青春を捧げたヒロインの半生を描いた物語だ。神谷のデビュー作であり、神谷が当時同じく子役だった那須と初めて共演したドラマでもある。

「オレは他にも色々出てる」

「うっせえな、俺はそれしか出てないんだよ」那須は不機嫌そうに言った。「今回の『マロと元少年』みたいな常習的なDVではないけど、あれにも父親がおまえに暴力を振るうシーンがあったろ? それがきっかけで両親が離婚して引っ越すことになって、ヒロインが苦労して入った強豪校から弱小高校に転校を強いられるやつ。そん時にも過呼吸起こして倒れたんだよ。ゲロは吐いてなかったけど」

「ゲロって言うなよ」

 勢いよく捲し立てる那須に気圧されながらも、それらしき記憶の引き出しは見当たらなかった。

「オレ、あのドラマの撮影中のこと、あんま覚えてないんだよね」

「なんだよもー」那須は自分の膝をべチンと叩いた。「俺は結構ショックだったんだぞ。今でもその光景が目に焼きついてるくらいに。あの日のおまえも、やめて、とか、助けて、とか言いながら、ガタガタ震えてた」

「そっかあ」そりゃあ子供には相当ショックだったろうな、と内心同情する。「あの日のぼくは、助けてほしかったんだね」

「なんだよそれ」

「『ファンファーレ!』ってオレが小学二年生の時でしょ。まだ保護されてから日が浅かったから、実の父親と重なっちゃったんだと思う」

「保護って」那須が神妙な顔をした。そういう顔をされるのが嫌で話すのを避けてきたのだ。

「オレが施設育ちなのは知ってるでしょ? 原因は父親の暴行」神谷はできるだけ軽々しく言った。

「まあ」那須は息を吐いた。「そんなこったろうとは思ってたよ。あの時の異常な怯え方、大人たちは迫真の演技だとか言って絶賛してたけど、俺にはあれが演技とは思えなかった」

「今考えてみればとんだ放送事故だね。暴力に怯える元虐待児の映像を流すなんて」神谷はけらけらと笑った。

「あのシーンのおかげでおまえは大ブレイクしたけどな」

「天才子役現る! ってね。オレは怯えてただけなのに」神谷は湯呑みを手に取り、お茶を啜った。「冷めちゃった」

 那須は急須を触って温度を確かめ、「こっちはまだあったかいぞ」と神谷の湯呑みに注ぎ足してくれる。

「でもそういうことなら、できればかじさんには事情を話してあげた方がいい」

「梶さん? なんでさ」神谷は再びお茶を啜った。今度はちゃんと温かい。

「バーカ。あの時も今回も、暴力親父役は梶さんだろ」

「あ、そうじゃん」

「梶さん、半泣きだったぞ。自分が『ファンファーレ!』の時に怖い思いさせたのがトラウマになってたんじゃないかって」

「梶さんは顔は怖いくせに気は小さい」

「優しいって言えよ」

 梶は強面故に悪役を演じることが多いが、本人の人柄は極めて穏やかで、優しい。

「でもこれで合点が行ったよ」

「なんだよ」

「オレさ、梶さんのこと、昔からちょっと苦手なんだよね」

「おまえなあ、仮にも座長が共演者の悪口なんか言うなよ」

「そういう人間性の話じゃなくてさ。なんかこう、梶さんの目を見ると、背中がぞわぞわするんだ」

「より悪いじゃねえか!」

「オレ、父親のことも全然思い出せないんだけどさ」神谷は湯呑みをテーブルに置いた。「多分オレの頭の中で、梶さんと父親がごっちゃになってるんだろうね」

「やめろよ! 梶さん、あんなに良い人なんだぞ」那須が暑苦しい口調で訴える。

「ねえ、そんなことよりさ」

「なんだよ、今これ以上大事な話なんかねえよ」

「お腹空いたんだけど」

「なんだと、そりゃ一大事だ!」

 那須は弾けるように立ち上がり、冷蔵庫の方へ駆けて行った。しばらく中をガサゴソと漁り、やたらと大きなコンビニの袋を持って小走りで帰って来る。

「何さそれ」

 那須は袋の中身を次々とローテーブルに並べていく。「おまえ昼飯全部吐いちゃったろ? 起きたら腹空かしてるだろうと思って、買っといたんだ」

「いや、多過ぎでしょ」

 弁当や惣菜に飲み物、お菓子やデザートまで、まるでコンビニの棚を端から浚ってきたかのような品揃えだ。

「何食えるか分からなかったから。好きなの選べよ」那須は笑いながら言った。「あ、調理する物なら言えよ。俺がやるから」

 その含みのない優しい笑顔が神谷にはこそばゆく、「うーん、でも食べたいものはないかなあ」と意地悪を言った。

「マジかよ」那須はショックを受けたような顔になる。

「うそうそ、ありがと」神谷は、わざと一番手がかかりそうな、高級そうなカップ麺を手に取った。「これにしようかな」

「結構がっつりいくなあ」那須は何故か嬉しそうに言った。

「ねえ、岳兄もなんか食べなよ。オレこんなに食べれないし」

「そうか? じゃあこれ貰おうかな」那須がカップ入りのアイスクリームに手を伸ばす。

「待って」神谷は那須の手を掴んだ。「それはオレが食べたい」

「我儘だなあ」そう言った那須は、やはり何故か嬉しそうだった。

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