第4章『マロと元少年』(2)

 一時間遅れる、と神谷から連絡があったのは、志水が既に待ち合わせ場所に着いてからだった。急いで仕事を片づけてきたのが馬鹿らしい。それならばもう少しやっておきたいことがあったのに、と思わずにいられないが、緊急招集の多い警察官時代はむしろ志水の方が頻繁に遅刻していたので、文句は言うまい。一時間も待つのは退屈だが、適当な店を探すのも面倒で、結局駅前広場のベンチでぼんやりと過ごすことにした。

 時刻は帰宅ラッシュのピークを少し過ぎた頃で、会社員らしきスーツ姿の人々が群れを成すように駅へ向かって行く。皆どこか浮き足立っているように見えるのは、春らしく心地良い夜風のせいか、それとも今日が金曜日だからか。

 目の前に人が立ち止まり、反射的に顔を上げてしまった。すぐにナンパだと気付いて目を伏せる。一瞬視界に入った、白い膝上丈のタイトスカートのセットアップに胸元が大きく開いたブラウスを合わせたその服装は、オフィスで許される範囲をぎりぎり超えているように思える。どんな顔の女なのかは見ていないので知らない。

 案の定、「お隣よろしいですか?」と声をかけられた。相手にする気力もなく無視を決め込むが、女は構わず隣に座る。だったらどうして尋ねたのだろう。

 志水は心を無にして視線を遠くにやった。何かを見ているわけではない。見ているとすれば、空気中の水分子とかだ。この後お時間ありますか? お仕事は何をされてるんですか? などとしつこく話しかけてくる女の声は、意識の外で駅前の喧騒の中に溶けていった。

 ふと、右から左へ通り抜ける女の言葉に違和感を覚えたが、それを拾い上げる前に「さっちゃん、おまたせ」と神谷が姿を現した。

 神谷はそのままランニングにでも繰り出せそうなスポーティな装いで、ようやく見慣れた金色の髪は、今度は茶髪に変わっている。

「やっと来たか」座っていただけなのに、この一時間でどっと疲れた気がする。

「ごめんごめん、撮影押しちゃって」言いながら神谷は隣の女に視線を移し、急に戯けた調子になる。「あら、もしかしてお取り込み中だった? ごめんね、この男、全然相手してくれなかったでしょ」神谷が志水の顔を指差した。そして女の瞳を真っ直ぐに見つめ、艶のある声で続ける。「キミみたいな素敵な人を放ったらかしにするなんて、ボクには考えられないけどな」さらに神谷は、熱を帯びた目つきのまま柔らかく微笑んでみせた。「でも残念だなあ。本当はボクはこんな男よりもキミと遊びたいんだけど、今日は大事な約束があるんだ。またどこかで出会えたら、今度はこんなつまんない男じゃなくて、ボクの方に声をかけてよ。きっと楽しませてあげるから」

 じゃあまたね、と無邪気に手を振り、神谷は志水の腕を引っ張ってその場から連れ去った。突然現れて嵐のように自分を口説いていった男に理解が追いつかないのか、女は呆然としている。

「この歳になってもまだナンパされるんだね。隅に置けないなあ」歩きながら、神谷がにやにやとこちらを見上げた。

「いや、俺も初めはナンパだと思ったんだが、あれは宗教勧誘だったぞ」後ろをちらりと振り返れば、先ほどの女は既に他の男に話しかけている。

「嘘でしょ」神谷は目を丸くした。「オレ、宗教勧誘の子を口説いちゃったよ」

「誰彼構わず口説くからそうなるんだ」友人を鼻で笑う。

「それにしても、今日はどうしたの? さっちゃんから誘ってくれるなんて珍しいじゃない」

「まあ、大したことじゃないんだが、ちょっと用があってな」

「ふうん、まあいいや。後でゆっくり話そ。そこでマネージャー待ってるから」

 神谷が顎で正面を指した。見れば、白い乗用車が広場前の歩道に付けて停車している。あの黒縁眼鏡の運転手がマネージャーなのだろう。

「おまえなあ」と志水は呆れる。「マネージャーをタクシー代わりに使うなよ」

 のんびりと歩くのは眼鏡の彼に申し訳なく感じ、志水は歩幅を大きくした。


 すみません、お手数おかけします。と頭を下げながら、神谷に続いて車に乗り込んだ。後部座席に座るのなんていつ振りだろうか。

「岳兄、やっぱオレん家まで送ってくんない?」シートベルトを引っ張りながら神谷が言った。

「は? なんでだよ」タケニイ、と呼ばれたマネージャーが振り返る。これが噂の『岳兄』か。

 志水も同じ疑問を持ち、「おまえ、行きたい店があるって言ってなかったか?」と隣の気まぐれ男に尋ねた。

「いやあ。ほんとはさ、いつも良くしてもらってる焼肉屋さんが二号店出したって言うから、そのお祝いに行くつもりだったんだけどね。さっちゃんの顔見たら気が変わっちゃった」

「はあ? なんなんだよ」マネージャーが苛立ったような声を出す。「おまえ予約してたんじゃないのか? ちゃんと店に連絡入れろよ」

 分かってるって、と言いながら、神谷がスマートフォンを取り出した。二言三言喋った後、「ごめんね、また今度絶対行くから。じゃあね」と言って電話を切った。その間に車は発進している。

「ねえ岳兄、これが噂のさっちゃんだよ」神谷は前のめりになり、運転席の背もたれに絡みつくようにしながら言った。

『噂の』とはなんだ、と言いたくなるが、マネージャーの方も「ああ、君が噂の『さっちゃん』か」と復唱するものだから苦笑してしまう。

「『さっちゃん』は勘弁してください。志水と申します」『こころざし』の方の志水です、と付け足す。

「はは、志水君ね。ごめんごめん、令がいつもそう呼ぶから。俺は那須。聞いてると思うけど、令のマネージャーで、子役の頃から令をよく知ってる兄貴分でもある」

 那須は左折のタイミングで左後方を目視するついでに、一瞬こちらに視線をくれた。その慣れた運転の様子に、密かに感動を覚える。安心して他人の運転する車に乗れるのなんていつ振りだろうか。

「『兄貴分』は岳兄が勝手に言ってるだけだよ」神谷が嫌そうな顔をするが、その振る舞いがまさに反抗期の弟のようでもある。

「志水君、随分長いこと令と仲良くしてくれてるんだって?」弟の反抗は無視し、那須が志水に尋ねた。

「ええ。小学一年生で同じクラスになって、半年後に神谷の急な転校で離れ離れになってしまったんですが、十九の時に偶然再会して、それ以来」

「へえ、なんか運命的だなあ。でも、令が転校した後、子役として活躍してたのは知ってたろ? 当時かなり話題になったし。連絡取ってみようと思わなかったの?」

「いえ、それが」自分の表情に渋い気持ちが滲み出るのが分かる。「親が厳しくてテレビを一切観たことがなかったので、全く知らなかったんです」

「マジかよ! あの頃は『天才子役神谷令』を知らずにいる方が難しかったぜ」ミラーに映る那須の目が丸くなった。「じゃあ、再会できたのは本当に奇跡だったんだなあ」

 ぼんやりと外を眺めていた神谷が、「多分」と口を開いた。「岳兄、多分知ってるんじゃないかな。奇跡の瞬間の話」

 ほら、あの時だよ。えーっと、なんのロケ中だっけな。と、神谷の記憶は頼りにならない。


 早朝に起きた交通事故の対応を終えて交番に戻る途中、志水たちの乗ったパトカーは渋滞に巻き込まれていた。ハンドルを握っているのは、志水の実習先の交番に勤務する先輩警察官だ。

 渋滞の原因はこの先の大きな交差点を直進した所で行っている大規模なロケ撮影による交通規制に他ならないのだが、それにしてもこの時間帯の交通量にしては混み過ぎではないだろうか。運転席の先輩警察官も苛立ちを募らせている。

 志水たちのパトカーは片側三車線の右側、右折車線にいる。やっとのことで交差点の状況が見える位置まで進んだところで、渋滞の真の原因を理解した。警備員の交通誘導が下手くそなのだ。新人なのだろうか、明らかにばたついている。さっき事故処理を終えたばかりなのに、今にもここで事故が起こるんじゃないかとひやひやした。

 首を伸ばして前方の様子を窺っていると、視界の左端で何やら慌ただしく動くものがあった。顔を向けてみて目を疑った。たった今、目の前でひったくりが起こったのだ。歩道を歩く老女のハンドバッグを、若い男が後ろから走り抜きながら奪い取り、そのまま逃げ去ろうとしている。

 志水は「ひったくりです」とだけ先輩に告げ、パトカーを飛び出した。

 警察官の目の前でひったくりを行うとは随分挑戦的な犯人だな、と走りながら思うが、恐らく渋滞を成す車の陰に隠れてパトカーが見えていなかったのだろう。

 犯人との距離が詰まり、彼は背後から迫る足音に気付いた。一瞬こちらを振り返り、その音の主が警察官だと分かると、犯人は必死の形相になって速度を上げた。しかし、それでも志水の方が速い。

 犯人は下手な交通誘導で混乱した交差点を走り抜け、交通規制のパイロンを蹴散らして、そのままロケ現場に突っ込んだ。撮影スタッフたちが騒然とする中、犯人に手が届く距離まで追いついた志水は、地面を強く蹴ってその背中に跳びついた。

 その時、思いもよらぬものが視界に入った。跳びながら目を奪われてしまう。

 痩身中背黒髪の男。顔を見た途端に、幼少期の記憶が氾濫を起こすように志水の脳内に溢れ返る。

「神谷君?」自分の身体の下で暴れる犯人には目もくれず、片手間に手錠をかけながらそう言っていた。「神谷君だよな?」

 パトカーで渋滞を掻き分けようやく追いついて来た先輩警察官に、恐れ多くも犯人の身柄を任せた。何か声をかけてくれた気がしたが、今はそれどころではない。

 呆然と立ち尽くしている懐かしい姿に駆け寄った。「やっぱり神谷君だ」いつも見上げていたその顔は、今は志水の目線より少し下にある。

「よかった。また会えた」

 志水は思わず神谷を抱擁していた。多分、初めて自分の手で犯人を取り押さえたことも重なって、酷く興奮していたのだろう。周囲の目なんて気にならなかった。

 しかしすぐに、腕の中の神谷が怯えたように硬直しているのに気付き、慌てて離れる。

「ごめん、分からないよな。志水だよ、志水聡。小一の時に同じクラスだった」

 神谷は目を丸くしたまま、口を何度か開け閉めした。「さっちゃん?」と、ほとんど声になっていない掠れ声で言う。

「そうだよ。今更そう呼ばれるのは恥ずかしいけど」覚えていてくれた喜びと照れ臭さで、顔が綻ぶ。

「でっかくなったなあ」緊張し切って石のようになっていた神谷の表情が、初めてそこで少しだけ緩んだ。

 そのすぐ後に、何をしているんだと先輩警察官に怒鳴られたのは言うまでもない。志水は連絡先を記したメモを神谷に押しつけ、「また会おう」とパトカーに飛び乗った。


 マジかよ! と那須が大きな声を出した。赤信号の隙にこちらを振り返り、まじまじと志水の顔を見つめる。「あの伝説の警察官が志水君だったのかよ」

『伝説』とはなんですか、と言いたくなるが、すぐに那須の口から説明される。

「あの日俺は現場に同行してなかったんだけどさ、当時の現場担当から令の歴代マネージャーに語り継がれてるんだよ」

 まさかそんな大事になっていようとは。恥ずかしさで顔が火照る。

「いやあ、ありゃあ大事件だったよ」神谷はケタケタと笑った。ことあるごとに、あの日の志水の振る舞いを笑い種にされるのだ。「目の前で逮捕劇が行われただけでも大パニックなのにさ、その警察官がオレに抱きついてくるんだもん」

「しかもあれ、必ず令の代表作になるって言われてたくらい注目度の高い主演映画の現場だったから、うちの事務所のスタッフ一同めちゃくちゃ気合い入ってたんだよ。なのに令がすっかり集中切らして泣きだしちまって、落ち着かせるの大変だったって聞いてるぜ。スタッフもスタッフでそんな事態初めてだからみんなテンパっちまうしさ」

「すみません」多分、俺の顔は真っ赤になっているだろう。暗い車内でよかった。

 その横で神谷は「ちょっと余計なこと言わないでよ」と口を尖らせている。

「でも、こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、そのひったくり犯には感謝だな。おかげで令が大事な友達と再会できたんだから」那須はまるで自分のことを喜ぶかのように、穏やかな笑みを浮かべながら言った。

 事件を担当した警察官として決して口にはできないが、志水も那須と同じ思いだった。

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