第1章『ふたごともども、悪しからず』(3)

 夕食時だからか、店内は空いている。劇場すぐ近くの立地なのだから人気作の終演直後なんて混みそうなものだが、皆この時間はレストランにでも行くのだろうか。

 宮本は窓際の席を選んだ。預かった鞄を手前の椅子に置き、自分は反対側に腰かける。顔を右に向けぼんやりと外を眺めてみるが、先刻まで自分たちがいた劇場が見えるくらいで特に面白味はない。

 しばらくそうしていると、すぐ近くでカチャリと音が鳴った。顔を上げてみれば、志水がマグカップを二つ乗せたトレーをテーブルに置いたところだった。カップの中身はコーヒーと紅茶だ。

 志水は椅子に腰を下ろしながら、「好きな方を選べ」と言った。

 志水がコーヒーより紅茶の方を好むことは知っているので、特にこだわりのない宮本は「ありがとうございます」と言いながらコーヒーを手に取った。その代わり、志水がストレートで飲むのを好むことも知っているので、二つずつある砂糖とミルクは全て宮本のものだ。

 志水は紅茶を自分の方に引き寄せた。カップを持ち上げて紅茶を啜るその所作は美しく、彼の育ちの良さが窺える。

「こっちでも親しい友人ができたようで安心した」

 突然志水が親戚のおじさんのようなことを言ったので、宮本は面食らってしまった。「なんですか急に」コーヒーを溢したことに気付き、慌てて紙ナプキンを広げる。「さっきの早妃ちゃんのことですか?」

「おまえは俺が地元から引き離したようなものだからな。責任を感じていたんだ」

「ああ」そんなこと気にしなくていいのに、真面目な人だなと思う。志水はきっかけをくれただけで、決めたのは宮本なのだから。

「その後、地元の友人とはどうしてる? ちゃんと連絡は取っているか」

 宮本にとって唯一と言える親友の顔が浮かんだ。おかっぱ頭がトレードマークで、宮本のことを『ミミ』と呼ぶ、同い年の女の子のことだ。毎日のようにドラマの感想を語り合ったのが懐かしい。しかしそれはそれとして。

「あの。どうしたんですか、本当に」

 志水が宮本のプライベートに興味を示すなんて珍しいどころじゃない。記憶の限り、初めてのことだ。

「いや、すまない。詮索しようというわけじゃない。ただ、俺の友人のことを考えていたんだ」志水は呼吸を整えるように、紅茶を口に運んだ。「昨日、吉田が事業に関する情報を吐いた」

 志水に言われて、ようやくそのことを思い出した。そういえば昨日、志水は一人吉田宅に残って、何をしていたのだろう。神谷令の舞台に浮かれるあまり、すっかり頭から抜けていた。

「それで、俺の友人が吉田の事業に関与していたことが分かったんだ」

「それはそれは」驚くあまり、上手い言葉が見つからない。「なんと言いますか」

 つまりは、志水の友人が犯罪を犯した可能性があるということだ。それは志水にとって、酷く辛い事実なのではないか。

「気を遣わなくていい」宮本の様子を察したのか、志水はそう言った。「元々危なっかしい奴だったんだ。それに吉田によれば、法的に罪に問えるようなことは、あいつにはやらせていないそうだ」

「そうなんですか」そうは言っても、だ。

「だが、事情を確かめないわけには行かないから、昨晩あいつに電話をかけた。そうしたら、名乗った途端に切られてしまってな」

「嫌われてるんですか?」

 宮本が冗談半分で言うと、志水は渋い顔で紅茶を啜った。「多分、怒ってるんだ」

「え、何かしたんですか?」

「三年ほど前に約束をすっぽかして、それ以来一度も連絡を取っていなかった」

「ああ」だからさっき、急に親戚のおじさんみたいな話を始めたのか。そりゃあその友人は相当心配しただろう。怒って当然だ。この真面目な上司にそんな一面があったことに、宮本は驚いた。「なんでそんなことしちゃったんですか」

「まあ、色々あったんだ」

 色々あった、と人が言うときは大抵、それ以上話したくない、という意味だ。そう言われると、ますます気になる。

「その後一向に電話には出てくれないが、メールで今日の舞台のチケットが送られてきた」

「なんだ、連絡取れたんですね」それで今日、宮本を舞台に誘ってくれたのか。「この辺でお友達と待ち合わせてるんですか?」

「いや、待ち合わせはできていない」

「え?」

「一方的に送りつけてきただけで、返信は来ない」

「じゃあどうするんですか」

「だから今、張り込み中だ。あいつは今日この劇場にいるから、出て来たところを捕まえる」

「なんですか、それ」

「面倒臭い奴なんだよ」

 その人は志水に会いたいのだろうか。会いたくないのだろうか。わけがわからない。一体どんな怒り方をしたら、そんなちぐはぐな行動に出てしまうのだろう。

 あの子も、と宮本は思った。

 あの子も、怒ったらそんな面倒なことをするのだろうか。それは嫌だな。今日家に帰ったら、一年半振りに連絡してみようかな。

「おまえ、良い席取ったな。ここからだと、劇場の楽屋口がよく見える」言いながら志水は、立ち上がっている。

「どうしたんですか?」

「奴のお出ましだ」志水は半分くらい残っていた紅茶を一気に飲み干した。「おまえは車に戻って、指示があるまで待機していろ」

 そして、片付けは頼んだ、と言い残し、志水はさっさと立ち去ってしまった。

 はあ? と叫ぶのをぐっと堪え、宮本も遅れて立ち上がる。コーヒーを飲み切り、マグカップをトレーの上に回収し、返却口に運んだ。

 店先に出て左右を見回してみるが、上司の姿は既にない。


 車で二時間も待たされたから、どんな遠くまで行ってしまったのかと思いきや、呼び出されたのは劇場からそう遠くない場所だった。しかも、結局車は要らないそうだ。一体なんなんだ。

 古びたドアを開けて建物の中に入ると、そこは小さなバーのような空間になっていた。外に看板は出ていなかったが、営業はしているらしい。

「志水さん」と上司の背中に声をかけると、表情のない顔が振り返った。

「ああ、来たな」と志水は言い、宮本に希望も聞かずドリンクを注文する。「マスター、こいつに烏龍茶を」

 ここは隠れ家的なバーなのだろうか、本当に小さな店だ。席はカウンターのみで二人以外に客はおらず、店員もマスターの一人だけだった。

 マスターと言っても志水がそう呼んだというだけであって、店の経営者としては随分若く見える。何も言われなければアルバイトだと思っていたかもしれない。しかし、たしかに彼の佇まいには若者らしからぬ貫禄があり、店主に相応しい風格も感じる。烏龍茶をグラスに注ぐ所作も澱みなく、一級品の酒が注がれているかのような錯覚を覚えた。いや、ただの烏龍茶だが。

 宮本は志水の隣に腰かけた。カウンターチェアは背が高く、足が宙に浮く。

「どうぞ」よく磨かれた六角形のグラスに注がれた烏龍茶が宮本の前に差し出された。氷がパキパキと音を立てる。

 烏龍茶を一口飲み、「あの、思ったんですけど」と宮本は言った。

「なんだ」

「今日、三年振りにお友達に会うんですよね。私ってすごく邪魔じゃないですか? 積もる話もあるでしょうし」

「構わないさ。積もる話は別の機会にすればいいし、おまえみたいな熱心なファンに会えれば、あいつも喜ぶ。そもそも向こうがチケットを二枚も寄越してきたんだ。空席を作るのは申し訳ないだろ」

「志水さんって、冷血そうな顔して案外律儀なところありますよね」

「俺は冷血そうな顔をしているのか?」志水は絶対零度の眼差しで宮本を睨んだ。

 その顔ですよ、その顔。

「お友達は舞台の関係者ってことですよね?」

「ああ。そういえば、今日の舞台はどうだった?」

 そう問われた瞬間、自分の中でスイッチが入ったのを感じた。終演直後の興奮が蘇り、体温が上昇する。

「そりゃあもう、最高でしたよ!」思ったより大きい声が飛び出たが、構わず続ける。「私、初めて生で神谷令を見たんですけど、あんなにかっこいいんですね。顔もスタイルも声も全部良い。今日の衣装も似合ってたなあ。その上『春』と『秋』を完璧に演じ分けるあの演技力。どうなってるんですかって話です。まさに天才、超人、芝居の神様ですよ!」

「随分その俳優にご執心なんだな。どこがそんなに好きなんだ。顔か?」

 勢いよく喋り過ぎたかな、と自覚はあったが、意外にも志水は呆れずに話に付き合ってくれる。

「顔が好きなのは大前提なんですけど、演技ももちろん好きですよ。なんていうか、すごくリアルなんですよね。神谷令が演じてると、そのキャラが実在する人物に思えてきちゃって、つい感情移入しちゃうんですよ」とそこまで語って、神谷令の話しかしていないことに気付き、慌てて付け足す。「あ、でも、良かったのは神谷令だけじゃないですよ。コメディとしてもめちゃくちゃ面白かったです。登場人物がみんな滑稽でおかしくて、笑いが止まりませんでした」

「そうか。そりゃあよかった。あいつにも話してやってくれ」

 そういえばそうだった。今日はその人に会いに来たのだ。あの素晴らしい舞台の制作に関わった人に会えるなんて、楽しみで仕方ない。その人が違法事業に関与していたことなんて、どうでもよくなる。

「お友達は、舞台で何を担当されてる方なんですか?」

「今日の出演者だから、おまえも分かると思うぞ」

「えっ、役者さんなんですね」志水に役者の友人がいるとは、なんとなく意外に感じた。「役名はだいたい覚えてますけど、役者名までは知らない人も多いですよ。なんて方ですか?」

 志水はグラスを傾け、正面を向いたまま視線を宮本に向けた。

「神谷令だ」

「は?」

「だから、神谷令だ」

「え、かみやれい?」

「そうだ」

 宮本は絶句した。酸欠の金魚のように口をパクパクと動かしてみるが、上手く言葉が出て来ない。

「どうした、喜ぶと思ったんだが。ファンなんだろ?」志水は意地悪く言う。

「ファンだからですよ!」宮本は声をひっくり返した。「志水さんはぜんっぜん分かってない! 私にとって神谷令は、神様みたいなものなんですよ? 会っちゃいけないんですよ。知らないんですか? 神様に近づき過ぎると光に当てられて焼け死ぬんですよ?」

「少し違うと思うぞ」

「なんでせめて昨日のうちに教えてくれなかったんですか。もっと気合い入れてくるんだったのに!」

「言っておくが、神谷に色目を使うのはお勧めできないぞ」志水は白けた顔をした。

「そんなつもりじゃないです!」

「じゃあどういう感情で言ってるんだ」

「乙女心は複雑なんですよ」

「それなら会うのはやめておくか? 帰ってもいいぞ」志水は面倒臭そうに言った。

「会うに決まってるじゃないですか! こんな機会逃せませんよ」

「会うと焼け死ぬんじゃなかったのか」

「志水さんよく言ってるじゃないですか。任務は常に死と隣り合わせだって」

「そんな死因で部下を殉職させたら俺の首が飛ぶな」

 呆れる志水をよそに、宮本は烏龍茶をぐびぐびと飲み干し、深呼吸をした。とりあえず、一旦、落ち着こう。

「ん?」落ち着いた頭の中に、一点の疑問が浮かんだ。「神谷令はどこ行っちゃったんです?」

 志水は頭を抱え、深々と溜め息をついた。「ようやくそこに気付いたか」

「志水さん、カフェを出た後、神谷令を追いかけたんですよね? 見失っちゃったんですか?」

「俺がそんなヘマをすると思うか?」

「思いませんけど、現に神谷令はここにいませんし」

「ちゃんと追いついたよ。神谷もここにいる」

「え?」

 宮本はキョロキョロと店内を見回したが、志水とマスターの他に人影はない。

 その様子を見て、志水は面白がっているようだった。瞳の奥が悪戯っぽく光り、纏う空気が弾んでいる。

「マスター、そろそろ種明かしを」志水がカウンターの奥に向かって言った。

「かしこまりました」

 マスターはそう言い、上げていた前髪をぐしゃぐしゃとかき下ろした。

「じゃーん、ボクが神谷令でーす」

 宮本は呆気に取られ、再び言葉を失った。

 少し癖のある真っ黒い髪。吸い込まれてしまいそうな大きな瞳。天に向かって伸びる長い睫毛。怪しく微笑みを湛えた口元。

 そこにいるのは確かに、壇上で見たあのスターだ。

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