延宝七年 年の瀬  下馬将軍と忘八侍

 吉原の夜が重たい。

 華やかな吉原ですらこの空気なのは、江戸城内の争いがついに江戸の町中に降りてきたからに他ならない。

 病がちの将軍徳川家綱の側室ご懐妊。

 それはめでたい事ではあるが、既に次期将軍は舘林藩主松平綱吉を既定路線にしていたものだから、幕閣は真っ二つに割れた。


「このまま舘林宰相様を次期将軍に」


 老中堀田正俊が主張すれば、大老酒井忠清がそれに制止をかける。


「御子が男子だった場合はどうする?

 まだ慌てる必要はない」


 江戸の街には知らせていないが、将軍家綱の病状は重たく年を超えるのは無理と御殿医がついに明かした事で、最悪の状況に陥る可能性を幕閣は恐れたのである。

 その最悪とは、現将軍徳川家綱が死に、松平綱吉が次期将軍となった後で、ご懐妊した側室が男子を生む事。

 そうなったら将軍となった松平綱吉の正当性が崩壊しかねない。

 だからこそ、酒井忠清は制止する。


「何も儂とて舘林宰相様の才を疑っている訳ではない。

 むしろ、その才を十二分に活かしてほしいからこそ、少しの時間待ってほしいと言っておるのだ」


「上様がもしそれまで持たぬ場合は?」


 堀田正俊が正論鋭く酒井忠清を追求するが、酒井忠清はさも当然という風に故事を語る。

 それは切り札であり、宣戦布告でもあった。


「古、鎌倉殿の御世には宮将軍と称して京より宮様を招いて将軍に据えていたではないか。

 御子が生まれるまでの少しの時で良いなら、それでしのげるというもの」


 更に厄介だったのが、ご懐妊した側室お満流の方が大奥に入られたのは、大老酒井忠清の屋敷に将軍が御成りになった際に見初められたというのだから口賢しい者は、


「本当に将軍様の御子か?」

「まさか、酒井様が……」


なんて陰口すら出る始末。

 かくして、この時をもって江戸城だけでなく江戸の街でも酒井忠清と堀田正俊と対立が口に上る事になる。

 そんな大老酒井忠清が吉原の『蓬莱楼』にお忍びで来ていた。

 『蓬莱楼』を豪商河村十右衛門の名前で借り切ってお供はどんちゃん騒ぎをやっている中、当の本人は一番小さな部屋で一人酒を飲んでいた。

 共の侍すら下げ、部屋に居るのは俺と蓬莱弥九郎のみ。

 俺も弥九郎も酒井忠清を直に見る身分でないから平服するのを酒井忠清が制する。


「このような場所で身分も何もあるまいて。

 折角の料理が冷める。食べぬか」


 下馬将軍こと大老酒井忠清の前で七輪の上の鍋が音を立てている。

 彼ほどの身分になると、毒を警戒せねばならぬが、毒見役を呼ぶと話が漏れる可能性が増える。

 こういう時に鍋というのはありがたく、弥九郎自らが幇間の真似をして鍋に箸をつける。


「では失礼して……これは旨い!」

「おい。弥九郎。お前の店だろうが。

 いつも食べている物だぞ」

「馬鹿野郎!ここでこう持ち上げるんだよ!

 さぁ、酒もございます」


 小さな鍋の中で豆腐が揺れていた。

 半兵衛が畿内に修行に行った際に覚えた料理の一つだ。

 茹でた豆腐を醬油の入った小皿に取り、口にした酒井忠清は一言。


「……熱いが美味いな。

 屋敷では食べられぬ味よ」


「上方料理の湯豆腐にて。

 酒もそれに合わせた物を」


「はは。そんな太鼓持ちの言葉を聞くと吉原に来たと実感するの。頂こうか」


 そう言って盃を傾ける酒井忠清だが、俺はその横顔を見て察してしまう。

 彼の笑顔は目が笑っていなかった。

 俺達のような裏方には分からないが、この男のその目が全てを物語っていた。


「美味いな。それにせっかくの酒にふさわしい話でもしようか」


 酒井忠清の言葉に重さが加わる。

 下馬将軍と称され、幕府を主導してきた男の重さから出た言葉が軽い訳がなかった。


「巷で噂されている幕閣の諍い事だが、まぁ、本当だ。

 というか、堀田と儂はいずれこうなる事は分かっておったのだ。

 それに悔いはないが、かといってこのまま負けるつもりもない」


 その目に宿るのは闘志。

 半兵衛も弥九郎もそれを見た瞬間に背筋が震える。

 この男は勝つ気なのだ。それも自分の手で。

 だからこそ今、ここにいる。

 ならばこそ聞いておかねばならない事がある。

 それが半兵衛の仕事であり使命でもあるからだ。

 彼は頭を下げて酒井忠清に向けて言葉を紡ぐ。


「で、俺に誰を撃てと?」


「ここに来て、共すら下げさせて、お主らとこうして酒を酌み交わすのだ。

 決まっておろう」


 酒井忠清の言葉は酔った風を装いながら重たい。

 それを考えなかったと言えば嘘になる。

 だが、酒の席という誤魔化しの果てに、酒井忠清はその言葉を口にした。


「堀田備中守食客兼館林藩剣術指南役。石川新右衛門だ」


 この男は、酒井忠清は半兵衛と石川新右衛門との付き合いを知った上でこの言葉を吐いた。

 半兵衛も腹をくくらなければならない。

 何故なら、これは仕事であると共に半兵衛の意志だからだ。


「撃つならば理由を。

 石川は堀田様の御恩顧。

 それを撃つとなればそれなりの理由が必要です」


「そうだな。それは言わねばならぬか。

 近く、儂の手の者たちが京に上がるのだが、間違いなくこいつが邪魔をするからよ」


 世情を半兵衛よりも知っている弥九郎が口を挟む。

 既に太鼓持ちの顔なんてしていなかった。


「宮将軍を京より迎えるという噂は本当でしたか」


「左様。古の執権よろしく政を壟断するといえばまだ悪役にもなれようが、そこまでこの大老という座の座り心地はよろしくない。

 だが、上様の御子が生まれる前に舘林様を将軍に座らせるのは筋が違う」


 酒井忠清が寂しそうに笑う。

 勝っても負けても恨まれるのは目に見えているのに、その寂しさには誇りがあった。


「儂はな。上様の忠臣なのだ。

 将軍家綱様の大老酒井雅楽頭忠清なのだ。

 堀田が舘林宰相様の忠臣でいるようにな」


 それは半兵衛にとっての理想の姿。きっと彼は誰かにそんな風に思われたかったのだろう。

 酒井忠清にとってこれが最後の奉公であり、自分の意志を伝えるために、彼は半兵衛に頭を下げた。

 『下馬将軍』酒井忠清が、一介の浪人、忘八侍の半兵衛に。


「頼む。引き受けてくれないか」


 彼がどうして大老に、『下馬将軍』と呼ばれるまでの権勢を誇ったか二人はそれを目にした。

 そして、その権威の源泉を覗き、彼の願いを聞いた以上、応える義務がある。

 半兵衛はその言葉に答えを返す。

 その言葉は、彼の言葉への返事でもあった。


「断る返事はありませんでした……が、一つだけお願いを聞いていただきたい」

「何なりと申せ」

「この事を石川新右衛門に伝えてもよろしいでしょうか?」


 半兵衛の言葉に酒井忠清は目を丸くした後で豪快に笑い出す。

 それは彼がここに来てからの心からの笑顔だった。


「はっはっは!やはりお主は面白い男だ! いいだろう!

 こんな争いに巻き込むのだ。ここでの宴席ぐらい儂の驕りにしてやるぞ」


「有難き幸せにございます」


 半兵衛は侍の真似事よろしく平服する。

 この瞬間、この場所でのみ、彼は酒井雅楽頭忠清の侍となったのだ。

 それを由井先生はどう思うのか、半兵衛はそんな事を頭を下げたままふと思った。

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