序章『ヒロイック☆ギャング』(2)

 はて、どうしたものかと、妙に冷静な自分がいることに、吉田は驚いていた。

 ここ、ホテルバルカロールは、都内有数の一流ホテルだ。政治の舞台や大企業の接待の場としても重用され、海外セレブも多く出入りすることから、客室などのプライベート空間の機密性は高く、中で何が行われているかなど、ホテルの従業員ですら知る由もない。つまりは、この部屋で多少の騒ぎが起きたところで、誰も助けには来ないということだ。

 参ったな。手脚は椅子に縛りつけられ、身動きを取ることができない。目の前には鉄パイプを持った大柄な男が立っている。もう何度もあのパイプが振り下ろされ、身体中のあちこちが痛みで熱を上げているところだ。古株の組員である坂本さかもとが吉田のことを毛嫌いしていることは承知していたが、まさかこのような強硬手段に出るとは思いもよらなかった。

「痛い!」思わず声を上げてしまう。また、鉄パイプが吉田の側頭部を打ったのだ。威厳なんてあったものじゃないな、と自分自身に苦笑した。

「さっさと吐けよ、吉田さん」坂本の手下の男が、酒と煙草で潰れたガラガラ声で言う。「あんたが薬局の情報を全部握ってるってのは分かってんだ。早く吐かねえと、このまま殴り殺しちまうぜ」

 鉄パイプが空を切り、吉田の鼻面に当たる。痛い。が、手加減されているのが分かる。

 まったく、虚仮威しもいいところだ。この男が吉田に吐かせようとしているのは、吉田が経営を任されている麻薬密売事業の取引先の情報を記録した管理簿の在り処だ。

 麻薬密売事業はサプライチェーンの全ての工程が綱渡りの世界だ。途中で逮捕者が出ても事業全体に影響を及ぼすことがないよう、仕入れから販売まで、何重にも人を介した複雑なルートを構築しており、事業の全容を把握しているのは吉田だけだった。

 管理簿が見つからないまま吉田を殺してしまえば事業が立ち行かなくなるのは明白であり、現状、この男が吉田を殺すことは許されていないはずだ。逆に、管理簿を坂本たちの手に渡してしまえば、吉田は用済みとして殺されるのは確実だった。死ぬのと痛いのでは、痛い方が幾分かましだ。ならば、管理簿の隠し場所を吐くという選択肢は、吉田には存在しない。

 仮にこの男が恐怖で人を支配できるほどの威圧感を持ち合わせていれば、損得の勘定などできないうちに全てを喋ってしまっていたかもしれない。だが、膝を外に開き、上体を後ろに反らし、首を前に倒し、眉間に山を作って、低い声で怒鳴るその様は、覚えた型を懸命に真似て威圧を表現しているようであり、さながら仁王立ちで敵を威嚇するコアリクイを見るような微笑ましさすら感じられた。

 本物には、こんな小細工いらないんだよな。と、ある人物のことを思い浮かべた。一目、その瞳を見ただけで、自分の中に眠っていた恐怖の感情の蓋が否応なしに抉じ開けられ、底の見えない穴の奥から臆病風が吹き荒ぶ。本能が逃げろと警鐘を鳴らしているのに、脳は仕事を放棄し、呼吸の仕方すら分からなくなる。本物の威圧とはそういうものだ。あの経験をしておいたおかげで、今恐怖に支配されずに済んでいるのだから、彼には感謝しかない。

 ガツン、という音が脳天に響いた。頭頂部に腫れ上がるような感触がある。痛いというより熱い。いや、やはり痛いものは痛い。身体が動くうちにこちらから何か仕掛けるべきだろう。しかし、どうすれば。

 その時、ピリリリリリ、と、けたたましい電子音が耳を衝いた。

 男は顔を顰めながらスラックスのポケットに手を突っ込み、携帯端末を取り出した。そして画面を確かめると、さらに顔を険しくしながらも、すぐに端末を耳に当てた。

「すいやせん。吉田の奴、案外しぶとくて。まだ拷問中で」言い訳がましいことを口にした直後、男の顔色が変わる。「兄貴? 兄貴、どうしました?」

 兄貴、ということは、電話の相手は坂本らしい。彼の身に何かあったのだろうか。耳を澄ましてみるが、電話口の声はよく聞き取れない。くぐもった呻き声のようなものが聞こえる気もする。

「おいてめえ!」男が怒声を上げ、右手の鉄パイプを投げ捨てた。床のカーペットに鈍い音が響くのと同時に、吉田の胸倉が掴まれる。「兄貴に何かしやがったな」

「一体なんの話だ」言い掛かりにも程がある。俺はずっと、ここでおまえに殴られていたではないか。「何があったんだ」

「惚けてんじゃねえぞ!」

「おい」

 男が叫んだ直後、携帯端末から声が聞こえた。先程とは違い、今度ははっきりと聞き取ることができる。

「おい、聞いているか」

「なんだ。誰だてめえ!」男が唾を飛ばす。

 通話相手は、明らかに機械的に声色を変えている。彼、あるいは彼女が何者なのか、見当はついていないが、少なくとも坂本とその手下に対して友好的な人物ではないことは理解できる。敵の敵は味方、であってほしいところだ。

「カーテンを開けて、向かいの建物を見ろ。おまえのいる部屋から見て、丁度正面の位置だ」

 男は苛立ちを露にしながら窓辺に駆け寄り、乱暴にカーテンを引っ張った。すると男は息を呑み、「てめえ何者だ! 兄貴に何しやがる」と叫んだ。

 向かいの建物、この部屋から真正面に位置する窓に、二つの人影がある。一人はぐったりとして窓の外に突き出すように首を垂れており、顔を確かめることはできないが、その体型と服装から坂本だということが分かる。もう一人の人物は覆面で顔を覆い、全身黒い服で身を包んでいる。細身だが、決して小柄ではない坂本と比べても明らかに長身だ。記憶の中から彼と似たような体格の人物を探すが、思い当たらない。

「安心しろ。命に別状はない。が、この先のことは保証できない。心配ならば、早く迎えに来ることだ」

 手下の男の携帯端末は、まるで自動音声のような機械的な調子のメッセージを残し、ブツリと音を立てた。ふざけるな、どういうことだ、などと男は喚くが、もう電話口から答えが返ってくることはない。

 ちっ、と男は舌が千切れんばかりの豪快な舌打ちをし、再び吉田の胸倉を掴んだ。

「おい吉田」と声を荒らげる。「てめえ、後でただじゃおかねえからな。大人しく待ってろよ」

 男は捨て台詞のようにそう言った後、カーテンを閉め、ドタドタと足を鳴らしながら部屋を飛び出した。

 一体何事なんだ。

 何が起きているのか分からないが、逃げるチャンスがあるとしたら、今しかないだろう。言いつけ通り大人しく待つはずがない。

 しかし、吉田が縛りつけられられている椅子は、座り心地こそ至高だが、尻にぶら下げて持ち上げるには重過ぎる、重厚感のあるものだった。座ったまま引き摺って移動しようにも、カーペットの滑りは悪くびくともしない。がむしゃらに身体を前後に揺らし、振り子のように勢いをつけて立ち上がろうと試みると、勢い余って前につんのめり、なす術もなく顔面を床に打ちつけた。尻に付いたままの椅子はバランスを崩して横に倒れ、吉田は床でじたばたと踠くだけの魚となる。

 なんと情けないのだろう。椅子は倒れた状態ですっかり安定し、微塵も動くことができなくなってしまった。あっという間に与えられたチャンスを潰してしまった自分に、呆れ果てるばかりだ。

 やはり、映画のように上手くは行かないものだと、吉田は思う。昨日観た映画では、少女のピンチには颯爽とヒーローが駆けつけたものだが、現実でピンチに直面しているのは薄汚れた中年男であり、それを救おうとするヒーローもいない。だが、それでいいのだとも思う。物語は現実より、少しだけ美しいくらいが丁度いい。落ちも救いもないのなんて、現実だけで沢山だ。

 諦めからそんな無意味な思考に逃避していると、不意に部屋の入口の方からガチャリと音が鳴った。もう坂本の手下が戻って来たのかと身構えたが、トットットッ、という軽快な足音の後に吉田の目の前に現れたのは、女性物の黒いパンプスを履いた足だった。

「は?」思わず顔を上げた。そこにいるのは、ホテルバルカロールのフロントスタッフだ。

「お客様、大丈夫ですか?」

 スタッフは床に屈み、腰袋からナイフを取り出して、手際良く吉田を縛っていた縄を切った。フロントスタッフにはおよそ必要のなさそうな、本格的なサバイバルナイフが光る。

「君は一体」助けてもらった礼も忘れて、疑問が先に口を衝いた。

 身体を起こし、改めて彼女を見る。ホテルの制服を着ていなければ中高生と間違えてしまいそうなほど、幼い雰囲気の娘だ。

「私は当ホテルのスタッフです」これはペンです、と英語の例文でも読み上げるような調子で、彼女は言った。ディスイズアペン。分かり切っている。

「どうしてここに?」

「お客様を助けに来ました」

「だから、どうして助けに来られたんだ。この状況を知っていたのか?」

「ああ、それは、あれですよ」スタッフは斜め上に視線をやり、まるで暗記した台本を思い出そうとするような顔になった。「レストランで見かけたんです。お客様、さっき当ホテルのレストランにいましたよね?」

 一流ホテルのスタッフとは思えないフランクな物言いだが、それは一旦、置いておくことにする。

「ああ、いたな」そこで食事に睡眠薬を盛られ、目覚めた時には客室で拘束されていたのだ。

「その時のお客様の様子が、ちょっと変だったんで」

「それだけで?」

「はい。うちは一流ホテルですから」

「それなら一つだけ、言っておきたいことがあるんだが」やはりどうしても、その言葉遣いは気になる。「君は、新人かね?」

「あ、分かっちゃいます? これが初仕事なんですよ」

 その笑顔にあまりに屈託がないものだから、小言なんて言う気は失せてしまった。

 薄汚い中年男がこんな少女に救われるなんて、映画より愉快じゃないか。

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