第1章『ふたごともども、悪しからず』(5)
「おい、いい加減起きろ」
低く冷淡な声が聞こえた。肩が揺すられている気がする。待って。今いいところなんだから。
「神谷令が」ぼんやりした頭で、必死に状況を説明する。
「神谷がどうした?」
「神谷令が、二人」
「おまえ、どんな夢見てるんだ」
「舞台の話じゃないの? 『春』と『秋』」
「神谷令が、バーテンダーで」
「それはさっきの話だな」
「ドラマの話かもよ。『酩酊探偵』」
「神谷令が、上司と友達で」
「それは現実だな」
「だね」
現実? そんなわけない。こんな変な状況、夢に決まってる。神谷令が夢に出てくれるなんて、今日はラッキーだ。出演料はいくら払えばいいのだろうか。
「おい、二度寝するな。起きろ」
肩を強く叩かれ、宮本は勢いよく身体を起こした。頭にかかっていた濃い霧が一気に晴れ、額の奥の温度がすうっと下がったような感覚がある。
「あれ、志水さん、何してるんですか?」
「何してるんですかじゃない。おまえがいつまでも寝てるから起こしたんだろ」
志水は心底呆れた、とでも言いたそうに溜め息をついた。その隣で、真っ黒なボサボサ頭の男がケタケタと笑っている。
「この子、キミの部下とは思えないくらい可愛いねえ」
嘘でしょ。この人、神谷令だ。
あれ、神谷令ってこんな感じだったっけ?
いや、これはどう見ても神谷令だ。
嘘でしょ?
「おい。俺の部下を性的な目で見るのはやめろ」
「やだなあ、そんなんじゃないよ。オレ、ファンの子には手え出さないよ?」
「どうだか。信用できないな」
会話の内容はさっぱり耳に入って来なかったが、どうやら神谷令とうちの上司が談笑しているらしい。憧れの俳優と職場の上司なんて、一番組み合わせちゃいけないものだろう。
なんだこの状況は? バーテンダーの神谷令は夢じゃなかったんだっけ? 神谷令と会えるなんて幸せな夢だと思っていたのに、現実としては最悪じゃないか。大好きな俳優の前で、私は一体どれだけの痴態を晒したのだろう。恥ずかしさで焼け死にそうだ。
ああ、胸が苦しい。気が遠くなる。
その瞬間、背中にバシンという打撃を受け、宮本はむせ込んだ。それでようやく我に返る。
「おい、ちゃんと息をしろ」志水が背中をさすってくれている。あまりの衝撃に、呼吸をするのを忘れていたのだ。
宮本はひいひい言いながら、やっとのことで呼吸を整えた。それでもまだ心臓はドラムロールを奏でている。
「まったく、二度も卒倒するなよ」志水は呆れ顔だ。
「大丈夫? そういえばキミ、お名前は?」神谷は宮本の目を覗き込みながら言った。
「み、宮本弥子です」宮本は、なんとか絞り出した声で答える。七日目の蝉でももう少し良い声で鳴くぞ、というくらい酷い掠れ声だ。
「ミコちゃんね。ボクは神谷令です。超人気俳優で、さっちゃんの友達」さっちゃん、と志水の肩を掴みながら、神谷は言った。
超人気なんて自分で言うのかとか、志水さん、そんな可愛い渾名で呼ばれてるのかとか、色々なことが頭を過ぎるが、喉が詰まって上手く言葉にならない。
「ミコちゃん、ボクのファンなんだって? いつも応援ありがとうね」
そう言って差し出された神谷の右手に、宮本は戸惑う。
どうしよう。これは握り返してもいいのだろうか。つまり握手してもらえるということだろうか。それはあまりに恐れ多過ぎやしないか。一回手を洗って来てもいいだろうか。
半ばパニックになりながら、恐る恐る、震える手を伸ばすと、神谷がその手を捕まえ、柔らかく握ってくれた。
どうしよう。私は今、神谷令と握手している。脳味噌が沸騰しそうだ。
「おまえから握手を求めるなんて珍しいな」志水が神谷に向かって言う。
「さっちゃんが言ったんじゃん。ちゃんとファンサービスしろって」
「そうか。すぐに実践して偉いぞ」
神谷の手を握ると、ようやく目の前に神谷令がいるという実感が湧いてきた。
そうだ。いつか神谷令に出会えたら、伝えたいと思っていたことがあるはずだ。今言わなくてどうする。
「あの!」煮立った頭では言いたいこともまとまらないまま、見切り発車で口を開いた。あれ、何を言おうとしたんだっけ。「あの、あの。その、好きです!」
神谷の目が点になった。「どうしよ。いきなり告白されちゃった」
「あ、違うんです! いや、違くないんですけど」言いたいことは沢山あるのに、気が急くあまり、言葉が玉突き事故を起こしてしまっている。上手く言えなくてもどかしい。「あの、私、神谷さんの作品、いつも観てて」
「うん、ありがとね」
「映像が残ってるものは、過去の作品も全部チェックしてて」
「うん、すごいねえ」
「本当に全部好きなんですけど」
「そっか、全部かあ」
「あ、でも勘違いしないでくださいよ。神谷令が出てればなんでもオッケーみたいな、そんな安易な気持ちで言ってないですからね。神谷さんの出演作は全部隅々までじっくり観た上で、結果的にやっぱりどれも好きと言いますか」
「キミ急にすっごい喋るねえ」
いつの間にか、神谷の手を両手でがっしりと握っていた。神谷は若干のけぞりながらも、宮本の拙い話を頷きながら聞いてくれている。
「その中でも、特に」神谷の真っ黒な瞳がこちらを見つめているのに気付き、宮本は緊張してしまう。恋い焦がれる相手に想いを告げるのは、こんな気持ちかもしれない。「『土器ラブ』が、本当に大好きで」
「えっ」神谷がびっくり顔になった。「『土器ラブ』が?」
「意外ですか?」意外でしょうね。と宮本は思う。あのドラマはあまり、世間的な評判は良くなかったから。
「うん、まあ、ちょっとね」神谷が気まずそうに瞳を逸らす。
「ドキラブ?」と志水が言った。この手の話題にあまり興味のない彼だが、知らない単語が飛び交うのはやはり気になるのだろう。
「『時空文通 土器土器ラブレター』です」宮本は答える。『土器土器』のドキは縄文土器の『土器』です、とも言った。
「ああ、さっき神谷が話していたな。たしか、あまり流行らなかったとか」
「私は好きなんです!」つい声が大きくなった。『土器ラブ』を馬鹿にするなんて、たとえ上司でも許せない。「本当、大好きなんですよ。神谷令が最高にダサくて」
「ダサいのはオレじゃなくて由紀夫君ね」神谷が神経質に訂正する。
「面白いのか、そんなの」
「泣けるんですよ」
「神谷がダサくて泣けるのか」
「ダサいのは由紀夫君だってば」神谷はしつこく訂正する。
「私、『土器ラブ』に命を救われたと言っても過言じゃないんです。だからずっと、神谷さんにお礼を言いたくて」
「いや、それはどう考えたって過言でしょうよ」
「過言じゃないんです!」宮本は神谷の腕をブンブンと振った。
「分かった、分かったから。もう、充分伝わったって」
うんざりした様子の神谷を横目に、志水が笑っている。「よかったな。ちゃんと届くところには届くんだ」
志水さんが笑ってるところなんて、初めて気がする。その表情がとても穏やかで、心から嬉しそうで、宮本はぼんやりと上司の顔を見つめてしまった。
床に座ったまま話し込んでいたことに気付き、宮本たちはカウンターに移動した。左から神谷、志水、宮本の順に並び、それぞれ席に着く。
神谷令は不思議な人だ。彼の放つ空気に直に触れて、宮本はそう思った。
まるで澄んだ水に一滴の絵の具を落とすように、ほんのちょっとした指先の動きひとつで空気の色を染め変えてしまう。小洒落たバーであるはずのこの空間にも今は、学校の教室で駄弁っているかのような気安い空気が流れている。私もいつの間にか、随分落ち着いていた。
「そういえば志水さん、『さっちゃん』って呼ばれてるんですね。可愛くてびっくりしちゃいました」憧れの俳優の前で恥をかかされた仕返しには到底足りないが、宮本は志水を揶揄うつもりで尋ねた。
「俺も昔は可愛かったんだ」志水は真顔で答える。
「それ自分で言います?」
「でも、ほんとに可愛かったんだよ。背もちっちゃかったしね。『前ならえ』のときに腰に手を当ててたタイプだよ」神谷はにやにやと志水を見た。
つまり、身長順に並んで先頭、クラスで一番小さかったということだ。この仏頂面の大男からはなかなか想像し難い。
きっと、二人はかなり長い付き合いなのだろう。交わす言葉の端々からそれが感じ取れる。こんなに隙のある上司は初めて見た。
「しかし、ファンとは恐ろしいものだな」志水はグラスをカラカラと鳴らしながら、神谷の方を向いた。「おまえのためなら命も惜しくないとか言いだしかねない」
「それは」と宮本が答える。「惜しくないですね。全然」
「やめてよ。オレそんなの背負えないから」
「宮本も大概だが、吉田も相当なものだったぞ」
「吉田さんがどうしたのさ」と神谷が聞き返す。
そういえば、神谷は一体、吉田の事業にどのように関わっていたのだろうか。どうやらその話は、宮本が眠っている間に済んでしまったようだ。
「昨日、吉田に会いに行ったんだ。おまえとの関係について問い質したら、あいつなんて言ったと思う? 『事業に関する情報は全て正直に話す。その代わりに神谷君のことはなかったことにしてれないか』と懇願してきた。それまで、どんな尋問を受けても一切情報を漏らさなかった吉田がだ」
「は? そんなのめちゃくちゃだ」
「俺もめちゃくちゃだと思ったよ。自供すれば吉田自身だって重い刑罰を受けることは免れないのに、たかが贔屓の俳優のためにどうしてそこまでするのかと。だが、それだけおまえが吉田にとって大切な存在だということなんだろう」
「そんな」神谷の瞳が揺らいだ。「そんなことされてもオレ、応えられないのに」
「応える必要なんてないさ。少なくとも吉田は、おまえに対して見返りを求めているわけではない」
志水はグラスを置き、小さく息をついた。伏した瞼が持ち上がった時、その瞳は、鋭く冷たく光っていた。
「吉田が提供した情報のおかげで、件のグループは壊滅に追い込めるだろう。吉田に免じておまえに刑事処分は科さない。だが、罪は償ってもらう」
神谷は「どういうこと?」と怪訝そうに眉を顰めたが、宮本はその意味を察した。嫌だ。神谷令にそんなことさせたくない。
「神谷。おまえ、うちの組織で働け」
「駄目ですよ!」予想通りの志水の言葉に、宮本は口を挟まずにいられない。「そんなの、刑罰受けるよりよっぽど危険じゃないですか」
「普通はそうだな。だが神谷にとっては違う。今回のことが明るみに出れば、神谷は二度と表舞台に立てなくなる」
「そうかもしれませんけど」だからと言って、神谷を命の危険に晒していいわけがない。
「神谷から芝居を奪うのは生きる術を奪うのと同じだ」
「ちょっと待ってよ」神谷が割って入った。「話が読めないんだけど。さっちゃんの組織ってなんなの?」
「『総合調整局』という。警察庁直下にある、設立三年目の秘密組織だ」
志水は本気らしい。本来ならば部外者の前では口に出すことすら許されない組織の名前を、あっさりと神谷に伝えてしまった。
「全然知らないな」
「秘密組織だからな。当然だ。警察の中でもごく一部の人間にしかその存在は知らされていない」
「『調整』って、何を調整する組織なの?」
「名称は便宜上当たり障りのない名前を付けただけだろうが、あえて言うなら、この世の不条理、かな」
「なんだか雲行きが怪しくなってきたなあ」
「警察は法律の範囲内でしか動くことができない。法を正しく運用するのは必要なことだが、その反面、法でがんじがらめになるあまり、裁くべきものを裁けず、守るべきものを傷つけてしまうことも多い。そういう不条理を調整するために、この組織は生まれた」
「ふうん」のんびりとしたその反応からは、神谷の感情は読み取れない。「具体的にはどんなことをしてるの?」
「基本的には警察が動けるようにするための御膳立てが多いな。不法な捜査で情報を集めたり、潜入して証拠品を盗んだり、犯罪予備軍を唆して罠に嵌めたりだ。それでもどうにもならない場合は、最悪殺すこともある」
「それってさ」神谷は腕を組み、顎に手を当てた。その様子に深刻さが欠けていて、なんだか嫌な予感がする。「要は、スパイみたいな感じ?」
「まあ、目的は少し違うが、やっていること自体はそれに近いな」
「いいねえ、スパイもの」
神谷が不敵な笑みを浮かべ、志水が「は?」と低い声を上げた。
「今ちょうど、スパイ映画のオファーが来てるんだ。オレ、役作りではできる限り本場で経験を積む主義だからさ。これは絶好の機会だよ」
「おまえ」志水は絶句している。「全然反省してないだろ」
「そんなことないって。ちゃんとしてるよ」
「いや。おまえは自分のしたことの大きさを分かっていない」
「分かってるってば。オレが吉田さんを手伝わなければ被害遭わずに済んだ人がいるって言いたいんでしょ? だから反省して、禊としてキミの組織で働かせてもらうよ」
「やっぱり反省してないな」
「それにさあ」と、神谷がにやりと笑う。「オレ、結構使えると思うんだよね。台本さえもらえればどんな役だってできるし、アドリブも得意だ。潜入とかハニートラップとか、結構向いてると思うよ。役者としてなら、役に立つ自信がある」
てっきり志水は怒ると思ったのに、彼は一瞬ぽかんと口を開けた後、「そうか、自信があるか」と言って笑いだした。全くわけがわからない。
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