第1章『ふたごともども、悪しからず』(4)

「着替え終わったよ。その子、そこじゃ可哀想だし、裏に寝かせてあげたら?」

 バックヤードから出て来た神谷が、遠目にこちらの様子を伺いながら言った。神谷はバーテンダーの衣装を着替え、ジャージのズボンに黒のパーカーという、寛いだ格好になっている。

 可哀想とは宮本のことだ。彼女は憧れの俳優との対面に驚愕するあまり、卒倒してしまったのだった。叩いても目を覚ます気配がないので、段ボールで即席の敷布団を作って店の隅に寝かせているところだ。

「いや。バックヤードに置いてしまったら、起きた時に戸惑うだろう。目の届くところにいてもらった方がいい」

 志水のコートをかけてやると、宮本は肩から足首まですっぽりと隠れた。呼吸と脈拍に異常はないから、じきに目覚めるだろう。

「さて。随分遊んでしまったが、そろそろ本題に入ってもいいか」

「ありゃ。オレが恋しくなって会いに来たんじゃなかったの?」

「それもあるが、別に用件もある」

 志水がカウンター席に着くと、神谷も左隣に座った。

「なにさ」と彼は首を傾ける。

 どの手札から切るべきかと、神谷の横顔を見つめながら思案する。いや、こいつに対して小細工はしたくないな。

「おまえ、一年半ほど前に麻薬密売事業に関与しただろう」

 時が止まってしまったのかと思うくらい、神谷は動かなくなった。助け船は出してやらない。神谷が自ら正しい選択に辿り着くことを期待しながらじっと待っていると、彼はやっとのことで「は?」と、一文字だけを絞り出した。

 さすがにそう簡単には行かないか、と残念な気持ちを殺しつつ、次の手札を切る。「正直に答えてほしい。吉田幸平という男の名に覚えがあるはずだ」

「いやあ、知らないなあ」神谷は目を泳がせ、口元を右手で覆った。あからさまに動揺しているのが見て取れる。

 その様子に、志水は苦笑せざるを得ない。「一流俳優ならもう少し上手に嘘をつけよ」

 神谷の両手は頭に移動した。髪がかき上げられ、額が露になっている。隠しても無駄だと悟ったのだろう。呻くように「なんで」と漏らした。「なんでばれたの?」

「吉田の自宅から、おまえのサイン入りのTシャツが見つかったんだ」

 吉田のマンションのリビングに飾ってあった『ヒロイック☆ギャング』のTシャツの背面には、神谷のサインが入っていた。コレクションとして複数並べられているわけでもなく、まるで貴重な記念品のように額装されていることを不審に思い、額から外して調べてみたのだ。サインの入った面を表にしていなかったのは、来客に神谷との関係が知られないようにするための配慮かもしれない。

「おまえ、サインなんて滅多に書かないだろ。あれは、例えば街中でおまえと出会ってサインをねだったとか、そういう偶然で入手できる物じゃない。サイン入りのグッズをプレゼントするキャンペーンがあったのかとも考えたが、『ヒロイック☆ギャング』ではそんな催しはなかった。あのTシャツは、吉田がおまえと面識がある証拠だ」

 はあー、と神谷が息を吐いた。「しまったなあ。サインなんてあげるんじゃなかった」

「逆だろ。おまえは普段から、もっとちゃんとファンサービスをするべきだったんだ。おまえのサインがそれほど希少な品じゃなかったら、俺だってTシャツ一枚では疑わない」

「嫌だよ。オレはね、『神谷令』の存在を消したいんだ。オレの芝居と作品が愛されていれば、それでいい」

「ファンが聞いたら悲しむな」

 グラスを持ち上げた。氷は既に溶けてなくなり、焦茶色の液体にグラデーションを作っていた。一口、口に含むと、うっすらと香ばしく烏龍茶の面影が香る。

「どうしてそんなことをしたのか、話してくれるな?」

「別に。ただの役作りだよ」

「役作りのためにそこまでするのか」

「オレにとっては普通のことだよ。例えば、『酩酊探偵めいていたんてい』ってドラマでバーテンダー役を演った時には、この店で修行させてもらった」

 このバーは、神谷の事務所の先輩が趣味で経営している店なのだという。今日は定休日のため、その先輩に頼んで場所だけ貸してもらったそうだ。

「他にも、漁師役を演った時には一ヶ月漁船に乗ったし、病人役の時には、自分が病気になることはできないけど、同じ病気の人を何人も訪ねた。緻密な役作りと、そこから生まれる生々しい感情表現。神谷令に求められてるのはそういうものだ。本物の現場で生の経験を積むことが、オレの役作りには必要なんだよ」

「ならばおまえは、殺人犯役を演じるときには人を殺すのか。殺される役のときには? いくら役作りのためだとしても、できないことはあるだろう。越えてはならない一線を踏み越えてしまった理由があるはずだ」

 すると神谷は志水の目を睨むように見つめ、すぐに顔を伏せた。グラスを握る手に力が込もったのが分かる。

「焦ってたんだ」神谷がぽつりと言った。「『時空文通 土器土器ドキドキラブレター』っていう、盛大にこけたドラマがあるんだけど、その時、オレの師匠みたいな人から言われちゃったんだよね。『役作りが甘い』って」

「それはたしかに、こけそうなタイトルではあるな」

「脚本は悪くなかったよ。悪いのは主演のオレだ。美術史オタクの由紀夫ゆきお君が縄文土器職人の女の子と時空を超えて恋に落ちる物語で、結構面白かったんだけど。その頃、無理に仕事を詰め込み過ぎてて、役作りに充分に時間が取れてなかった。オレのせいで台無しにしちゃったんだ。だから次の作品の『ヒロイック☆ギャング』では挽回したくて、本場に乗り込んだ」

「そうか」神谷らしいと言えば神谷らしい。芝居のことしか頭にないような男だ。「吉田とはどうやって知り合ったんだ」

「それは、たまたま。吉田さん、個人でやってた頃から業界に客を持ってたみたいで、色んな人に『神谷令のファンだ』って公言してたんだって。それである日、薬やってる役者仲間に誘われてパーティに行ったら、主催が吉田さんだった」

「まさか、売られたのか」

「まあね。そいつ、ツケが溜まってて結構やばかったらしくてさ。オレに会わせる代わりに支払いを待ってもらったって、後から謝られたよ。でもオレにとっては渡りに船だった。吉田さんのグループで勉強させてくれって頼み込んだら、二つ返事でOKくれたよ」

 なんとまあ、迷惑な巡り合わせもあるものだ。ひとつでも掛け違えていれば、こいつは道を踏み外さずに済んだかもしれないのに。

「吉田の傘下に入ってからは、おまえは何をやっていたんだ」

「言っとくけど、薬には一切触ってないからね」警戒するように神谷が目を細め、瞳をこちらに向けた。「当時の吉田さん、めちゃくちゃ舐められててさ、手下が全然言うこと聞かなかったんだよ。あの人、商売の腕は良いけど性格が温和だから、ヤクザの世界じゃ通用しなかったみたいでね。だから吉田さんはオレを右腕に置いて、吉田さんに逆らった手下を締める役をオレに任せた」

「締める、とは?」暴力団組織内でのことだ。悪質な暴行が行われていてもおかしくない。

「ちょっと脅かすだけだよ。『てめえ、兄貴に逆らったからにはどうなるか分かってんだろうな』ってね。それだけで大抵、充分にびびってくれる。そしたら吉田さんがその場を収めるようなことを言っておしまい。そいつはもう、二度と逆らわなくなる」

「信じられないな」数々の修羅場を潜っているであろう暴力団員をたった一言で怯えさせるなんて、一体どんな演技だったのだろう。想像しようと試みるが、上手く行かない。

「本当のことだよ。キミに嘘をついたって無駄でしょ」そう言って神谷は肩をすくめた。「『ヤクザは面子が命』ってのは本当だね。あれはプライドとかそういう次元の話じゃない。生存戦略だ。あの世界ではシンプルに、強い者が上に立つ。そして怖い人は強そうに見える。オレに怯えてる手下たちは、オレが付き従ってる吉田さんにも一目置くようになった。そうやって吉田さんはグループの中で力をつけていったんだよ」

 腹の底から陰鬱な思いを押し出すように、深く溜め息をついた。「予想していたより質が悪いな」吉田が加入してからグループの事業が急成長したのは確かだ。当然、被害の範囲も拡大している。その裏側に神谷の活躍があろうとは。

「オレを逮捕する?」

 神谷は頬杖を突き、身体をこちらに向けた。顔には不敵な笑みを浮かべているように見えるが、その皮膚の下には諦念が隠れていることが志水には分かる。

「いや、しない」

「え?」神谷はきょとんと目を丸くした。「オレを捕まえに来たんじゃないの?」

「しないし、できない」

 神谷は怪訝そうに眉を顰める。「証拠がないとか、そういうこと?」

 正直、それもある。神谷の行いは脅迫罪に該当する可能性はあるが、暴力団組織内で行われたことの証拠を集めるのは不可能に近いだろう。だが。「違う。権限がないんだ。俺はもう、警察官じゃない」

「そうなの?」神谷の声が大きくなる。「じゃあ、どうして吉田さんの事業のことなんか」

「警察官は辞めてしまったが、警察庁内の職員ではあるんだ。犯罪に関する情報を入手することはできる。吉田のグループについて調べていたところ、吉田とおまえの関係に気付いて、心配で事情を聞きに来た。このことはまだ、警察には伝えていない」

「へえ」神谷は拍子抜けした風に、ぽかんと口を開けている。「どうして、警察を辞めちゃったの? キミはあの仕事、結構気に入ってると思ってたけど」

 薄まった烏龍茶の入ったグラスを持ち上げた。喉は渇いていないが、間を誤魔化すように口に運ぶ。

「辞令が出ただけだよ。警察庁内に新しく組織ができて、警察官が数名移籍した」

「ふうん」

 それだけの説明で済ませるつもりだったのに、少しも疑問を持つ様子のない神谷の惚けた相槌を聞いて、つい余計なことを口にしてしまう。

「ただ、内示された時点で、断ることもできたんだ。それでも辞令を受けたのは」

 自分が拳を握り締めていることに気が付いた。だが、上手く力を緩めることはできない。

「正論で救えるものの少なさに、嫌気が差したからだ」


 背後から物音がして、神谷との会話は遮られた。壁際に置いたのが悪かったか、宮本が寝返りを打とうとして壁に蹴りを入れている。

「そういえば、あの子は誰なんだっけ?」神谷が尋ねた。言われてみれば、『おまえのファンだ』としか説明していない。

「あれは俺の部下だ」

「なんだ。部下なの? チケット二枚あげたら彼女でも連れて来るかと思ってたのに。珍しく長続きしてる子、いなかったっけ?」

「うるさいな。あれはもう別れた」

「ふうん? キミも苦労してるねえ」つい語気が強くなったが、神谷に気にした様子はない。「それにしてもあの子、よく寝てるね」

 宮本はむにゃむにゃと寝言を言いながら、壁にゴツゴツとぶつかっている。どんな夢を見ているのか、幸せそうな寝顔だ。

「まさか卒倒するとは思わなかったな。ファンでもあそこまで見事に騙せるものなのか」

「オーラを消せば、結構ばれないよ。普段街中歩いてても滅多に声かけられないし、女の子ナンパしてホテルに連れ込んでも、神谷令だってばれたことない」

「最低だな。本当、おまえみたいな奴のどこが良いんだ」

「あのねえ。キミみたいな堅物よりも、オレくらい親しみやすい方がモテるんだよ」

「おまえは軽薄なだけのろくでなしだろう。惚れる女は見る目がない」

「分かってないなあ。キミはそんなんだから、『あなたってつまらない人ね』って、振られたりするんだ」

 その言い方が昔の女にあまりに似ていて、志水は動揺する。「その話、したか?」

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