第3章『99GODS』(5)
「私は、ファンなんかじゃ、ない!」荻野はチェーンソーを振り回しながら言った。暴れながら喋るから、息も絶え絶えだ。「りょう君の、方から、声をかけて、くれたんだ!」
「あー、そっちのパターンですか」余裕綽々、という風を装って言ってみる。「遊ばれちゃったんですね。ごめんなさい、彼、女癖が悪くて。私はもう長い付き合いなんで、諦めて浮気は許してますけど、捨てられる方はたまったもんじゃないですよね。私からきつく叱っておきますから、落ち着いてくださいよ」
でたらめの設定が自分の口からペラペラと淀みなく流れ出ることに、宮本は驚いていた。神谷の恋人という役回りに、少し浮かれているのかもしれない。
ふざけるな、と言ったのだろうか。激昂した荻野はもはや何を言っているのか聞き取れないが、とにかく獣のような叫び声を上げていた。
無闇やたらと振り回すチェーンソーの太刀筋は隙だらけではあるものの、なかなか近づくことはできず、宮本のリーチでは攻撃を入れることは難しい。どうにかあの物騒な武器を止めなければ、埒が開かない。このまま持久戦に持ち込むこともできるが、いい加減逃げ回るのも飽きてきた。
宮本は、回転する刃の猛襲を躱しながら、少しずつ移動した。その途中で椅子を拾う。
じわりじわりと後退り、背中が壁にぶつかった。狙い通りではあるのだが、「きゃっ」と小さく悲鳴を上げてみる。
荻野の叫び声とチェーンソーの回転音の不協和音が、宮本に襲いかかった。宮本は椅子をさっと持ち上げ、盾代わりにそれを受ける。
木製の椅子が切れていく様を見極め、タイミングを計って一気に相手の足元に潜り込んだ。
荻野の足を踏みつけた。ヒールに仕込んだ麻酔針が刺さる。樋口特製、毒針ヒール改め麻酔針ヒールだ。
よし、これで勝ったも同然。あとは麻酔が回るのを待つだけだ。
宮本は素早く荻野と距離を取った。
しかし、事態は想定外の方向に転がった。
ヒールで足を踏んだところで、「そこまでだ!」と若い刑事が飛び出し、拳銃を構えたのだ。
三浦とかいう名前だったか。志水の指示か? いや、そんなわけはない。何故飛び出してきたのだ。私が追い詰められたと思って先走ったのか?
三浦は、宮本が既に荻野の攻撃から逃れて安全な位置に移動していることに気付き、混乱している様子だ。
「おまえは警察に包囲されている。大人しく武器を捨てて投降しろ!」
混乱している人は何をするか分からない。引くに引けなくなったのか、先走り刑事が余計なことを言った。そんなこと言ったらまずいんじゃないのか。
「警察? どうして警察がいるの? あなたお客さんじゃないの?」荻野は宮本を襲う手を止め、三浦の方を振り返った。
ほら、やっぱりまずい。
「もしかして、最初からこうするつもりだったの? 最初から、騙してたの? りょう君は? りょう君は、警察の手先だったの? ねえ、答えてよ。りょう君はどこ? りょう君を出しなさいよ!」
荻野が叫びながら三浦の方へ駆けだした。
これは本当にまずいと、宮本も同じ方へ走る。三浦までの距離は、荻野からの方が近い。間に合うか。
視界の端には、神谷をカウンター裏の床下収納に押し込む志水の姿があった。
三浦は襲い来るチェーンソー女に顔を強ばらせた。引鉄には既に指がかかっている。
宮本は荻野を追い越し、三浦に飛びついた。銃を握る右手を捻り上げる。
それとほぼ同時に、三浦は引鉄を引いた。耳元で爆発音が鳴り、鼓膜が痺れる。
勢い余って三浦共々倒れ込みながら、荻野の方を振り返った。
しまった。と宮本は思った。
荻野がこちらに向かって倒れて来ている。今更になって麻酔が効いてきたのだ。
しかし手にはまだ力が残っているらしく、チェーンソーの回転は止まらない。このまま倒れ込まれたら、私も三浦も荻野も、輪切りになってしまう。
宮本は、反射的に左脚を出した。凶暴な工具に狙いを定め、左に薙ぎ払う。
激痛が宮本を襲った。
***
三浦の反応は素早かった。
二人の下敷きになった状態からぐるりと回転し、荻野にのしかかって取り押さえた。しかし、そこまでするまでもなく、荻野はもう動くことはできない。
興奮状態にあるせいか、荻野の下で押し潰されている宮本のことは気にも留めず、「犯人確保!」と言わなくても分かることを無意味な大声で叫んだ。
「退け」その声は冷たく震えていて、自分が発したものに感じられなかった。
三浦はようやく状況を察したのか、荻野を抱えて飛び退いた。「すみません」と慌てた声が聞こえたが、向ける方向の間違ったその謝罪は無視する。
「宮本、無事か?」
志水はチェーンソーのエンジンを切りながら、部下に声をかけた。
「こっちが聞きたいですよ。私の脚は無事ですか?」
宮本は傷を直視したくないのか、手で顔を覆ったまま答えた。僅かな隙間から見える顔色は青白くなっている。
宮本の左脚の下には、真っ赤な池ができていた。出血が多いせいで傷の深さは一目では分からないが、かなり抉れているように見える。止血しようにも、脚に食い込んだチェーンソーの刃がタイツに絡んでおり、外すことができなかった。
「繊維が頑丈過ぎたせいで、切れずに巻き込まれて抉られたんだな。防刃タイツが仇になったか」
「掠るくらいで済むと思ったんですけど、触れた瞬間、持って行かれました」
「これは病院で処置してもらった方がいい。すぐ止血してやるから、もう少し頑張れ」
志水は後ろを振り返り、「佐野!」と呼びかけた。女性警察官はすぐにこちらに駆け寄って来てくれる。
「どうかした?」
「タイツを脱ぐのを手伝ってやってくれないか。このままじゃ、脚から刃が外せない」
「分かった。こっちは任せて」佐野は志水の背中を叩いた。
志水は立ち上がり、刑事たちが集まっている方へ大股で歩いた。
既に荻野は連行され、現場検証が始まろうとしている。
「三浦」
志水が呼びかけると、人懐っこい笑顔がこちらを向いた。しかし、志水の表情を見て、瞬時に青褪める。
「おまえ、どうして飛び出した?」
「その、危ない状況だったので、自分が行くべきだと思って」三浦は目を泳がせた。
「言ったはずだ、指示をするまで手を出すなと。銃なんか構えてどうするつもりだった。宮本が止めなければどうなっていたと思う。チェーンソーの刃に当たれば跳弾して、燃料に当たれば炎上するんだ。あの状況で、犯人以外を傷つけないことができたか? 上手く犯人に当てられたとして、殺さないことができたのか?」
志水は無意識に三浦の胸ぐらを掴んでいた。
「すみません。でも、あんな女の子一人に危険な犯人の相手を任せるなんて、自分にはできませんでした」
「その結果どうなった?」志水は答えを待たずに三浦に詰め寄る。「言ったはずだな、見かけで判断するなと。分かってるか? おまえが勝手に動かなければ、宮本は余計な怪我をせずに済んだんだ。あのまま任せておけば、犯人は無事に取り押さえられていたんだぞ」
「志水、ストップ」
不意に、手を掴まれた。声の方を向けば、佐野がこちらを見上げている。
慌ただしく指示が飛び交う周囲の様子が急に目につき、自分の視野が狭くなっていたことに気付く。
「ごめん、あたしのせいもあるかも。この馬鹿、目配せしたのを『行け』って意味だと捉えたんだと思う。こいつには後できつーい処分下してもらうから、志水は早くあの子を病院に連れて行ってあげて。今、止血してるから」
「ああ、ありがとう」
志水は深く息を吐き、もう一度三浦を睨んだ。
「三浦。勇気があるのも正義感が強いのも結構なことだが、無闇に振りかざせば事態を悪化させることだってあるんだ。それを忘れるなよ」
はい、申し訳ございませんでした! という声は背中で聞き流し、志水は部下の元へ駆けた。
宮本には、若い女性警察官がついていた。今回の任務に参加しているのは松岡の係の刑事のみのはずだが、三年前にはいなかった顔だ。
「ありがとう、もう大丈夫です。持ち場に戻ってください」
志水が声をかけると、女性警察官は「はい、お疲れ様です」と教科書のような敬礼をして去って行った。
「宮本、動けるか?」
宮本の傷口に当てられたタオルを手で押さえた。出血はまだ完全には止まっておらず、白いタオルがじわじわと赤く染まっていく。
「すごく無理をすれば動けないことはないですけど、絶対動きたくないです」
「おまえは正直で助かるな」
宮本の膝と背中の下に腕を通し、身体を持ち上げながら立ち上がる。
宮本は一瞬驚いたような顔をしたが、文句を言う元気はないらしい。だらりと志水に身を預けた。
我が組織の開発課が突貫工事で用意した戦場を後にした志水は、足早に店の前の駐車スペースに駐めてある車へ移動した。周辺には警察車両が数台駐まり、私服警察官が忙しなく行き来している。
神谷に車のドアを開けさせ、後部座席に宮本を寝かせた。
「ねえ、救急車呼んだ方がよくない? この辺の道、日曜でも結構混むよ」神谷が心配そうに言う。
神谷の手には、宮本の巨大なカフェラテが握られている。本当にしっかり持っていたんだなと可笑しくなった。
「いや、こっちの方が早い」
「ふうん。オレ運転しようか? ミコちゃん看ててあげなよ」
「いや。それよりも、後ろで宮本が転がらないように押さえてやってくれ」
「だから、それをさっちゃんがやったら? 彼女、オレだと気を遣うでしょ」
「おまえ」志水は神谷の瞳をじっと見つめた。「気を効かせてる風に見せかけて、宮本の怪我を直視したくないだけだろ」
「ばれた?」神谷は肩をすくめた。
「いいから、後ろに座れ。おまえを気遣ってる場合じゃないんだよ。傷口を心臓より高い位置に持ち上げて、タオルで押さえていてくれ」
半ば強引に神谷を後部座席に押し込んだ。宮本の脚を、神谷の膝の上に乗っけるような格好を取らせる。どうせなら膝枕がよかった、という宮本の掠れた声が聞こえた気がした。
「おまえ、緊急走行のやり方知らないだろ?」困惑する神谷に向かって言った。
「緊急走行?」
志水は、助手席の足元から赤色灯を取り出し、車の屋根に装着した。
運転席に乗り込み、サイレンを鳴らす。
「飛ばすぞ。しっかり掴まってろ」
アクセルを踏んだ。滑らかに加速し、背中がシートに貼りつく。道を開けてください、とアナウンスしながら、走行中の車を追い抜いていく。
「キミって結構無茶苦茶やるよね」神谷が苦笑した。
***
ふわふわと飛んで行きそうになる意識を必死で捕まえながら、車の振動を感じている。サイレンの音がけたたましく脳を揺らし、また気が遠くなる。「道を開けてください」という志水の声が耳の中にこだまして、どこかに退かなきゃいけない気持ちになるが、身体は上手く動かない。
足元には神谷がいる。右手では傷口に当てたタオルを押さえ、左手では私のカフェラテを持ってくれている。あ、飲んだ。
「あ、飲んだ」無意識に口に出していた。
「あ、ごめん、つい」神谷は丸い瞳でこちらを見た。カップを差し出して尋ねる。「飲む?」
頭が回らず、何を訊かれたのかよく分からなかったが、口が勝手に「飲む」と答えた。
ちょっと待ってね、と神谷は言い、カップを右手に持ち替えた。手を離されたタオルは血で貼りつき、落ちることはない。左腕を宮本の背中の下に入れ、上半身を抱き起こしてくれた。
「自分で持てる?」とカップが手渡される。
受け取ってはみたものの、大きなカップは酷く重たく、膝から持ち上げることができない。
「欲張って大きいの頼むから」と神谷は笑いながら、右手でカップを支え、口に運ぶのを手伝ってくれた。
ゴクゴクゴク、と飲んだところで、ふと我に返った。
「今私は、神谷令の腕に抱かれていますね?」
顔が燃えるように熱くなった。おかげさまで、意識が鮮明になった。
「え、急にどうしたの?」神谷は困惑顔だ。そりゃそうだ。「今キミは神谷令の腕に抱かれていますけども」
「すみません、血圧が上がって傷口が痛むので、下ろしてもらえますか」
「もう、キミの情緒は乱高下だなあ」
そう言いながら神谷はカップを受け取り、宮本の頭をそっと下ろしてくれた。
「神谷さん、平気なんですか?」宮本は尋ねた。
「何が?」
「血とか、車とか」
はは、と笑い、神谷は答える。「さすがにこんな状態のキミの前ではひいひい騒げないよ。今は『血も車も大丈夫な頼もしいお兄さん』の役に入ってるから平気」
「あの、その役、やめてもらえませんか」また遠くなり始めた意識を追いかけながら言った。
「え、なんで?」
「なんか、神谷さんに気を遣われてると思うと、そんなに重傷なのかとまざまざと感じてしまって、なんか無理です」
まずい、視界がぼやけてきた。
神谷が何か言っているが、サイレンが五月蝿くて聞き取れない。
こちらを覗き込む神谷の顔は、青褪めて慌てふためいている。
ああ、そうそう。そっちの方が落ち着く。
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