ミスターカメレオン

七名菜々

序章『ヒロイック☆ギャング』

序章『ヒロイック☆ギャング』(1)

 両脚に痺れが走った。呻き声を上げそうになるが、怯んでいる暇はない。飛び下りた勢いのままゴロゴロと床を転がりながら、周囲の状況を把握する。

 ここは材木を保管する倉庫のようだ。それほど広くはない。管理者は几帳面な方ではないらしく、大小さまざまなサイズの板材や角材が乱雑に積み上げられ、立て掛けられている。

 敵は倉庫の出入口の両脇に二人、奥にある角材の山をソファ代わりにふんぞり返る男が一人と、その男を護るように囲う二人、中央の柱の近くに一人。そしてその柱には、小学校に上がったばかりくらいの年頃の少女が縛りつけられていた。

 六人か。舐められたもんだな。

 ベルトに挟んだ拳銃に手をかけながら、柱付近の男の背後で素早く立ち上がった。

 相手はまだ、突然屋根から降ってきた竜胆りんどうに呆気を取られて、事態が飲み込めていないようだ。

 躊躇なく男の後頭部を拳銃で殴ると、男は支柱を失ったマネキンのようにどさりと倒れた。そこでようやく、野太い声がぎゃあぎゃあと騒ぎ始める。

「助けに来たぜ、嬢ちゃん」竜胆は努めて明るい声で捕らわれの少女に言った。

「おじさん?」少女は驚きと安堵で混乱した瞳をこちらに向けた。

「お兄さんだ」竜胆はわざとむきになった素振りをしてみせる。二人のお決まりのやり取りだ。

 少女の目は赤く腫れ、頬には枯れた川のような跡が残っている。俺が来るまでに、どれほど怖い思いをしたのだろうか。

 無意識に左眼に手をやると、指先にひんやりと硬いものが触れた。幼い頃、実家と木虎きとら組の抗争に巻き込まれて負傷した際に視力を失い、今は義眼を入れているのだ。目の前の少女にあの日の自分の姿を重ね、胃がふつふつと沸き立つのを感じた。

「やってくれたなてめえ!」

 下っ端らしき男の威勢のいい怒声が倉庫の屋根を揺らした。それを合図に、残りの五人の銃口が一斉にこちらを向く。

「やり返される覚悟がねえ奴が手え出してきてんじゃねえよ」唸るような声で言う。

 角材のソファから男が立ち上がり、存在を主張するように一歩踏み出した。

「よく来てくれたなあ竜胆さんよ。だが正義の味方ぶってられんのも今のうちだぜ。てめえはここで終わりなんだからよお!」男の額の血管が破裂しそうなほどに浮き上がった。

 この男には見覚えがある。たしか、木虎組の次男坊だ。恐らくこいつが企みの首謀者だろう。

「俺は俺の信念に従ってるだけだ。そこに正義も悪もねえよ」と言い終えるかどうかのうちに、木虎の方に向けて引鉄を引いた。放たれた二発の銃弾は男たちの頭上を通過し、積まれた材木に当たる。

 男たちの表情は一瞬強張ったが、的外れの方向に弾が飛んだと理解すると、すぐににやけ顔に変わった。

「口先は一丁前でも銃の腕は三流か?」

「バーカ、狙い通りだよ」

 銃弾の衝撃を受けた材木の山は、ゆっくりと崩れていた。出入口側の男がそれに気付き「逃げろ!」と叫んだがもう遅い。材木はガラガラと大きな音を立て、側にいた三人を生き埋めにした。

「若!」出入口の男たちが雪崩に駆け寄ろうとする。

 その隙を突き、左側の男に向かって思い切り銃を投げつけた。直接撃たないのは子供に流血沙汰を見せたくないからだ。

 銃は男の額を割り、男は「ぐあ」と間抜けな声を上げて後ろに倒れた。

 そのまま地面に叩きつけられた銃は暴発を起こし、右側の男の頭上の蛍光灯を撃ち抜いた。男が音に反応して天井を見上げた瞬間、顔面に割れた蛍光灯のシャワーが降り注ぎ、汚い悲鳴が響く。

「おっと、これは計算外」

 可哀想に、目に入ったのだろう。男は痛い痛いと喚きながら、床に転がりのたうち回る。

 ともあれ、これで全員片付いた。

「ごめんな嬢ちゃん。大丈夫か?」竜胆は、侵入時に蹴破った窓ガラスの破片を拾い上げ、少女の背中側に回った。「すぐ解いてやるからな」少女を柱に縛りつけている縄を切ろうと、ガラス片を当てる。

「おじさん、ありがとう」少女は震える声で言いながら、こちらを見ようと体を捻った。瞬間、少女の顔から血の気が引いた。「おじさん危ない!」

 その声とほとんど同時に、頭に強い衝撃が走った。視界が白黒し、何が起きたのか瞬時に理解できない。

 なんとか頭を起こして振り返ると、材木に埋もれたはずの木虎が角材を振りかぶって立っていた。左眼の死角から忍び寄ってきていたのか。首筋を生温かいものが伝う。

「これで終わると思うなよ!」木虎が叫んだ。

 もう一発来る。しかし、脳がぐらぐらと揺れて上手く避けることができず、腕で受けるのが精一杯だ。

「嬢ちゃん、逃げろ!」

 縄は既に切れているが、少女は恐怖に凍りついて動くことができない。

「立て! 走れ!」

 もう一度叫ぶと、少女はスイッチが入ったように我に返り、倉庫の外に向かって駆けだした。走りながら「おじさん、がんばって!」と叫んでいる。

「おじさんはやめろっての」

 声援が力になったわけではないが、次の打撃は捕まえることができた。木虎の顔が悔しそうに歪む。

 竜胆が角材の端を抱えると、綱引きをするような格好になった。そのまま思い切り押し込むと、木虎はいとも簡単にバランスを崩して床に転がる。どうやら、雪崩で脚を負傷していたらしい。木虎はすぐには立ち上がれない。

 命を奪うつもりはなかったが、先ほど殴られた仕返しに角材を顔面に一発お見舞いした。木虎は悶え苦しみ、文字に起こせないような酷い悲鳴を上げている。

 これでしばらくは動けまい、と判断し、木虎に背を向けて歩きだした。そろそろここを去らなくては。この騒ぎではいつ警察が来てもおかしくない。

 痛みの余韻でぐらつく頭を抱えながら、足早に出口に向かう。半分しか上がっていないシャッターを潜ろうと、腰を屈めた。

 その時だ。「逃がすか!」という、獣の咆哮にも似た激しい怒声が後方で響いた。

 反射的に振り返ると、顔の真ん中を凹ませた木虎が根性で立ち上がっている。叫びながら何かを投げたのが目に入った。

「げ」手榴弾だ。

 咄嗟に野球の要領で、手に持ったままだった角材をフルスイングした。見事それはクリーンヒットし、芯を捉えた打球はピッチャーの方へ飛んでいく。

 着地点で手榴弾は爆発し、材木の山は吹き飛んだ。

 竜胆は背中で轟音を聞きながら、倉庫から走り去った。


「カット! OKです」

 今までに何万回も聞いたであろうそのフレーズで、神谷かみやの視界は現実に引き戻された。

 倉庫のセットの周りには、何台もの照明やカメラが設置されている。そこにはヤクザ者の揉め事とは縁遠いスタッフたちの姿があった。

 頭がクラクラする。呼吸が浅くなる。現実の俺はどれだったかな、とチャンネルを探す。


  ***


 無意識のうちに拍手をしていたことに気付き、宮本みやもとは手を止めた。夢中になるあまり忘れていたが、ここは自宅で、この時間を共有している人は一人もいない。

 昨年の映画市場で最大のヒットを記録した『ヒロイック☆ギャング』の公開から約一年が経過し、ようやくブルーレイが発売された。主演俳優の神谷かみやれいの大ファンである宮本は、当然発売当日に入手し、早速一人鑑賞会を開いていたのだった。

 神谷令が演じたのは、暴力団組織『竜胆会』の跡取り息子『竜胆りんどう京介きょうすけ』という青年で、ヤクザのくせに正義感が強く、身の周りに起こる様々なトラブルに首を突っ込んでしまい、それが次第に大きな事件に発展していく、というストーリーだった。硬派なアクションシーンと所々に挟まるコメディ要素の絶妙なバランスが可笑しく、幅広い層から人気を集めたのも頷ける。

 何よりハードボイルドな神谷令は新鮮で、それでいて格好良かった。強面が売りの俳優は多数いるにも関わらず、あえて彼をこの役にあてがったのは、天才の所業だと思う。

 エンドロールが終わり、画面は自動的にタイトルに戻った。

 もう一度再生ボタンを押したい衝動に駆られるが、ぐっと堪えて『取り出し』を押す。


 明日は大事な日だ。早めに寝よう。


  ***


 朝礼が終わると、小柄な少女が隣の席に着いた。

 宮本みやもと弥子みこ。合計約一年半に及ぶ訓練と研修を終え、先月この企画課に配属された新人だ。今年二十歳になったはずだから、少女よりは女性と表現する方が適切なのだろうが、顔にはあどけなさが残り、髪は高い位置で一つに結い、何を着ても袖を余らせている彼女は、活発な中高生にしか見えなかった。

「宮本。今日の任務の段取りは頭に叩き込んできただろうな」

 志水しみずはこの新人の教育担当を任されていた。身についたかどうかは別として、事務処理等のデスクワークは一通り教え終え、今日が彼女にとっての初任務となる。

「いえ、それが全く」宮本は悪びれる様子もなく、あろうことか堂々と胸を張って答えた。

「なんだと?」志水は思わず彼女の横顔を凝視してしまう。「覚えておけと言っただろう」

「いやあ。資料渡されたの、昨日じゃないですか。まだ読み終わってもないですよ」

「それは」いくらなんでも。「遅過ぎないか」宮本に渡した計画書は、たったの三十ページだ。

「私、文字読むのって苦手なんですよ。漫画ならまだしも、こういう資料って堅苦しくて、なんか頭に入んないんですよね」

「おまえ、昨日は定時丁度に退勤していなかったか? 仕事が終わってないのに帰るなよ」

「大事な予定があったんですよ」

「任務は常に死と隣り合わせなんだぞ。その備えより優先するほど大切な予定なんてあるものか」

「あるんですよ。荷物が届く予定だったんです」

「再配達を頼めばいいだろう」

「いいですか志水さん。荷物の中身は昨日発売のブルーレイですよ。初日に観なくてどうするんですか」

「ブルーレイ?」そんな物のために?

「映画のやつです」

「それは」呆れる余り、どうでもいい疑問が口を衝く。「観たことなかったのか」

「いえ。公開中は何回も観に行きましたよ」そこで宮本が、初めて恥じ入るような顔になった。「あ。と言っても、さすがに訓練中だったんで、週一回くらいしか行けなかったんですけど」

 志水は何も言えず、頭を抱えるしかなかった。全く理解不能だ。同じ映画を何度も観るのはどういう心理なのかとか、いつでも観られる映像作品を発売初日に観ることになんの意味があるのかとか、問い詰めてやりたい気にもなったが、興味もないし、今重要なのはそこではない。訊いたところで時間の無駄だ。

「もう。資料なら今から読みますから、話しかけないでくださいよ」宮本は言いながらデスクの方に向き直り、引き出しから書類を取り出した。

「昼には出発するんだぞ」宮本の手元の書類に栞代わりと思われる付箋紙が挟まっているのが目に入る。その位置はまだ、半分にも達していない。「昨日一日かけて読み終わらなかった奴が間に合うはずないだろう。口頭で説明してやるから、一回で覚えろ」

「いいんですか? 助かります」

 宮本の顔色がぱっと明るくなり、志水は溜め息を溢した。肝が太いのは重要な素質だが、あまりに奔放過ぎるのは困る。「今度の新人はとんだじゃじゃ馬だよ」と言った、新人訓練を担当した教官のくたびれた顔を思い出した。なるほどこれは手綱を握るのに苦労しそうだと、腹を括り直す。

「もう資料では読んだ部分だろうが、基本情報からおさらいしよう」

 志水は宮本の手から計画書を拝借し、ページを捲った。男の顔写真が印刷されたページを表にし、宮本の方に向けて置く。

「ターゲットはこの男。吉田よしだ幸平こうへい、四十六歳だ。近年問題になっている、とある暴力団が運営する麻薬密売グループの重要人物だ」

「悪人にあるまじきピースフルな名前ですね」宮本が無駄口を挟んだ。多分、思ったことが全て口から出るタイプなのだろう。

「誰もが名前の通りの人間に育つわけじゃないさ」名付け親を憐れむような気持ちで写真の男を一瞥しながら、志水は説明を続ける。「警察は長らくこのグループを追っていたが、最近の捜査でようやく吉田の存在を掴めたそうだ。吉田はサプライチェーンの管理責任者で、麻薬密売事業に関わるステークホルダーの情報を全て握っている可能性が高い」

「サムライのステーキがなんですって?」

「聞き違えてもそうはならないだろう」ふざけてるんじゃないだろうな、と確かめたくなる。「サプライチェーンは商品の調達から顧客の手に届くまでの一連の流れのこと。ステークホルダーは利害関係者。仕入先や職員、顧客などのことだ」

「それってつまり」宮本は考えるように顎に手を当てた。「全部ってことじゃないですか」

「まあ、そうなるな。吉田が麻薬密売事業の全権を握っていると言っても過言ではない」

「見た目は普通のおじさんなのに、結構やり手なんですね」

「だが、吉田は四十歳を過ぎてから組織に加入したという、異例のキャリアを持つ人物なんだ。前職では大手商社に勤めながら、副業として個人で違法薬物の売買をしていたところ、その手腕を買われて今の組織に入った。短期間で力をつけた吉田のことを敵視している者も、組織の中に少なくないそうだ」

「そりゃあそうなりますよ。外様に先に出世されちゃったら、古株組員の面子が立ちませんもん。抗争もやむなしですよ」

「おまえ、どうして妙なところだけ理解が良いんだ」

「昨日勉強しましたから。ヤクザは面子が命ですよ。『喧嘩は売られたら負けだ。売られる前に買え』って木虎が言ってました」

 誰なんだ、それは。と聞き返しそうになったが、面倒なのでやめた。多分映画の話だろう。

「まさにその、古株組員の一派が、吉田の暗殺を計画しているという情報が入った。今回の任務は、吉田の護衛だ」

「え、護衛しちゃうんですか?」宮本が不服そうに眉を顰める。「仲間に命狙われてるのは可哀想ですけど、そもそもこいつ、結構なろくでなしじゃないですか」

「吉田はようやく見つけた情報源だ。死なせてたまるか」

「それなら、殺される前に警察が吉田を逮捕すればよくないですか? 刑務所にいれば安全ですよ」

「そうしたいところだが、まだ逮捕に踏み切るに充分な証拠が揃っていないそうだ。一方、暗殺の決行予定は今日。間に合わない」

「警察って、どうしてそう猫も杓子もって感じなんですかね」

 杓子定規、と言いたいのだろうか。だとすれば、それは全くその通りとしか言いようがない。

「だから俺たちがいるんだろ」

 法律を正しく運用するのは必要なことだが、それだけでは守り切れないものが多過ぎる。そんな不条理を調整するために、我々組織、総合調整局が生まれたのだ。

 自身が警察官だった頃の記憶が蘇り、胃がキリリと痛んだ。

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