序章『ヒロイック☆ギャング』(3)

 身の安全が確保できるまで系列店のホテルに避難してください。という言葉に少しの疑問も示さず、吉田はあっさり車に乗り込んだ。無警戒にも差し出された水を飲み、今頃用意された部屋で眠っているところだろう。

「一日に二回も睡眠薬を盛られるなんて、吉田さん、ちょっと可哀想ですね」宮本は、隣に立つ志水を見上げた。

 夕陽に朱く縁取られた彼の顔を見ていると、こんな仕事をするよりモデルか俳優にでもなった方がいいんじゃないかと言いたくなる。歳はまだ若いはずだが落ち着いた雰囲気があり、長身でスタイルは抜群。少し茶色がかった柔らかそうな髪は短く整えられ、自然に前髪を掻き上げた風にセットされており、陶器のような白い肌に透き通った琥珀色の瞳が浮かび、その顔立ちは現実味がないほど整っている。黒いシングルベストと、黒地に白と金の細いラインが入ったストライプのネクタイ、白い薄手の手袋は、ホテル専属のハイヤーの運転手に扮するために用意された衣装のはずだが、あまりに様になり過ぎていて、彼はスクリーン越しにしか観ることが許されない存在なんじゃないかと思えてくるのだ。

「ここはホテルじゃないからな」と志水が背後に建つビルを振り返りながら言った。

 そう、吉田が運び込まれたのは、ホテルなんかではない。吉田の監禁部屋だけはホテル風の内装に改造したが、この建物は我が組織総合調整局の実験施設だ。

「眠っているうちに部屋に運び込んでしまえば、施設の場所もばれないし、ホテルでないことも分かりはしない。吉田を騙すためだけに新たにホテル風の建物を用意するより、余程現実的だろう」

 さあ、行くぞ。と志水に顎で促され、宮本は助手席に乗り込んだ。系列店のハイヤーと偽って吉田を乗せて来た黒い車体には、金色の文字で『ホテルトリステス』と実在しないホテルの名前が刻まれている。

「『トリステス』って、どういう意味なんですか?」エンジンをかける上司の横顔に尋ねた。

「『バルカロール』が『舟歌』だろう。あのホテルの系列店は、皆ショパンの曲のタイトルから名前を取っているんだ。『トリステス』は『悲しみ』という意味だが、日本では『別れの曲』として知られているな」

「悲しみのホテルって、ちょっと嫌ですね」

「だから実在する店舗には採用されていないんだろうな。『別れの曲』は、ショパンの中でも有名な曲なんだが」

「へえ、詳しいんですね。そういう設定も全部、志水さんが考えてるんですか?」

「いや。俺の役割は作戦の大枠の立案と総合指揮だ。基本的に、細かい設計は個別の担当に任せている」

「指揮を執りながら現場にも出るなんて、すごいですよね。今日なんか一人で二役もやってましたし」

 志水は坂本の手下を吉田から引き離すため、坂本を人質に取り、向かいのビルから脅迫の電話をかける役割を担当していた。その後志水は、手下の男と鉢合わせないように注意しながら素早く移動し、着替えを済ませ、吉田を乗せるハイヤーの運転手まで難なくこなしてみせた。なんてことない、と本人は言うが、ホテルから吉田を連れ出すだけで一杯一杯だった宮本には到底真似できない手際の良さだと思う。

 ちなみに、あの坂本は偽物だ。アルバイトで雇った似た体型の人物に、坂本愛用のものと同じデザインのスーツを着せ、さらに電話の発信番号を偽装して坂本から着信したように見せれば、本物の坂本を誘拐せずとも手下の男を誘き出すことはできる。これも志水が立てた作戦だった。

「いや。本来、指揮官が前線に出るべきではないんだ。万一俺が任務中に死んだりしたら、指揮が滞って混乱を起こしかねないだろう。俺が現場に駆り出されているのは、単なる人手不足だ。有能だからとか、そういうことじゃない」

「そうなんですか」とは言え、有能だからこそ、そんな無茶を任されてしまうのだろう。「志水さんも大変ですね」

「そう思うなら、せめて運転くらい代わってくれ」

「私からハンドルを取り上げたのは志水さんじゃないですか」今日の任務に向かう車を発車させた直後、事務所の敷地を出て僅か十メートルで、宮本は運転席を降ろされたのだった。

「反対車線を走ろうとする奴に運転なんてさせられるか。早くまともにできるようになれという話だ」

「まだ慣れてないだけですよ。私の地元、一本道しかないレベルの田舎だったんで、車線なんて見るの初めてなんですよ」

「後で運転訓練受け直しだからな」

 えー、嫌ですよ面倒くさい。という宮本の不平を振り払うように、志水はハンドルを切った。精緻に並んだ窓灯りの集合体がすいすいと後ろに流れ、下端に僅かに朱を残した空だけが追いかけてくる。

「ところで、吉田はこれからどうなるんですか?」麻薬密売犯なんてろくでもない人間には違いないが、あまり酷い目に遭うのも可哀想だな、と思い始めていた。

「じっくり尋問だな」志水は淡々と、物騒な答えを口にする。「初めのうちは丁重に扱うだろうが、吐かないようなら拷問だ。ただあの男、痛みや恐怖で支配できるタイプに見えないからな。苦労するかもしれない」

「うわあ。拷問もうちの課でやるんでしたっけ」できればやりたくないところだ。拷問は新人訓練でも扱われたが、数ある実技科目の中でも一二を争うほど気分の悪い内容だった。食べる目的でなく動物を痛めつけるのは、どうしても性に合わない。

「いや。拷問は情報部の担当だ。あそこに得意な奴がいるから、企画課に回ってくることはほぼない」

「拷問が得意って、どんな人ですか」ぎょっとして聞き返す。

「元犯罪者」

「げっ。元犯罪者なんて雇ってるんですか」

「うちは特殊な業務内容だからな。まともな倫理観を持ち合わせている人間より、犯罪者の方が扱いやすい場合もある。組織に必要なスキルを持っている奴を数名、懲役の代わりに働かせているんだ」

「ええ、そんなの信用できるんですか?」

「それは人による、としか言いようがないな。一口に犯罪者と言っても、その人柄も、罪状も、犯罪に至った背景も様々だ。当然信用できない奴もいるが、その場合は裏切れないように処置を施してある。いわゆる『首輪付き』と呼ばれる奴らだな」

「処置? ってなんです?」

「首に小型の爆弾を埋め込んであるんだ」志水は自分の首の左側の筋を、指先でトントンと叩いた。「自力で外そうとすれば、まず間違いなく頸動脈を傷つけて死ぬ。優秀な外科医なら摘出できるだろうが、裏切りが露見した瞬間、一刻の猶予も与えられず起爆されることになっているから、手術を受ける時間はないだろう」

「ひええ」なんて恐ろしいことをする組織なんだろう。「私の身近にも、その、首輪付きの人、いるんですか?」

「個人情報を言いふらすべきではないが、開発課の樋口ひぐちさんなんかは大っぴらに公言しているな」

「そうだったんですか」思わず大きな声が出た。

 樋口ひぐち眞希まきと言えば、情報部開発課のエース、宮本が情報部で研修を受けていた時に大変世話になった人だ。宮本が誤って消し飛ばした、超重要な機密情報が記録されたデータを復旧してくれた、大恩人である。たしかにおかしな人ではあったが、かと言って犯罪を犯すような悪人にも思えない。

「眞希さん、何して捕まったんですか?」

 ふー、と志水が溜め息をつく。顔色に浮かんでいるのは、疲れだろうか、呆れだろうか。「色々だよ。彼女は元々優秀なエンジニアだったんだが、持ち前のスキルを悪用してハッキングを行い、詐欺や脅迫など、思いつく限り様々な罪を犯した。違法な発明品も数知れずだ」

「ああ」容易に想像がつく。言われてみれば、彼女は悪意こそ持ち合わせていないが、好奇心の赴くままに平気で人道を外れそうな人でもある。

「おまえ、分かっているか? おまえだって、危うく首輪付きになるところだったんだぞ」

「え! なんでですか」身に覚えがない、とはこのことだ。「私犯罪なんてしてませんよ」

「銃刀法違反」

 志水が短く言い、ああ、と納得した。身に覚えがある。「それは大目に見てくださいよ」

「大目に見てやったから爆弾を埋め込まれずに済んでるんだろ」

 なるほど。犯罪者も様々、とはこういうことか。

「志水さんはたしか、元警察官でしたよね?」犯罪を取り締まる側の人間と罪を犯した人間が一緒に働いているとは、なんとも奇妙な職場だ。

「そうだが、意外か?」

「意外っていうか。元警察官がこんな仕事をしてるのが不思議です。うちの仕事、治安のためとはいえ違法なことばかりしなきゃいけないじゃないですか」

「研修で習っただろう。総合調整局は法の適用外だから、違法ではない」

「そういう問題じゃないですよ」

 ふん、と志水が鼻を鳴らした。多分、宮本の意図を分かっていてわざと的外れなことを言ったのだろう。

「何も不思議なことはないさ」志水が重たそうに口を開いた。「おまえのように民間からスカウトされた者もいるが、職員の半数以上は公的機関から引き抜かれた者だ。その中でも、元は警察関係者だった者が最も多い。元警察官だからこそ、法律の無力さを知っているんだろう」

「ふうん。志水さんも、法の無力さを嘆いて立ち上がった系なんですか?」

「どんな系列なんだ、それは」

 志水の視線が、助手席とは反対方向に流れた。その先を追うと、苦しそうに大きなお腹を抱えて歩く妊婦が、横断歩道の側で立ち止まったのだと分かる。どうやら彼女は少し休憩しただけのようで、渡ろうとする気配はない。

「俺は辞令が出ただけだよ」

「それだけでこんなやばい組織に入る人、います?」

 空はすっかり朱を飲み込み、じわりと藍が滲む闇のグラデーションに、金色の星が散り始めていた。

 実在しないホテルのハイヤーは、彼らの事務所に向かって走って行く。

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