第3章『99GODS』(6)

 やはり宮本を前線に出すべきではなかった。小柄な彼女は肉弾戦に於いては不利だ。逃げ回るのは上手いが、犯人を取り押さえるのには危険が伴う。しかし、今動かせる女性は宮本しかいなかったのも事実。そもそもうちの課には女性が足りていないのだ。いや、だとしても反省点は山ほどある。後になって考えてみれば、荻野がチェーンソーを持って来ることも予測可能だったのではないか。あのチェーンソーは恐らく、相川の遺体を切断する際にも使用していたのだろう。鑑識資料を入念に確認していれば、荻野がチェーンソーを所有している可能性も見抜けたはずだ。それに、警察と共同戦線を組んだのも失敗だった。付け焼き刃の連携では想定外の事態に対応できない。ボロが出て当然だ。任務に参加した松岡の係の刑事たちには組織の存在も知らせざるを得なかったし、いくら人手が足りなかったとはいえ、苦肉の策にも程があった。

「さっちゃん、大丈夫? 具合悪い?」

 助手席から声が聞こえた。顔を上げて見れば、神谷が心配そうにこちらを覗き込んでいる。宮本の入院手続きを終えて車に乗り込むなり、志水はシートベルトも着けずにハンドルに突っ伏していた。

「いや。反省会をしていただけだ」

「反省会って。まだ怒ってるの? あの刑事さんのこと」

「見ていたのか」三浦には悪いことをしたなと思う。こちらにも非があるにも関わらず、それを棚に上げて一方的に怒鳴りつけてしまうとは。「あの時はつい感情的になってしまった。後で三浦に謝らないとな」

「さっちゃんが感情的になるなんて珍しい」

「感情的にもなるさ。一歩間違えば宮本は致命傷を負っていてもおかしくなかったんだぞ。守るべきものが傷つくのは堪える」

「さっちゃんは優しいなあ」神谷は困ったように微笑んだ。「でもミコちゃん、結構元気そうでよかったじゃない」

 病院で一通りの処置を終え、ベッドに横たわる宮本の血色は良くなっていた。怪我の状態は、切り傷よりもむしろ、チェーンソーに巻き込まれた拍子に捻った膝の方が重症で、しばらくは松葉杖生活になるそうだ。しかし身動きが取れない以外はまさに元気そのもの。もう少し静かにしてほしいとすら思ったほどだった。

 そんな病室での彼女の様子を思い出し、志水は可笑しくなった。

「おまえのドラマの放送までに退院すると息巻いていたな」

 志水はようやく身体を起こし、シートベルトを締めた。

「なんてったって次は最終回だからね。まったく彼女は良いお客さんだよ」神谷は嬉しそうに言う。

「以前にも入院中に同じようなことで騒いでいたんだが、思えばあれもおまえのドラマだったんだろうな」

 その光景を思い出す。

 初めは病院のベッドで塞ぎ込んでいた宮本が、数日後に様子を見に行った時には「ドラマを観たいから帰らせろ」と大騒ぎしていた。あの時は気が狂ったのではないかと心配したが、今にして思えば、実に彼女らしい振る舞いだった。

「へえ、そうなんだ? なんのドラマだろう」

「さあ、分からない。二年前、彼女をスカウトした時のことだ」

 ふうん、なんだろうなあ、と神谷が上を見上げた。

 まだ車を出していなかったことに気付き、志水はエンジンをかけた。周囲を慎重に目視しながら、ゆっくりと発車させる。

「おまえ、今日は随分宮本に絡んでたな。何かあったのか?」

「やだなあ。聞いてたの?」

「所々聞こえただけだ。おまえの声はよく通るんだよ」

 神谷の長い睫毛が下がった。その横顔には憂鬱な色が滲んでいる。

「またスランプか?」

「いや。スランプの方はなんとかなったよ。おかげさまでね。でも、今回の件でちょっと疲れちゃった」

「新作の映画のことか? あの、酷い評判の」

『99GODS』とかいうタイトルだったか。神谷令の出演作であんなにつまらないの初めて見ました、と宮本が言っていた。

「その評判、キミの元にも届いちゃってるわけ?」

「常におまえの評判を届けてくれる奴がいるんだ。ドラマの放送中なんか、毎週五月蝿くて敵わない」

 ふうん、と神谷は気のない返事をする。「どうせミコちゃんもオレのこと見捨てると思ってたんだ。だからあんな風に絡んだ。でも、ミコちゃんは映画のことは悪く言ってもオレのことは見捨ててくれなくて、なんだかよく分からなくなっちゃった。いっそすっぱり捨ててくれた方が、諦めもついたのにさ」

 一体なんの話だ、と横目でチラリと助手席の方を見てみると、神谷はどこか遠くを見つめるような目をしている。

「ファンの子ってさ、オレにとんでもない幻想を抱いてるんだよね。オレのほんのちょっとした、本当に何気ない言動ひとつから勝手にオレの人となりを想像して、神谷令ってこういう人なんじゃないか、神谷令のこういうところが好きだ、みたいなことを言うんだよ。そうやって都合良く理想的に解釈された『神谷令』は幻想でしかないけど、ファンの子たちがそんな風にオレのことを愛してくれてるのに、期待を裏切るのは悪いでしょ? だからオレは今までずっと、ファンの子たちの思い描く『神谷令』でいられるように、どんな役でも完璧にこなせるように努力してきたし、表に出るときには指先ひとつの所作にも気をつけたし、駄目な部分が見つかってしまわないようにトークやバラエティは全部断って、ずっと隠してきた。でも、『99GODS』が公開された直後から、批判が殺到しててさ。作品への批判だけじゃなくて、オレへの批判も結構酷いんだよ。まるで悪事の片棒を担いだみたいな扱いで、オレに幻滅したファンも沢山いる。なんかそういうの見てたら、オレがこれだけ頑張ってファンの愛に応えようとしても、ファンは一つのきっかけで簡単にそっぽを向いちゃうもんなんだなって、虚しくなっちゃったんだよね」

 対向車線を走る選挙カーとすれ違った。候補者の氏名を連呼する鶯嬢の声のけたたましさに、神谷が口を噤む。騒音に阻まれたのは一瞬のことだったが、それが過ぎ去ってしばらく待ってから、神谷は口を開いた。

「ファンの目に映ってるのは、俺とはかけ離れた、虚像の『神谷令』だ。虚像が愛されたって俺は虚しいだけなのに、攻撃されればしっかり俺も傷つくんだよ。今まで頑張って応えようとしてきたけど、過度な期待を寄せられるのも、幻想を抱かれるのも、全部嫌になっちゃった。本当の俺のことなんかなんにも知らないくせに、俺のことをなんでも知ってるみたいに語られるのが、すごく気持ち悪く思えてきてさ。もうこんなのやめたいって思っちゃった」

 神谷は貼り付けたような笑顔を作った。暗い話をするときに深刻な顔をできないのは、昔からの神谷の癖だ。

「あーあ。オレは駄目だね。たとえ幻想でも愛してもらえるだけでありがたいし、愛し方だって自由なのに、オレはファンからの愛に応えられない。それなのにオレは、ファンから愛してもらえなくなるのは怖いと思ってる。そんなの身勝手で最低だ。オレ、この仕事向いてないのかもなあ」

 赤信号にぶつかった。歩行者用の信号が点滅しだしたタイミングになって自転車に乗った小学生の集団が現れ、ろくに左右も見ずに横断歩道の上を駆け抜ける。

 危ないな、と彼らが来た方向に目をやれば、ぽつりと一人、取り残された少年がいた。振り返ることもなくどんどん離れて行ってしまう集団を、心細そうな目で見つめている。

 頼むから飛び出さないでくれよ、と祈るようにしながら、志水はゆっくりとブレーキから足を離した。

 彼の気持ちはなんとなく想像がつく。みんなと同じようにできなければ、足を引っ張ってしまったら、期待を裏切ってしまったら、この場に置いて行かれてしまうだけでなく、もう一緒に遊んでもらえなくなってしまうのではないかと不安になるのだ。

 彼は無事に友人たちと合流することができるだろうか。名前も知らない少年のささやかな事件の顛末を知ることは叶わない。

「昔話をしてもいいか?」

 神谷は怪訝な顔をこちらに向け、「なにさ」と言った。

「俺はどうしてピアノを辞めたと思う?」

「なにそれ。クイズ形式なわけ?」神谷の眉間の皺が深くなる。「知らないけど。飽きちゃったとか?」

「残念、不正解だ」わざとらしく小馬鹿にするように言ってみた。「辞めさせられたんだ、母親に。『才能がないことを続けても仕方ない』と言われてな」

 ああ、と神谷は呻くように言った。「でもさっちゃん、ピアノでなんか大きな賞獲ってなかったっけ?」

「おまえ、余計なことばかりよく覚えているな」思わず顔を顰めてしまう。「だが、大きな賞ではない。ごく小さな大会の金賞だよ。誤解されやすいが、金賞というのはスポーツの金メダルとは違う、複数人に授与されるものだ」

「それでもすごいじゃない」

「俺は金賞だったが、次の大会への代表選考には落ちたんだ。あれはなんというか、すごく、がっかりする」

 金賞を獲れば、誰もが代表に選ばれることを期待する。期待が限界まで膨らんだ末の落胆だ。あの時の母親の蔑むような目が忘れられない。

「それでも俺としては上々の結果だと思っていたが、母親はそうじゃなかった」

 褒めてもらうつもりで母親に駆け寄ったら、「あの程度の結果で何をへらへら笑っているの」と叱られた。たしか、そのことがショックでしばらく寝込んだのではなかったか。

「実は、俺自身は結構ピアノが気に入ってたんだ。コンクールは苦手だったが、ピアノを弾くのは好きだった。だがその後もそれ以上の結果は出せず、ピアノを続けさせてもらうことはできなかった」

「さっちゃんのママは厳しいねえ」

「厳しいどころの話じゃない。あの人はいつもそうだった。無理やりやらされた習い事は数多くあるが、どれも期待されたほどの結果は出せず、才能がないと見切りをつけてはすぐに辞めさせられた。俺が続けたいとどんなに懇願してもだ。まともに褒めてもらえたことだって一度もない」

 そんな母親にうんざりして、高校卒業と同時に家を飛び出し、今ではほとんど絶縁状態になっている。

「それはなんというか」神谷が言葉に詰まる。「オレん家とはまた大分状況は違うけど、そういう親の元で生きるのは辛そうだなあ」

「だろ? よく生きたと思う」俺もおまえも、だ。「だがな、俺は愛されてはいたんだよ。母さんは愛し方を間違っただけで、俺を愛してはいたんだ」

 ピアノを習わされたのは不器用な指先を鍛えるためだった。習字は左利きが不利にならないように矯正するためだった。水泳は虚弱な心肺機能を高めるためだった。合気道はもしもの時に自分の身を守る術を身につけるためだった。その他のどの習い事も、始めるのに明確な目的があった。だから、それを満たしたそばから次々に習い事を替えたのは、母の考えからすれば筋の通ったことであったし、結果を見れば全て今に活きてもいる。

 褒められた記憶はない代わりに、床に伏す病弱な俺を覗き込む、母の心配そうな顔はよく覚えている。

 そこに打算がなかったとは言わない。『親の責任』と『価値観の強要』の境界を見誤っていた節も多々ある。だが、それでも母は俺を愛してはいた。

「でも、愛だからって受け取らなくていいんだ」

「なんだよそれ」

「うちの使用人の言葉だ」

「キミん家は使用人もいるんだっけ」

 奥様は確かに聡坊ちゃんを愛していらっしゃいます。ですが、愛だからといって受け取らなくてもよいのです。

 使用人のこの言葉に、俺は随分救われたのだが、神谷には響かない。

「駄目だよ。ファンからの愛には応えてあげなきゃ。じゃなきゃきっと、オレなんかすぐに愛してもらえなくなっちゃう」

 わざと自虐的な物言いをしているのかとも思ったか、神谷の目は本気だ。

 じゃあ、と志水は言う。「もう一つクイズを出してもいいか」

「なんなのさ。流行ってるわけ?」

「『情けは人の為ならず』という言葉の意味を知っているか」

 はあー、と神谷が苛立ったように息を吐いた。「キミ、オレのこと馬鹿にしてるの? さすがに知ってるよ。誤用されやすいことで有名なやつだ。『情けをかけるのはその人のためにならないから厳しくした方がいい』って意味に誤解されがちだけど、正しくは『情けをかけておくと巡り巡って自分のためになる』って意味ですよって話だろ」

「そう、正解だ。だがな、俺はそれも少し違うと思うんだよ」

「何がさ」

「いつか自分に返ってくるから人のためになることをしようだなんて、酷く身勝手で危険な思考だと思わないか。そんな打算的な考えで人助けをしていては、思い通りの見返りがないことに不満が溜まり、すぐに人間関係が破綻してしまう。愛や情なんてものは、そんな風に貸し借りで考えるものではないだろう。結局のところ、たとえ人のためになることであっても、それはその人のためではなく、全部自分がやりたくてやっていることだ。そうあるべきなんだ」

 助手席の神谷をちらりと見た。神谷は物分かりの悪い顔でこちらを見ている。

「おまえのファンだって同じだろう。ファンたちは自分の好きでおまえに愛を注いでいるだけで、そこに見返りなんかは必要ないんだ。まあ、中には見返りを求めてくる奴もいるのかもしれないが、それは愛を騙った当たり屋みたいなものだから、無視していい」

 神谷がむっとした顔になる。「つまりキミは、ファンなんか相手にするなって言いたいの?」

「本当に物分かりが悪い奴だな」今度は口に出して言った。多分俺は今、神谷に『1+1』を教えた時と同じくらい苦労しているのではないか。「それはおまえの自由だ。ファンの愛を、おまえが受け取りたいなら受け取ればいい。辛ければ無視したっていい。応えるも応えないも、全部おまえの自由だ。応えたくても応え切れないなら、できる範囲でやればいいんだ」

「自由ねえ」と神谷が遠くを見ながらつぶやいた。「さっちゃんの話は難しくてよく分からないや」

「それでいい」と志水は笑った。「どうせおまえは身を持って経験しないと理解できない質だ」だからこそ、ミミズの気持ちを知るためにミミズになり切るなんて真似をしていたのだろう。「だが、いつか経験した時、きっと言葉は効いてくる」

 少し難し過ぎただろうか。神谷は繰り下がりのある引き算を教えた時と同じ顔をしている。

「それよりおまえ、今はそんな壮大なことで悩んでいる場合じゃないだろう。目の前に真っ先に片付けなきゃならない問題が山積みのはずだ」

「なんの話?」神谷が首を傾げる。

「ピアノの話だ」

 あー! と叫び、神谷は頭を抱えた。「もう、嫌なこと思い出させないでよ。ほんとどうしよう。今回ばっかりは本当に間に合う気がしない」

「そんなに大変なのか。なんの曲やるんだ?」

「とりあえず明日は二曲撮るんだけど、オリジナルの曲と、『英雄ポロネーズ』」

「げっ。あれ難しいだろ」

「弾いたことあるの?」

「いや。弾いてみたくて楽譜は買ってもらったんだが、当時の俺の小さな手ではとても弾けなかった」

「さっちゃんでも無理ならオレに弾けるわけないって」

「小学生の頃の話だぞ」

「言っとくけどね、オレは学力だって小学生のキミに敵わないんだよ」

「嘘だろ? 1+1は?」

「10だよ!」

「二進数か?」

「ニシンがなんだって?」

「でもどうしてクラシックなんだ? バンドマンなんだろ」

「元々はクラシックピアノで世界を目指してたって設定なの。ちなみに他のメンバーは全員初心者って設定だけど、本当に初心者なのはオレだけだよ」

「酷いな」

「まあ、音は吹き替えてもらえるんだけどね。それでも手元抜かれたりするし、ある程度は形にしなきゃいけない」

 ウィンカーを出した。右側後方を目視し、右折車線へ移動する。進行方向の信号が黄色に変わり、アクセルから足を離した。ブレーキを踏んで少しずつ速度を緩め、停止線の手前でぴたりと止まる。

「ねえ、さっちゃん」神谷がはたと口を開いた。

「なんだ」

「これ、どこに向かってるの? キミんとこの事務所とは方向が違うみたいだけど」

「おまえの家でいいだろ?」

「なに、送ってくれるの?」

「というか」信号が青に変わった。交差点の動きを注視しながら、ブレーキを離す。「ピアノの練習、付き合ってやる」

「えっ」神谷がこちらを勢いよく振り向いた。「一体どういう風の吹き回しさ」

「もう今日は疲れた。働きたくない」

「仕事溜まってるんじゃなかったの?」

「明日の俺がなんとかする」

「いい加減だなあ」

「いや、そうでもない。ちゃんと、全部期限内に片付く算段はついている」

「じゃあ、さっき断ったのはただの意地悪?」神谷が恨めしそうな目をする。

「違う。計算が変わった」

「計算?」

「宮本が入院になっただろ。あいつがいない方が、書類仕事は捗るんだ」

「ひっどい上司だなあ」神谷はけらけらと笑った。分厚い雲の隙間からようやく見えた、懐かしさすら感じる晴れ間だ。「そしたら、どっかでお昼食べて行こうよ」

「うどんがいいな。温かくて、油ものが乗ってないやつ」

「いやに具体的だね」

 志水は溜め息をついた。「腹痛いんだ」

「ああ」神谷が憐れみの滲んだ声を漏らす。「大丈夫? 保健室行く?」

 神谷の住む高層マンションはもうすぐそこだが、一旦通過してうどん屋を探す。

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