第2章『ワケあり物件1DK』

第2章『ワケあり物件1DK』(1)

 年末年始のおめでたい空気はこの物騒な事務所には縁遠く、今日も職員たちが忙しなく動き回っている。宮本も実家にいた頃は親戚一同大勢集まって正月を祝ったものだったが、歳を重ねるにつれ億劫になっていったその集まりも、今は望んでも叶わぬものとなった。この正月の楽しみといえば、今週から始まる新作のドラマくらいだ。

 宮本は左に視線をやった。グレーのスリーピースのスーツが嫌味なほどよく似合う男が、くたびれた顔でパソコンのモニターを見つめている。いや、あれは何かを真剣に見ているようで、どこにも焦点が合っていない目だ。

「志水さんは奇跡を信じますか?」

 今朝自宅に、予定にない来客があった。何も考えずに玄関のドアを開けてしまった瞬間、虚な目をした女性の口から飛び出した言葉を、そのまま上司に投げてみた。

「奇跡なんて、ただの『偶然』の呼び名の一つだろ」志水は遠い目をしたまま答えた。そして眉間に皺を寄せ、こちらに顔を向ける。「なんだ急に」

「さすが、面白味のない回答ですね」と笑い、事情を説明する。「知らないおばさんが急に家に来て、そう言ったんですよ」

「何故それを俺に言うんだ」

「志水さんが教えてくれたんじゃないですか。面倒な人に絡まれた時は『上の者に確認します』と言って逃げろって」

「それは潜入任務のときの話だろ。ご近所トラブルに俺を引っ張り出すなよ」そう言って呆れ顔をしつつ、志水は続けた。「だが、そういう意味の『奇跡』なら、それは偶然ではなく必然だな」

「どういうことですか?」

「宗教勧誘だろ? 稀な現象を確実に起こすことで、奇跡の力を持っていると信じ込ませる。よくある手口だ。そういうときの『奇跡』は、科学的に再現性のある現象なんだよ」

「はあ、なるほど」と、自分から振った話題にも関わらず、そんな気のない返事で切り上げようとした時、後ろから声がかかった。

「あんたたち、ほんと打ち解けたよねえ」

「眞希さん」

 宮本が振り返ると、そこには長身にショートヘアの美人が立っていた。情報部開発課のエース、発明女王こと樋口眞希だ。ソフトウェアにハードウェア、時には化学品まで、彼女に作れないものはないと言われており、『ないものは作れ。あるものはパクれ』をモットーとしているらしい。年齢は恐らく志水より少し上くらいだが、不老の妙薬を飲んだ魔女だと説明されても納得してしまいそうな異質さがある。

「新人の女の子が志水君の下に就くって聞いたときはすごく心配したんだけど、案外上手く行っててよかったわ」濃い口紅で彩られた口角が上がった。この色の口紅が下品にならないのは、さすが美人といったところだ。

「そう見えますか?」志水が言った。

「あら、自覚あるんじゃない? まあ、弥子ちゃんは最初からだいたいこんな感じだったけど、あなたは最近、随分表情が柔らかくなったわよ?」

 え、どこがですか? と、宮本は無表情な上司の顔を凝視する。

「気苦労は絶えませんがね」志水はモニターを顎で指した。

 そこには宮本が書いた報告書が表示されている。添削のコメントが大量に付けられていて、宮本は気が重くなった。

「そんなことより弥子ちゃん、頼まれてた物、できたわよ」

 そう言って樋口は、手のひらに乗るほどのサイズのキーホルダーを差し出した。カラフルなラバー素材で、可愛らしいうさぎのキャラクターのデザインだ。

「わあ、ありがとうございます」と言って宮本はそれを受け取る。

「おまえ、そんな趣味だったか?」志水が興味なさそうに言った。

「違いますよ。これはプレゼントです」宮本は、キーホルダーの仕上がりを確かめながら説明する。「そういえば志水さんは会ったことありますよね? 同じマンションの小学生の早妃ちゃん。あの子にあげるんです」神谷の舞台を観に行った日、劇場の近くで会った彼女を志水も見ていたはずだ。

 そう説明すると、「ああ、あれか」と志水が目を細めた。「しかし何故それを樋口さんが?」

 志水の疑問はごもっともだ。しかし、ここまで話しておいてなんだが、彼に事情を教えてしまっていいものだろうか。宮本は逡巡し、樋口に目配せした。

「いいんじゃない? 話しちゃって。何かあったときに頼りになるわよ」樋口は宮本の迷いを察し、そう言ってくれる。

 宮本は頷き、話を切り出した。「実は」


 茅原かやはら早妃さきは、宮本と同じマンションに住む小学一年生の女の子だ。何度か顔を合わせるうちにいつの間にか懐かれ、今となっては時々家にお呼ばれするほどの仲になっていた。

 その早妃の様子が、ここ一ヶ月ほど、どうもおかしいのだ。

 ある平日の、日が傾き始めた頃、近所の公園で彼女を見かけた。ベンチに一人俯く彼女を見つけ、宮本は心配になって声をかけた。どうしたのか尋ねても答えてはくれず、そういう日もあるのかな、とその日はその場を後にしてしまった。

 しかしその数日後にも、彼女は同じ場所で俯いて座っていたのだ。それは、小学生を外に一人にしておくことなど到底できない、日が落ち切った真っ暗な時間帯だった。宮本は半ば強引に彼女を家に連れ帰ったが、やはり事情を話してくれることはなかった。何より気になったのは、母親の反応だ。早妃を送り届けた時、恐縮や感謝などではなく、迷惑そうな顔をされた気がしたのだ。

 その後も何度か、公園にいる早妃を見かけた。その度に話しかけてはみたが、以前のように笑顔でお喋りしてくれることは一度もなかった。


「それで気になって、調べるためにこれを作ってもらったんです」

 そこまで話し終え、宮本は志水の顔色を窺った。勝手な行動をするなとか、お節介だとか、呆れ顔でそんなことを言われるのを想像していたが、志水の反応は違った。

「仕様は?」志水は短く尋ねた。その眼差しには冷たい光が灯っている。

「録音機と位置情報発信機を内蔵してるの。録音機は、大きな音を検知したときに録音する仕組みで、連続して二分まで記録可能。データは本体には保存せずサーバに上げるから、メモリの制限なく何度でも使える。位置情報は、十五分おきに記録して、一時間に一度サーバに上げる仕様よ。電池は保って二週間ね」樋口がさらさらと答えた。宮本には意味の分からない言葉ばかりだ。

「低スペックだな」

「このサイズじゃそれが限界。頑張った方よ」樋口は肩をすくめた。

 志水はふむ、と鼻を鳴らし、しばらく黙り込んだ。「つまりおまえは、虐待を疑っているわけだな?」

 志水の視線が宮本を刺し、背筋が伸びる。「はい」

「外傷は?」

「見える範囲にはありません。と言っても今は冬で着込んでますから、顔くらいしか見えませんけど」

「だろうな」志水は顎に手を当てた。何かに思い馳せるような顔つきだ。「この寒い中、小学生が夜の公園に一人か」

「虐待じゃないとしても、早妃ちゃんの身の周りで良くないことが起きているのは間違いないと思います」この計画を止められてなるものかと、宮本は真剣な口調で言った。

「分かった。責任は俺が取る。好きにやれ」

「えっ?」予想に反して志水が協力的な姿勢であることに、宮本は驚いてしまった「あ、ありがとうございます」

「ね、話しといてよかったでしょ?」樋口がウィンクした。

 しかしそこで、「だがな」と志水が言った。あ、これはお説教だ、と察して宮本は身構える。

「プライベートの問題に樋口さんを巻き込むな。彼女は手が早いから簡単にやっているように見えるかもしれないが、こういうのを作るのには時間もコストもかかるんだぞ」

「はい、すみません」宮本は、これ以上引っ張ったら頭が引っこ抜ける、というほど背筋を伸ばした。

「あら、いいじゃない。固いこと言わない。弥子ちゃんに頼られるの嬉しいし、結構楽しかったわよ」

「しかし」

「それに」樋口が志水の言葉を遮る。「ちゃんと仕事の役にも立ってるのよ」

 志水が顔を顰めた。ものすごく嫌そうな顔だ。「仕事?」

 しかし律儀に聞き返してしまうあたり、実に志水らしい。

「よくぞ聞いてくれました!」樋口が嬉々とした表情で言った。

 こういうときの彼女を相手にするとろくなことがないというのは、宮本も経験上知っている。

「今回の依頼で、位置情報発信機のかなりの小型化に成功したのよ。小さければ小さいほど、使い方は広がるでしょ?」

 樋口はジャケットのポケットからピルケースを取り出し、蓋を開けた。そこに入っているのは錠剤ではなく、錠剤ほどのサイズの小さな電子基板のような物だ。

「このパーツ一つで発信機に必要な機能が全て揃ってるの。これだけ小さければ、例えば食事に混ぜて飲み込ませることだって可能よ」

「運良く噛み砕かれなければ、ですね」志水は冷めた顔をしている。「バッテリーは?」

「あら、嫌なところ突くわね。そこはまだ課題。バッテリーの容量はどうしても大きさに比例しちゃうから、長時間使うなら結局大きなものが必要になるわ。ただ、省電力化の工夫もちゃんとしてるから、そうね、二十四時間くらいの可動時間なら、なんとか飲み込めるサイズにできると思う」

「なぜ飲み込ませようとするんですか」志水はげんなりした顔をした。

「やあね、そんなのロマンよ、ロマン」樋口は腰に手を当てた。「それからね、ここ数日毎日弥子ちゃんのこと考えてたら、どうしても作りたくなっちゃって。新しい装備も開発したのよ」

 そう言って樋口が取り出したのは、パンプスだ。表面はベージュのスエード生地で、三センチほどの高さのヒールが付いている。

「弥子ちゃんっていつもスニーカーとか、ぺったんこの靴でしょ? それも弥子ちゃんらしくて好きなんだけどさ、きっとこういうのも似合うと思って」樋口は目をキラキラと輝かせている。

「装備って、お洒落は女の武器、みたいな話だったんですか?」宮本は困惑しながら言った。

「まさか!」樋口は快活に笑った。「攻撃力も高いわよ。それ、ヒールに毒針を仕込めるようになってるの」

「また悪趣味なものを」

「でも私、ヒールはちょっと。機動性が低くて」

「そう言うと思って、ちゃんと歩きやすくしといたから。ね、試しに履いてみて?」

 はあ、と言いながら宮本はスニーカーを脱いだ。ストッキングじゃないときついかも、と樋口が足首丈のストッキングを渡してくれたので、靴下をそれに履き替える。なんと準備がいいのか。宮本は、パンプスに足を入れた。

「ね、どう?」樋口が期待の眼差しでこちらを見ている。

「私、シンデレラの気持ちが分かった気がします」

 パンプスは宮本の足にぴったりフィットしていた。試しに少し歩いてみると、履き慣れたスニーカーのように歩きやすい。

「何、感動したってこと?」樋口が尋ねる。

「突然差し出された靴がぴったり合うと、ちょっと不気味です」宮本は笑った。

「シンデレラの場合は元々自分の靴なんだから、そうは思わないだろ」志水が呆れ顔で言った。

「あ、そっか」

「奇襲としては面白いですが、宮本を肉弾戦で前線に置くことはあまりないと思います」志水は宮本の足元をしげしげと眺めながら感想を述べた。

「そうなの? 志水君って、そのへんは容赦ないタイプだと思ってた」樋口は意外そうに言った。

「リーチの短い宮本では、肉弾戦は不利ですから」

「短いとか言わないでくださいよ。容赦ないですね」

 ふーん、と腕を組み、樋口は考えるような顔をした。「そしたら、弥子ちゃんにはこういう武器の方がいいのかしら」

 樋口はジャケットの胸ポケットに挿していたボールペンを宮本に手渡した。金属製の太いボディで、随分ごついデザインだ。受け取ってみると、ずっしりと重たい。

「押してみて」樋口がボールペンをノックする仕草をした。宮本はそれを真似る。

 次の瞬間、宮本は床にしゃがみ込んでいた。何が起きたのか分からない。ただ、頭が割れるように痛かった。履き慣れないヒールにバランスを崩し、膝が床に落ちる。

 色白で指の長い骨張った手が、いつの間にか投げ捨てられていたボールペンを拾い上げた。その行方を視線で追うと、怒ったような顔をした志水がいる。

 カチッという音が聞こえた。頭痛が少し和らいだ。しかしまだ、ガンガンと内側から殴られるような痛みと不快な耳鳴りが残っている。

「大丈夫か」志水が言った。床にへたり込んだ宮本を助け起こしてくれる。

「ごめんね、弥子ちゃん。そんなに効くとは思ってなくて。ほんの悪戯心だったの」自分で仕掛けたくせに、樋口は狼狽えた様子だ。

「なんなんですか、これは」志水の口調には、樋口を責めるような怒気が込もっている。

「ボールペン型の超音波兵器。今は半径一メートルに設定してあるけど、周囲の人に急激な頭痛を起こすことができるの」

「何故あなたは無事なんですか」

「あたしだって多少は効いてるわよ。でも、何度も実験してるうちに慣れちゃった。それに、若い子の方が聴力が高い分効きやすいのよ」樋口は肩をすくめた。「そう言う志水君だって涼しい顔してるじゃない。君の年齢で効果がないのはむしろちょっと心配よ」

「余計なお世話です」志水は冷たく吐き捨てた。そして、頭を抱えて俯く宮本の顔を覗き込む。「宮本。少し休んで、辛ければ帰れ。酷い顔色だ」

「へ?」仏頂面の男に似合わぬ優しい言葉に、宮本は戸惑う。

「早妃ちゃんにキーホルダーを渡すんだろ? それならいずれにせよ、早めに帰った方がいい。その書類の山なら俺が引き受けるから、おまえは気にせずさっさと帰れ」志水は宮本のデスクに積み上げられた未処理の書類を指差しながら、淡々と言った。

「え、いいんですか?」宮本は驚きながら聞き返す。

「実はな、おまえの間違いだらけの書類の添削をするより、最初から自分でやった方がずっと速いんだよ」

「そうなんですか」宮本は衝撃を受ける。

「志水君、やっさしーい」と樋口が言った。

 どこが。


  ***


「あたしが言うのもなんだけどさ、弥子ちゃんのこと、止めなくてよかったの?」宮本を救護室に連れて行った後、樋口が尋ねた。「あのキーホルダー、業務外だし、訴えられたら勝てないでしょ。それに、ちょっと大袈裟な気もするし」

「盗聴ですからね」志水は答える。「でもいいんです。言ったでしょう、責任は取ると。問題になったら俺がなんとかしますよ」

「志水君がそこまで言うなんて、よっぽど弥子ちゃんのこと信頼してるのね。ちょっと意外」

「信頼というか」志水はいつも行き当たりばったりな部下の顔を思い浮かべた。「あいつは異常に運が良いんですよ。だから、宮本がやろうとしていることなら、止めない方が結果的に良い方に転がるかもしれない。そう思っただけです」

「へえ、それも意外。非論理的」

「全く同感です」

 志水は溜め息をつき、隣のデスクに山積みになった書類に手をつけた。

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