第2章『ワケあり物件1DK』(2)
1DKの小さな部屋といえど、築一年で設備は最新。最寄駅まで徒歩三分、都心までのアクセス十五分の好立地にして、家賃月々三万円。
ワケあり物件? 関係ない。こんな超破格マンション、逃す手はない!
「ねえ
「あんたさあ、虫がよすぎると思わないわけ? 今まで散々そういうの馬鹿にしてきたくせに」沙織は不機嫌そうな顔をする。
「それはごめんって。だって幽霊なんて本気で信じてなかったんだもん」
「それがムカつくって言ってんの」しかしさすがに綾音が可哀想になってきたのか、沙織は短く溜め息をついて続けた。「だいたい何があったわけ? あんたがそこまで怯えるなんて」
「それがさあ、聞いてよ」泣きそうな声で綾音が言う。「昨日仕事終わって家帰ったら、冷蔵庫の食材全部なくなって、料理がフルコース用意されてたの」
「は?」
「それだけじゃないの! 最初は気のせいだと思ってたんだけど、引っ越してきてすぐの頃から、忘れたと思ってた洗濯機が回してあったり、なんか妙に水回りが綺麗になってたり、溜めてたはずの洗い物が片付いてたり。とにかくなんか変だなってことが色々あったの! そしたら突然フルコース料理だよ? 超怖くない?」
「え、なにそれ」沙織は怪訝な顔をしている。
「ほんとなんだってば! 信じてよ」
「うん、うん。信じるかどうかっていうかさ、それは警察呼んだ方がよくない? あたしに頼ってる場合じゃないでしょ」
「呼んだよ! そしたらさ」
昨晩、心当たりのないフルコース料理を発見し、綾音は慌てて警察を呼んだ。変わった嗜好の変質者がこの部屋に出入りしてるのだと思ったからだ。
しかし犯人の足跡や指紋、それを拭った跡さえも、何ひとつ痕跡は見つからず、結局警察は退散した。
何より恐ろしいのは、一人の警察官が残した言葉だ。
「このマンション、建ってからほんの一年ちょっとですけど、この部屋にお住まいの方から同じような通報を受けたのは、もう五回目なんですよ。しかもその度に入居者は代わっていて。もう、そういうこととしか思えないですよね」
「しかもその料理は証拠品として持って行かれちゃって結局食べられないしさあ。もうほんと最悪」
「そこは今どうでもよくない?」
「とにかく、だからこうして沙織に頼んでるの。もうあんたしかいないんだって!」綾音は必死で泣きつく。
「えー」沙織はまだ半信半疑だ。「でもそれ、ほんとなら相当やばい霊の仕業だよ」
「そうなの?」
「だって、普通の霊は現世のものに触ったりできないでしょ? 料理まで作るなんて、霊障の域超えてるって」
「ねえ、怖いこと言わないでよ」綾音は今にも泣きだしそうだ。
「言っとくけどあたし、そんなやばい奴どうにもできないからね? そもそも霊感あるって言っても、見えるだけで祓えるわけじゃないし」
「それでもいいから、とにかく一回見に来て! ほんとに憑いてるならプロの霊媒師でもなんでも呼ぶし、憑いてないならそれはそれで超怖いじゃん」
「そうだなあ」と言いながら、沙織は自分の爪を見ている。「焼肉」
「え?」
「だから、焼肉。それで手を打ってあげる。でも食べ放題なんて安っぽいのじゃダメよ。特上のコースメニューね」沙織はここぞとばかりに要求を吊り上げる。
「うわあ、きっつ。引っ越したばっかりで金欠なのに」
「嫌なら行かないだけだから。好きにすれば?」沙織は意地悪く言った。
「もー、分かったよ。焼肉特上コース、奢るから。お願いね?」
翌日、綾音は沙織を連れてマンションに帰宅した。
「いやー、人の金で食う肉は最高ですな」玄関先で綾音が鍵を開けるのを待ちながら、沙織が親父臭い口調で言った。「これで何も出なかったら完璧なんだけどなあ」
「それじゃ私の奢り損じゃん」
「なに、霊が憑いてた方がいいの?」沙織は茶化すように綾音の顔を覗き込んだ。
「それも嫌だけどさあ。でも結局不審者の仕業でしたっていうのも嫌だし。どっちにしたって既に最悪だよ」
綾音が先導し、沙織を部屋に案内した。
「ちょっと待って」部屋に入るなり、沙織の顔色が変わる。「いる! いるいるいるいるいる! 完全にいるじゃんこれ!」
「待って沙織、何がいるの?」
「霊に決まってるでしょ! あんたよくこんな所に平気で住んでるね」沙織は半泣きになっている。
「揶揄ってるんじゃないよね? ねえどこにいるの?」突然怯えだす沙織に、綾音は戸惑いを隠せない。
恐怖のあまり身を縮めながら、沙織は震える指で部屋の奥を指した。そこにあるのは、クローゼットだ。
幸か不幸か霊感が全くない綾音は、意を決してクローゼットに歩み寄った。扉に手をかけ、深呼吸する。
せーのっ!
「きゃああああああああああ!」
「きゃああああああああああ!」
「きゃああああああああああ!」
クローゼットを開けた瞬間、三人が同時に悲鳴を上げた。
三人?
突然扉が開いたことに驚き、僕は顔を隠して震えていた。
綾音は慌てて僕から離れ、スマートフォンを手に取った。
「け、警察、警察、通報、しなきゃ!」綾音はパニックになって、上手く操作することができないようだ。
「待って綾音、落ち着いて!」そう言う沙織もパニックを起こしている。こちらを指差して必死で訴える。「あれ、霊だよ! あの人がこの部屋に憑いてる霊!」
「は? 霊? そんなわけないじゃん! あんなにはっきり見えるのに」
「でも霊なんだってば! 生命力の強い霊なんだよきっと」
「死んでるのに生命力って何!」
慌てふためく二人に、僕は戸惑っていた。
「あの!」僕は叫んだ。「沙織さんの言う通り、僕は霊、みたいです」
「なんであたしの名前知ってんのよ!」沙織は悲鳴に近い声を上げる。
「ごめんなさい! 全部聞いてました」僕は床に正座して頭を下げた。「それから、綾音さんに僕が見えるのは、多分ここの家主だからだと思います。今までここに住んだ方は、みんな僕が見えてたので」
「じ、じゃあ、今までの住人も、みんなあんたが脅かして追い出してきたってこと?」綾音は問い詰めるように言った。
「そんなつもりじゃなかったんです!」僕は再び頭を下げた。「みなさん疲れて帰って来るので、少しでも力になりたいと思って、お手伝いしてたんですけど」
「掃除くらいならともかく、料理までされたら怖いに決まってるじゃん! しかもなんでフルコースなわけ? 食材使い切っちゃってさ!」
「ちょっと綾音、怒るところずれてる」
「すみません、なんだか張り切っちゃって」さすがにやり過ぎたという自覚はあり、僕は首を縮めた。
すると、綾音が沙織を引っ張り、後ろを向いてコソコソと相談を始めた。
「ねえ、あの人って、霊としてどうなの?」綾音が尋ねた。
「どうって?」
「悪霊なのかとか、そういう。悪い人には見えないんだけど」
沙織は振り返り、少しこちらを見てから、また綾音の方を向く。「今のところは、悪霊ではないみたいだけど」
「今のところって?」
「霊ってさ、この世に強い未練があったりすると、時間が経つにつれて悪霊に変化しちゃうことがあるの。あの人も、あれだけ存在が濃いってことは、かなり強い未練があるんだろうし、いつ悪霊に化けてもおかしくないと思う」
「うわ、なにそれ。こっわ」綾音は目を見開いた。
「だから、いくら良い人そうでも、さっさと祓っちゃった方がいいよ」
綾音はこくりと頷き、僕の方に向き直った。
「無駄ですよ」僕は言った。
すると、二人は怯えた顔になる。
「すみません、全部聞こえてました」僕は今度は頭を下げずに、二人を真っ直ぐに見て言った。「実は僕、何度も祓われてあの世に行ってるんですけど、その度に閻魔様に追い返されちゃうんです」
「追い返される? どうして」沙織は眉を顰めた。
「それが、詳しくは教えてもらえないんですけど、『まだここは通せない』って言われて」そして僕は、手をついて頭を下げた。「お願いします! きっと僕は、何かこの世にやり残したことがあるんだと思うんです。でも僕、生きていた時のことを何ひとつ思い出せなくて。このままだとあなたたちの言うように、僕はとんでもない悪霊になってしまうかもしれません。どうか、僕が成仏するのを手伝ってもらえないでしょうか」
綾音と沙織は顔を見合わせて、しばらく黙り込んだ。
「あなた、名前は?」綾音が言った。
「それも思い出せないんです」
「じゃあ、霊だから、レイ君ってのはどう?」
「ちょっと、それじゃ犬にイヌって名付けるようなもんじゃん」
「えー、かっこいいと思ったんだけど。じゃあ、幽霊のユウ君は?」
「それだって変わんないよ」
沙織はそう言ったが、何か心に引っかかるものがあった。「ユウ」と口に出して言ってみる。
「お、気に入った?」綾音が嬉しそうに言った。
「え、気に入ったの?」沙織は驚いた顔をする。
「ユウ、ユウ」僕は何度か繰り返した。「なんだか、懐かしい感じがする」
「ふーん。もしかしたら本当にユウって名前だったのかもしれないね」綾音が僕の顔を覗き込むようにして言った。「よし、決まり! ユウ。私があなたを成仏させてあげる」
「ちょっと綾音、やめときなよ」沙織が綾音の肩を掴んだ。
「いいの」綾音はその手を取り、そっと肩から下ろす。そしてこちらを向いて続けた。「その代わり、成仏できるまでの間、家事は毎日あなたがやること。それでどう?」
「あんたそれ目当てでしょ!」沙織は信じられない、と言う顔をした。
「だって幽霊ってことは、食事も休養も要らないんでしょ? 最高の労働力じゃん。それに家賃三万のこの物件を手放すのは惜しすぎるし」
「あんた最低だね」沙織は綾音に軽蔑の目を向けた。「呪われても知らないから」
「ね、どう?」と綾音はもう一度尋ね、右手を僕に差し出す。
僕は彼女の手を取った。「よろしく、お願いします」
綾音とユウの奇妙な共同生活が始まる。
『ワケあり物件
コンコン、とドアが鳴り、返事をするのも待たず、茶髪に黒縁眼鏡のマネージャーが入って来る。
「お疲れさん。きつかったろ?」ソファにだらしなくうつ伏せに横たわる神谷に、
マネージャーの癖に妙に馴れ馴れしい彼は、神谷にとって幼馴染でもある。
「平気じゃないよ。おかげで背中がバッキバキだ。真っ暗な中ずっと体育座りで、気が狂うかと思った」神谷は愚痴った。
「でも、パニックは起こさなかったじゃん。調子悪いと車乗るのも一苦労なのに」
そう言いながら那須はこちらに近づき、頼んでもないのに背中のマッサージを始めてくれる。
「それはまあね。オレも最初は不安だったけど、なんか役に入ってれば大丈夫っぽい」
「本当かよ。どういう理屈だ、それ」
さあね、と相槌を打つ。「でも、あんな不毛な長丁場、もう二度と懲り懲りだよ」
「はは。あの子たち、結構NG連発してたもんな。でもおまえがクローゼットから出てからはさすがだった。それまではずっとグダグダでピリピリしてたのに、全部一発OKだ。やっぱ令がいると、不思議とみんな緊張がほぐれる」
「なにさ急に。いつもそんな風に褒めてくれないじゃん」
「べつに。やっと調子戻ってきたなって、ちょっと嬉しくなっただけだ」
那須の顔を見上げてみれば、本当に嬉しそうに笑っていて、それがむず痒くて顔を伏せた。
こうして横になっていると、マッサージの気持ちよさもあって、眠ってしまいそうだ。うつらうつらとする頭の中に、夢なのか自分の思考なのか、主演女優の顔が浮かび、「でもさあ」と言っていた。
「彼女、ちょっと良いよね」
「おいおい、勘弁してくれよ」那須が手を止めた。顔には軽蔑の色が浮かんでいる。「同業者には手は出さないって言ってただろ」
「そういう意味じゃないってば」神谷はむっとした。「この間、僕が彼女に乗り移るシーンの稽古があったでしょ? 先に僕が演じて、彼女にそれを真似てもらうんだけどさ。彼女、みるみる僕を吸収してて、面白かったよ」
すると突然、背中に痛みが走った。那須が拳で思い切りグリグリとやってきたのだ。
「痛ったあ! なにすんのさ」飛び上がりながら叫ぶ。
「おまえは神谷令、ユウは役。また混ざってんぞ」那須が厳しい目つきで言った。
「あれ? そうだった?」神谷は頭を掻いた。どうにも僕は役と自分の切り替えが得意ではないらしく、役が抜け切らずに自分を見失うことがある。
「にしても、令が他人の芝居を褒めるなんて珍しいな」那須はマッサージを再開した。
「この間、ひさしぶりに友達と会ったんだけどさ」神谷は三年振りに再会した志水のことを思い起こした。
「ああ、『さっちゃん』な」
「なんで岳兄がさっちゃんを知ってるのさ」
「おまえがしょっちゅう『さっちゃんさっちゃん』言ってんだろ。しばらく名前聞かなかったと思ったら、この前舞台のゲネプロの帰りに『さっちゃんと連絡がついた』って大騒ぎしてたじゃねえか。ちなみにそいつにチケット手配したのは俺だ」那須は呆れ顔をする。「で? そいつがどうした」
そうだったっけか、とその時のことを反芻する。そうだったかもしれない。「うん。さっちゃん、職場の部下と一緒だったんだけど、その子と接するとき、なんか妙に生き生きしててさ。そういうのも良いかなって思ったんだよね」
「そういうの?」那須が聞き返す。
「後輩に胸を貸す、とか、手取り足取り指導する、みたいなの? そういうのも芸の肥やしになるかなって」
「おまえ」那須は再び、顔に軽蔑の色を滲ませた。「やっぱりそういう意味じゃねーか!」
「違うってば。信用ないなあ」神谷は今度は笑いながら言った。
「でも、
「えっ」神谷は驚き、半身を起こす。「結構歳下じゃなかったっけ。オレ小学生からやってんだよ?」
「あの子はゼロ歳からだ。べつにこの業界じゃ珍しいことじゃねえだろ」那須は馬鹿にするように笑った。
「あんなにグダグダだったのに?」
「売れだしたのは最近だからな。こんなでかい現場初めてで緊張してたらしいぞ」
神谷はまたうつ伏せになり、顔をソファに埋めた。「今の全部聞かなかったことにして」
那須が背中を強く押し、「ぐえっ」と声が漏れた。
***
幽霊役、と聞いて、おどろおどろしいキャラクターを想像していたが、神谷が演じるユウは幽霊らしさの感じられない控えめな青年だった。強いて言えば、顔が隠れるほどまで伸びた真っ黒な癖毛は幽霊っぽかったか。
しかしこの手の作品なら、ユウ役には売り出し中の若手アイドルがキャスティングされてもよさそうなものだが、神谷ほどの本格派を使うのにはわけがあるのだろうか。まあ、私は嬉しいからいいんだけど。
ユウと綾音の関係はどうなっていくのか、ユウの未練とはなんなのか、とにかく今後の展開から目が離せない。
『ワケあり物件1DK』を観たまま点けっぱなしになっていたテレビの画面が、ニュースに切り替わった。そろそろ消そうかとリモコンに手を伸ばしたが、口煩い上司に「ニュースを見ろ。せめて刑事事件だけでも目を通せ」と日頃から言われているのを思い出し、しばらく眺めてみることにした。
今日取り扱うニュースの一覧が表示される。三つ目の見出しを見て、宮本は目を疑った。
『茅原早妃さん7歳女児行方不明』
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