延宝七年 大晦日 厩橋藩食客 雑賀半兵衛
吉原の大店『蓬莱楼』。
そこを一介の忘八侍が借り切るという事態がおかしいのだが、その借り切った店の一番いい部屋に居るのは俺と石川新右衛門のみ。
借り切りなのにどんちゃん騒ぎもなしという席で、俺と石川新右衛門はただ酒を煽る。
「ささ。まずは一杯」
「おうとも。しかし、どういう手を使った?
遊郭一つ借り切って、こういう席をもうけるとは」
石川新右衛門はが盃に注がれた酒を飲みながら問う。
これを言えば今までの関係が壊れてしまう。
それでも、俺は意を決して口を開いた。
「酒井様にお願いいたしまして。
まぁ、その前金という所でしょうな」
石川新右衛門の顔から笑みが消え、彼は静かに盃を置く。
俺も覚悟を決める。
もう二度とこの男にこうして会うことは叶わないだろう。
それほどまでに、石川新右衛門は強い。
だからこそ、俺にはそれが必要だったのだ。
「ほう。かの下馬将軍からの褒美がこれか。
それは、さぞ大きな獲物なのだろうな」
「ええ。
特大の獲物でございます。
その獲物の名は、堀田備中守食客兼館林藩剣術指南役。石川新右衛門と申しましてな」
遠くから除夜の鐘が鳴る。
当人を前に半兵衛はそれを言う。
ここで斬り殺される覚悟もあったが、それをしないだろうという確信も、これまでの付き合いからあった。
石川新右衛門は刀に触れず、盃を俺に突き出し、その言葉を噛み締めるように口にした。
「奇遇だな。
俺の名前が聞こえたようだが?」
「そうでしょうな。
石川の旦那のお名前ですからな」
半兵衛は石川新右衛門の盃に酒を注ぎ、彼はそれを一息に飲み干す。
石川新右衛門はまた盃を突き出して半兵衛はそれを満たす。
遠くからの除夜の鐘の音だけが部屋に届き、石川新右衛門はようやく口を開いた。
それは、感嘆のため息であり、納得の吐息でもあり、とても楽しげな笑顔だった。
「なんとなくだが、こうなるとは思っておったのだ」
「いつからで?」
「あの墓参りの時からよ。
いや、長谷川長兵衛を撃たれた時からこうなる事は決まっていたのかもしれんな」
半兵衛はそれに返す言葉もなく、石川新右衛門はただ笑うばかり。
その笑顔が半兵衛にはわからないのだが、石川新右衛門は実にわざとらしく尋ねてくる。
「むしろこちらからも聞こう。
なぜこの席を設けた?
そのまま撃っても良かったのだぞ?」
確かにそうで、あのまま黙って殺せばよかったはずなのだ。
しかし、半兵衛はどうしても知りたかったのだ。
この男の侍としての生き様を。
ここまで忠義を貫く理由は何なのかを。
「これが普通の依頼ならば、そうしていましたよ」
だから、半兵衛は答える。
素直に答えてしまったのはこの男との関係を壊したくなかったからだ。
「酒井様が、あの下馬将軍がここに来て頭を下げたんですよ。
『頼む』って。そりゃ断れません」
「そうか……」
そう言って石川新右衛門は懐に手を入れる。
半兵衛は反射的に身構えるが、石川新右衛門の手にあったものは煙管であった。
「貴公も吸うか? 煙管ぐらいならあるぞ」
「いただきましょう……石川の旦那の事だ。
毒なんて入れてないでしょう?」
「当たり前だ。
お前を殺すなら、とっくに斬っておるわ」
そう言うと石川新右衛門は笑いながら煙草盆に火皿の中の灰を落とす。
半兵衛はその仕草を見ながら、懐から煙管を取り出して火をつけると、ゆっくりと吸い込み、肺の奥まで行き渡らせて吐き出す。
すると、紫煙はゆらりと立ち上り天井へと消える。
「そうだな。
それを知りたいなら、侍に成ることだ」
ぽつりと、まるで独り言のように呟く石川新右衛門の言葉を聞き逃さなかった。
侍になる事。それがこの男への近道だと直感する。
だからこそ、半兵衛はもう一度はっきりと口にした。
「侍。
この忘八者が?」
「そこよ。酒井様直々の依頼で、この褒美。
達成すれば、仕官とてどうとでもなるし、討たれても酒井様の名に泥がつかぬ」
確かに酒井様はそういう方ではあるが、まさか半兵衛という忘八侍如きをそこまで評価しているとは思えない。
これは何か裏があるのではないかと思うが、それを口にする前に石川新右衛門は笑みを浮かべたまま口を開く。
「俺を見よ。
堀田備中守食客兼館林藩剣術指南役と聞こえはいいが、要するに役無しの剣客にすぎぬ。
それでもお主にこういう顔ができるのは、堀田様と舘林様という主がいるからよ。
侍とは詰る所それよ」
「そういうものですかね?」
「他人事のように言うでない。
厩橋藩食客。雑賀半兵衛よ。
お主はこれからそう名乗れ。
きっと酒井様はそれを咎めはせぬし、俺の主である堀田様と舘林様がそれを認めようぞ」
石川新右衛門はさも当然のように嘘をあっさりと言う。
その言葉に半兵衛はふと己が泣いている事に気づいた。
「俺は……俺には願いがあったんです」
「ほほう? なんだそれは?」
半兵衛は涙を流しながらも、必死に言葉を紡ぐ。
もはや、この男以外には語れない言葉を。
忘れてしまいそうな記憶を今一度、思い出すために。
「なぜ、俺を育ててくれた由井正雪先生は浪人のままで死んでしまったのか?
あの人が焦がれた侍とは一体何だったのか?それを知らねばならない。
そのために、俺はこの吉原て忘八侍として生き続けてきた」
「なるほど。
その答え、きっと石川新右衛門との戦にて分かるだろうよ」
ただの夢物語のはずだった。
それでも、その夢に手が届くところに半兵衛は来てしまった。
その代償は、目の前で笑うこの石川新右衛門との死闘。
わかっていても、半兵衛はこの道を進むしかない。
もう、後戻りはできないのだ。
そんな事を考えていれば、石川新右衛門はまた酒を盃に注ぎ、一気に飲み干すと盃を置いて口を開く。
それは、半兵衛が石川新右衛門を知る限り、最も真剣な声色で発せられた言葉。
「良いか。
侍とは生きる為に戦うものだ。
そして、守るべきものの為に死ぬ事を躊躇ってはならない。
もし、それが分からなくなった時には俺を呼べ。
お主が俺の首を獲れる日を楽しみにしている」
それは、武士の心得とも言える言葉であった。
石川新右衛門は、半兵衛が江戸で見たどの武士よりも強く、そして、誰より高潔な魂を持った男であった。
「ご教授ありがとうございます。石川の旦那……」
「待て待て。
同じ侍だろうが。
新右衛門と呼び捨てて構わん!」
「いや、それはちょっと……」
「駄目だ!
もっと堂々と呼び捨てにせぬか!!」
除夜の鐘はいつの間にか終わっていた。
半兵衛と石川新右衛門はそうして笑い合う。
この夜、半兵衛が侍になる為の道と石川新右衛門との死闘が開かれたのであった。
開けぬ朝はない。
それは吉原でも同じであり、新年の開いた吉原大門の前まで俺は石川新右衛門を見送る。
「では。し……新右衛門。
次は戦場で」
「応とも。
楽しみにしておるぞ」
ゆっくりと吉原を後にする石川新右衛門が橋を渡り切った後で振り向く。
その大声は、正月の吉原によく響いた。
「堀田備中守食客兼館林藩剣術指南役石川新右衛門が、厩橋藩食客の雑賀半兵衛に果し合いを申し込む!
返答は如何に!!」
石川新右衛門の顔が笑っていた。
その笑顔がまぶしくて、半兵衛も笑顔なのだろうと自覚した。
「厩橋藩食客の雑賀半兵衛!
その果し合いお受けいたす!!」
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