延宝八年 新年 吉原籠城決闘 序
「これを受け取るがいい」
「中村様。これは?」
「主計でいい。
お主も厩橋藩食客となったのだ。
その無闇にへりくだるのはやめておけ」
あれから数日後。年が明けた吉原に噂が広がり切った頃に蓬莱楼にやってきた中村主計の手から印籠が半兵衛に渡される。
その印籠には厩橋藩酒井雅楽頭家の家紋である片喰紋が彫られていた。
「俺はこの立会いの見届け人みたいなものだ。
お主がこれを持って居れば、厩橋藩酒井雅楽頭家食客であると分かるだろう?
吉原の戯言なれど、酒井様と堀田様の面子がかかった決闘だ。
下手な横槍は入らんようにせねばならん」
そう言った中村主計の顔はいつもの昼行燈のようにしか見えないが、目は真剣そのもの。
今までの昼行燈は擬態だったのだろう。
歓待の為に良い部屋に通して、火鉢で温めているが二人の体が震えるのは寒いだけではないのだろう。
中村主計は半兵衛と控えていた蓬莱弥九郎に向き直る。
その顔はいつにも増して真剣だが、どこか楽しげでもあるようにも見えた。
「半兵衛よ。立ち合いである以上、勝負を判ずる定めがなくてはならん。
とはいえ、お主の得物が種子島であるという事は石川新右衛門から聞いている。
それゆえに、いくつか取り決めをする事になる」
中村主計の言葉に半兵衛は無言のままうなずく。
蓬莱弥九郎共々身を引き締めて中村主計の言葉を待つ。
「まず一つ目。
お主には種子島を使う事を許す」
「なんと……!」
思わず声を上げたのは、半兵衛ではなく傍にいた弥九郎であった。
立ち合い相手の石川新右衛門は舘林宰相松平綱吉の剣術指南役を務めるほどの剣豪である。
彼相手の決闘で剣のみでは半兵衛の勝てる余地はほぼ無いに等しい。
それを理解していた石川新右衛門はわざわざ半兵衛の得物である種子島の使用を認めてくれたのだ。
驚く弥九郎の隣りで半兵衛は返事もせずに中村主計を見つめ続ける。
「次に二つ目。
勝ち負けは、月を超えるまでお主が斬られなかった事をもって勝ちとする」
破格と言っていい条件である。
吉原に籠城しつづけてもいいし、どこかに姿を消して月が変わるのを待ってもいい。
それで半兵衛の勝ちと言っているのだから。
だが、半兵衛は己の持っている印籠を強く握りしめる。
中村主計は楽しそうに笑う。
「はは。重たかろう。
それが侍の重さよ。それを忘れるな」
「横から口を挟ませていただきます。
中村様。この果し合い、半兵衛にすこぶる贔屓いただいているような気がするのですが、いかがなもので?」
弥九郎の口調が丁寧な割に凄みがあるのは、幕府隠密としてこの蓬莱楼を任された才覚から来た警告であろう。
おいしい話には裏がある。
この夜と欲の町吉原に巣食う者として当然の質問に中村主計は笑ったまま答えない。
火鉢の中の炭が割れる音が思ったより大きく響いた。
「さすがにこのような大勝負。
私どものような忘八者の言葉など耳に流されて当然なのは承知の上。
ですが、忘八者にも恩と義理がありましてね。
もし、万一の事があれば、この場で腹を切る覚悟もできております」
弥九郎の言葉にも凄みが乗る。
少なくとも蓬莱弥九郎はこの場だけでなく、この果し合いにおいても今の言葉で半兵衛側に立ったのだ。
半兵衛は印籠を握ったまま目を閉じて感情を押し込める。
「その言葉、半兵衛が負けたらお主の吉原の立場が無くなると分かっての事か?」
「蓬莱弥九郎。
この吉原の楼主であると同時に、この雑賀半兵衛に命を助けられた身。
その恩の返しどころはここにて」
印籠を持ったまま動けない半兵衛を挟んで、弥九郎と中村主計がにらみ合う事暫く。
顔を崩したのは中村主計の方だった。
楽しそうに、だが目は鋭く、斬るがごとく。
「ふむ。よい心意気だ。気に入ったぞ。
ならば、少しからくりを披露しよう。
半兵衛。お主、酒井様からどれぐらい聞いておる?
その時の言葉を思い出せ」
突然振られて戸惑う半兵衛であったが、思い返せば大老酒井忠清が彼に頭を下げた依頼は石川新右衛門を撃てだった。
曰く、彼を生かしておくと……半兵衛は自然に口から言葉をこぼす。
「酒井様の手の者が京に向かうのを邪魔する……そうか。
石川の旦……いや。石川新右衛門は、俺と戦う必要はないんだ」
石川新右衛門の狙いは宮将軍を迎えるために京に行く大老酒井忠清の手の者たちであり、その石川新右衛門を撃てる半兵衛が吉原に籠城するだけで、石川新右衛門の、彼の主君である老中堀田正俊の勝利となる。
それは次期将軍を巡る幕府の暗闘の決着であり、この果し合いの勝利以上の価値がある。
中村主計は半兵衛を見て満足げにうなずく。
「そういう事だ。
石川新右衛門を振り向かせるのがまず一つ目。
そして振り向かせたら今度は、その種子島で石川新右衛門の剣と相対せねばならぬ。
奴の剣は強いぞ」
中村主計の言葉に、半兵衛も同意するようにうなずく。
手の中で印籠をもてあそびながら。
「おい。気づいているか?」
中村主計が帰った後、弥九郎は厳重に見張った上で半兵衛を楼主の部屋に誘う。
そこまで警戒した弥九郎に首をひねりながら半兵衛は言われるがままに弥九郎の顔に耳を貸す。
その言葉を聞いて、持っていた印籠を取り落とすも、拾う事ができなかった。
「月が替わるまでと中村様は言った。
つまり、中村様、いや酒井様や堀田様といった幕閣のお歴々は、将軍様の御命は月を越せないって思っているんだよ」
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